第一章 裏の世界〈オスクロウィア〉
Ⅰ
裏の世界で旅をする青年――ノアは電脳世界を歩き回っていた。
行き先はないが、目的はある。
ノアはひたすらに歩き回って、あるSNSに辿り着いていた。
黒いアイコン、以前は青い鳥のアイコンだったSNS。呼び方も変わったらしいが、今もなお旧名で呼ぶ人間が多いと耳にする。
だが、そんなことはノアからしたらどうでも良いことであった。
ノアからしたら重要なことは、今もなお中で続いている負の連鎖、それを止めることだけであった。
ノアは辿り着いた黒いアイコンを静かに見下ろす。足元にあるそのアイコンは、元から黒く染まっているが、何やら不穏な空気を醸し出していた。ノアはそれを一瞥し、迷うことなく飛び込んでいく。アイコンの中へと飛び込めば、SNSが作り出す電脳の世界が広がっており、ゆっくりと降下していった。まるで、箱がないエレベーターのように、それはもうゆっくりと。
下降しながら広がっている世界に目を向ければ、ところどころで黒く染まっている場所が目につく。大きなもの、小さなもの、集中している箇所もあれば、散らばっている箇所もある。目を凝らして見てみれば、それは穴であった。そしてそれは徐々に拡大していっていた。一目見て分かるものではないが、時間が経過していけば一回りも二回りも大きくなるはずだ。
その要因は、時間だけではなかったが。
ノアは降下しながら苛立つままに舌打ちをする。以前と違い過ぎる光景に、焦りを覚えた。
「オスクロウィアが、増えてやがる……!」
ノアが少し前に訪れた時よりも、遥かに穴の数が増えている。大きさはまちまちではあるものの、その一つ一つも以前より拡大しているように見えた。数自体も多くなっているものの、それ以前からある穴が大きくなっている。しかも、数が減ることもなく増え続ける一方など、ノアからしたら「最悪」の一言以外の何ものでもなかった。
何がそんなに広がる原因だ……!
ノアはSNSに関して、たいていのことは知っていると自負していた。ノアが呼ぶ、「オスクロウィア」というものが増えている理由も知っていた。
原因は――SNSにはびこる黒き闇たちであった。
批判、暴言、誹謗中傷、闇バイト……。上げ始めたらきりがないが、それらを筆頭とした闇たちがSNSを徐々に黒く染め始めている。
人間の欲を満たす方向が、悪の方向へと向かい始めているのであった。
それは電脳世界では黒い穴となり、そしてそれは闇が深くなれば深くなるほど大きな存在となっていた。
それをノアは「オスクロウィア」と呼んでいる――。
ノアは電脳世界の地に降り立つと、中を歩き回りながら現状を確認していく。
「ったく、次から次へと言いたいことばかり好き勝手に書きやがって」
ノアは一つのオスクロウィアを覗き込む。遠目で見ていれば先の見えない底なしの穴であるが、中を覗き込めばそれは違う姿を現す。
その中では今もなお更新され続けている終わりの見えないSNSが、慌ただしく動いているのだ。人間によって生み出される投稿の数々が、目まぐるしく更新されて刻まれていく。
オスクロウィアは一つの投稿の闇が元となって生まれている。その元の発言に、コメントがかぶされ、さらに闇が生まれていけば徐々に穴は拡大されていくのだ。そして、その投稿が増え続け、さらに肯定や否定のコメントが何百、何千と増え続けていけばそれがいわゆる「炎上」と呼ばれるものに発展していくのだ。
ノアが覗き込んでいるオスクロウィアの中でも、更新速度は衰えを知らない。
確か元の投稿自体は一週間ほど前に投稿されていたはずであった。
それに対してのコメントがいまだに多く投稿されている。よっぽど人々の目に留まったのだろうが、それにしては勢いがあり過ぎていた。
「……ったく、言いたいこと言いやがる。しかも、顔が出ていない奴がほとんどじゃねえか」
ま、顔が出ているからと言って、何を言ってもいいわけではねえけどよ。
ノアは頭をガシガシと掻く。面倒くさい、それが隠されることなくありありと表情に出ていた。
ここ最近のSNSはどうにもすぐに炎上なり、批判なりの言葉が多く飛び交っているように感じる。ノアがそう感じているだけなのかもしれないが、おそらく一番電脳世界にかかわっているノアがそう思っているのであれば間違いないだろう。
内容はだいたい以下の通りだ。
テレビに出ている芸能人について。
日常生活で起こったことについて。
ニュースで流れている内容について。
そのすべてが闇に染まっている内容ではないものの、目につく内容が特にそれらに関することが多いと感じていた。
意見という形から、だんだんとコメントが増え、誰かが何かを発言すればその発言に対しての意見という形でさらにコメントが増えていく。増え続けていけば、もはや何の会話が元だったのか、何について話していたのか分からなくなることもしばしばだろう。
それはさておき、ノアは舌打ちをついて感想を述べる。
「そいつの正義が、何かは知らねえけどよ……」
違うやり方があるんじゃねえのか。
そう続けられた言葉は、誰にも届くことはない。
人間に直接言ったところで、変わることはない、彼はそう思っているのだ。人間の嫌なところなど、SNSを通じて嫌というほど見てきた。彼の中で、半ば諦めている部分があるのだろう。
歴史は繰り返される、誰が初めて行ったのかは知らねえが言い得て妙だとノアは思った。誰かが失敗し、誰かが過ちを犯して、そして同じようなことが今も繰り返されている。
誰かが失敗したことを、何故学ばない。
誰かが間違えたことを、どうして繰り返そうとする。
誰かが道を踏み外して、何故一緒に道を踏み外そうとする。
ノアはそれがどうしても理解できなかった。疑問が生じてきて、怒りが湧きおこり、どうしようもない複雑な想いを抱えて苛立つだけ。
そんなところはよく人間に似ている。
だが、彼の違うところはすぐに諦めてしまうところだ。
「……考えたって仕方がねえか。人間はよく分からねえし」
ノアは頭をガシガシと掻いてから肩を落とす。そして、オスクロウィアへと視線を落とした。
今もなお、徐々に徐々にと広がって大きくなっているそれ。大きくなればなるほど、より深くなって闇が濃くなっていく。
まるで、底の見えない底なし沼のように――。
人間を捕えて二度と地上を拝ませないようにしている、そう錯覚してもおかしくないだろう。
ノアには特にそう見えていた。
一度道を踏み外したとすれば、そう簡単に戻ることはできない。抜け出せない穴からいくら出ようともがいたところで、ずぶずぶと飲み込まれていくだけなのだ。あがいて、もがいて、抜け出そうと試みて。それすらも嘲笑うかのように下へ下へと引き込まれていく。蟻地獄のようなものだ。
一度行ったことは二度、三度と繰り返す。それが、人間……。
ノアは首を横に振った。思考を振り払い、頭をクリアにしていく。
いつまで思考に引っ張られるつもりだ。そんなこと俺がしても仕方がねえって分かってんだろうが。
自分に強く言い聞かせて現実を見る。現在一番歯止めが利かなくなっているオスクロウィアの暴走を止めることが自分の役割だ。
「他のオスクロウィアと合体したら、厄介なことになる……!」
オスクロウィア同士が近づけば、磁石のように引き寄せられて大きなオスクロウィアへと変化をする。負の感情が負の感情を呼び合わせるように、オスクロウィアでもその現象が起きてしまうのだ。
そうなれば、被害が確実に拡大していく――。
ノアはオスクロウィアの中を確認してどれが原因なのかを突き止めようと動き出す。
「……原因の奴はどれだ」
右手を前に突き出す。すると右手が青白く光り、オスクロウィアが反応を示していく。オスクロウィアも青白く光るが、ノアに近いものは光が弱い。つまり、今回の暴走には関係ないものだ。のちに大きな障害となるかもしれないが、対処はまだ後でも問題ない。
やがてノアからかなり離れた場所で強い光が出現した。ひと際大きなオスクロウィア、それが他のオスクロウィアにくっついてしまいそうなほど広がってきている。
「……あれか」
ノアはコツ、コツと靴音を響かせて空間を歩いていく。他のオスクロウィアには目もくれずに、一直線に進んでいく。足取りはゆっくりだが、その一歩一歩に重みを感じた。辿り着いたオスクロウィアを上から除く。そして、その光景に眉を寄せた。
SNSの投稿は一分一秒と止まることなく更新されていく。止まるということを知らないのだ。SNS自体はたくさんの人間が使用している。人間の数だけ投稿の数がある、それは止まることを知らないだろう、アプリの不具合でもない限り。
そのオスクロウィアに関しても、更新は止まらない。一時、炎上をしていたようだが、その期間は終わったらしい。ただ、元の投稿に関してのコメントが止まらないところを見る限り、まだ一部の人間が言いたいことを言っているのだろう。
ノアはオスクロウィアから顔を上げて、自分の顔の前で右手をスライドさせた。すると、最新の投稿が姿を現せた。その後ろにはいくつものページが重なっている。ノアは元の投稿を確認するために次から次へと掻き分けていった。そして、最初に投稿された内容にようやく辿り着く。
ゆっくりと目を通してからノアはその内容をねめつける。怒りを率直にぶつけるかのように、親の仇を見つけたかのように。そして、盛大に舌打ちをした。
「……クズが」
Ⅱ
ところかわって、人間界――。
この世界で、ある噂が有名となってきていた。
「SNSに悪しき心を流す者、地獄より伸びし鎖にその身を囚われ為すすべなく引きずり込まれることであろう」
誰が言い始めたのか、どこから流れてきたのか、風の噂は瞬く間に広がった。
ただ、この噂を真だと言い張る者もいたが、ほとんどの人間が信用していなかった。都市伝説か何かだろう、そう思う者が多かったのである。
かくして、ここにもその中に含まれる者が一人――。
「ちぇ、あまり今回は伸びていねえな」
彼の名前を藤真匠李といった。
彼がSNSに投稿する内容は基本的に批判のくくりに該当するものだった。身近に起こったこと、芸能人のこと、見た作品など、ありとあらゆるものに関してぶった斬るアカウントでそこそこ知られていた。
中でも、最近注目されていたのは、テレビ出演されていた歌手の歌が下手だと投稿したことであった。同意見のものが多かったらしく、瞬く間に彼の投稿は注目された。
批判的な投稿は皆も行っていることだし、共感されやすい。
そう思って匠李は次から次へとそのスタンスで投稿をしていったのである。
表示回数もぐんぐん伸びていき、匠李はそれが嬉しく、ご満悦であった。
だが、その後に投稿した何件かはだんだんと勢いが弱まり、伸びなくなってしまった。
今もなお伸び続けているのは件の内容だけである。
「もうちょっと、伸びれば良いのになあ」
反応が増えれば、自己肯定感が上がる気がした。
表示回数が増えれば、自分が有名人にでもなったかのように錯覚した。
自分の投稿に視線が集まれば集まるほど、自分が正しいことを言っているのだと自信が付くように思えた。
だからこそ、やめられないのだ――。
一種の中毒になりつつあることには、匠李は気が付いていなかった。
匠李は毎日自分の投稿を細かくチェックするようにしている。今までかなりの数の反応をたたき出してきた内容は極わずか。なかなか伸びる投稿は少ない。
だからこそ、やめられない。まだやめるわけにはいかない。引くことができない。わずかなプライドに邪魔されて、彼は投稿を続けていた。
そして、反応は表示回数を増やすにはどうしたら良いのか、そう思考の海に潜ろうとしたその時だった。
『――見つけたぜ』
突如、自分のものではない声が匠李の耳に届く。
匠李は手を止めた。そして、思わず周囲をキョロキョロと見渡してみる。
だが、誰もいない。当たり前だ、一人暮らしの自分の部屋に自分以外がいるはずがなかった。逆に自分以外の人間がこの場にいるとしたら大問題である。
不法侵入。不審者。怪奇現象。
不穏な言葉が次々と頭の中に浮かぶ中、匠李の手元からコンコンとノックする音が聞こえてきて。
『おいこら、どこ見てやがる。目の前にいるだろうが』
次いで聞こえた声に匠李はびくりと身体を震わせた。やはり聞こえてきている。誰もいないはずの部屋、自分に以外がいない部屋で、第三者の声が確かに届いている。
音楽も動画も、テレビですらつけていないこの部屋で、誰かの声が匠李の耳に届いている。
背筋がぞくりと凍る中、いまだにノックの音が聞こえていた。そして、匠李はふと先ほどの言葉を思い出す。
第三者の声は確かに言った、「目の前にいる」と。
しかも、ノックの音も匠李の手元から聞こえてきている。玄関から聞こえているのだとすれば、もっと微かな音となるはずだ。聞こえるか聞こえないかの境界線、それぐらいの音量で自分が気が付くかも定かではない。何より玄関にはインターホンがある。ならば大抵の人はノックすることもなく、迷わずにインターホンを押すことだろう。
匠李は恐る恐る視線を手元に落としてみることにした。恐怖で見たくない気持ちが勝るものの、手元から聞こえてくるとすれば手元を確認するしかない。そして、匠李の手元にある物といえば、スマートフォンのみ。ならば、スマートフォンを確認するしかない。
目を細めてゆっくりとスマートフォンの画面を覗いてみれば、そこには――。
「……はあっ⁉」
匠李は驚きのままに声を上げた。
画面には自分が設定したはずの待ち受けはない。そこには見慣れない青年が姿を映して、しかも内側からノックを続けているではないか。
青年は自分と同じぐらいの人間に見えた。顔がやけに整っているとは思うが、見た目はどうみても人間だ。絶えず聞こえていたノック音だったが、匠李が気が付いたことに青年は気が付いたようで。ようやくノックするのをやめてニヤリと笑った。
『ようやく気が付いたか、遅えんだよ、気が付くのが』
「え、待ち受け変わっているんだけど⁉ というか、誰……。も、もしかして、AI⁉」
『待ち受けじゃねえし、AIでもねえわ』
青年は大きく肩を落として吐き捨てるように告げた。その姿は匠李を馬鹿にするような雰囲気が滲み出ていた。
匠李は内心苛立ちながらも、スマートフォンを睨みつけるだけにとどめた。こめかみがピクピクしてしまったのは仕方がないだろう。
すると、青年がゆっくりと口を開く。
『ったく、てめえのせいでオスクロウィアが増え続けるわ、広がって大きくなるわ、最悪な状況が続いている状況なんだわ。責任、取ってもらうぜ』
青年が何を言っているのか、匠李はまったく理解ができない。心当たりもないが、とにもかくにも誤解を解くことが先決だと考えた。
「な、なんだよ、責任って……! それに、オスクロウィア? って何のことだよ――」
『知らねえなんて言わせねえ。てめえが自分の言葉で世にもたらしていることは隠しようもねえ事実なんだからな』
目の前にいる青年は確信を得ているようだ。自信満々に、そして鋭い視線を匠李へ向けてくる。
その視線はすべてを見通すかのようであった。匠李はその視線から逃れたくて、でもどこか目の前にいる青年に負けたくない気持ちもあって。頭の中に「引きさがる」の文字は出てこなかった。
そんな中、青年が隠すことなく舌打ちをする。埒が明かないとでも思ったのかもしれない。どこか苛立つように、どこか諦めている表情で面倒くさそうに告げる。
『見せたほうが早えな。さっさと来い』
匠李は「はあっ⁉」と言い返す。
「無茶言うなよ! しかもどこに行けっていうんだ、お前がいるのはスマートフォンの中だろ⁉ 大体、俺がお前の言うことを聞くわけ――」
『四の五の、ギャーギャーと騒ぐな。てめえに拒否権なんてもんはねえんだよ。どうせ、俺からは逃げられねえんだしな』
青年はどこか楽しそうにクツリと喉の奥で笑った。だが、その目は依然として笑っていない。先ほどまで内側から叩いていた右手を画面の端に伸ばして何かを引っ張るような素振りを見せた。それから少し画面から離れて何かをしっかりと握って匠李を捉える。
『さあ、招き入れてやるよ、人間』
青年がそう告げた瞬間、匠李の背筋に悪寒が走った。やばい、本能的に何かを感じ取ったのである。咄嗟にスマートフォンの画面を消そうと電源ボタンを押したが、何故か画面が暗くなることはなかった。何度も消そうとして、逆に電源を切るように長押しすらもしてみるが、それすらも空しい結果となって。
思わずスマートフォンを手にしているのが怖くなり、手から滑り落ちていく。ゴトリ、重力に耐えられずにスマートフォンが床に落下する。画面が割れようが、スマートフォンが壊れようが、今は気にしていられなかった。
匠李の頭の中は「逃げる」の文字だけでいっぱいだったからである。
だが、スマートフォンを落としただけでは何の解決にもならなかったようで。
画面の中から声が届く。
『いくら逃げようと無駄だぜ。どうせ追跡機能がこちらの手にはあるしな』
追跡機能、その言葉に驚くものの、匠李は息を呑むことが精一杯だった。
さらに匠李を追い込むように声が届く。
『この世界にてめえの存在を刻みつけた時点で俺から逃げることは不可能なんだよ』
青年は言うが早いか、何かを画面に向けて内側から投げた。片方の端はしっかりと握ったまま、鞭のようにしならせて匠李へと向ける。
それは不可能であるはずの画面という境界線を軽々と飛び越えて、匠李をぐるぐると縛り上げた。
「は、え……、はあっ⁉」
匠李は驚いて動きを止めてしまう。
匠李をぐるぐると巻き付けている何かはスマートフォンから伸びている。ありえない光景だ。目を疑うしかない。
だが、誰が聞いても信じてもらえないような光景が目の前で実際に起こっているのだ。
匠李が目を凝らして見れば、その鞭のようなものは何かが記載されているようだった。
も、じ……?
ただ、そう思ったのもつかの間、匠李は抗えない力で引っ張られた。入れないはずの画面が目の前に近づく。ぎゅっと目を握って、衝撃に耐えようとしたが衝撃が来ることはなく――。
匠李はあっさりとスマートフォンの中に吸収されてしまったのであった。
その後、何やら騒がしいと隣人が匠李の部屋を訪れたが、隣人に返ってきたのは静寂だけであったのだった――。
Ⅲ
ノアは鞭を引っ張ったことによって、青年をスマートフォンの中へと引きずり込むことに成功した。男の姿を確認すると、悪態をつく。
「ったく、面倒かけてんじゃねえよ」
男を冷たく見下ろし、舌打ちをする。舌打ちは癖だ、悪い癖だとは思うものの直すつもりはない。というのも、こうでもしていないと自分が闇に取り込まれそうになってしまうのだ。
怒りに取り憑かれるなんざ、あほらしいしな。
ノアはそう思ってから再度男を観察する。それにしても、とノアは思った。
妙に若い奴だな……。
それが素直な感想だった。アカウントに個人情報はほとんど記載されていなかった。だからこそ、ノアは男が若いことを知らなかったのである。
いや、個人情報といっても本人を特定できる情報のことだけではない。年齢や性別、社会人かどうかも記載されていなかった。誕生日すら載せていないほどの徹底ぶりだ。
大抵の人間が誕生日を設定していたり、成人しているかどうかぐらいは記載している。だが、こいつは載せていなかった。警戒してなのか、それとも……。
多少の情報が載せてあれば想定することぐらいはできる。憶測を立てることも可能だろう。だが、情報が載っていなかった。ノアには文章を読んで推測することしかできなかったわけで。
……まあ、情報を安易に開示していなかったことだけは褒められる点かもな。
ノアは肩を竦めてそれだけは認めてやることにする。上から目線なのは、彼の中で渋々認めたためだ。だからこそ、「認めてやっている」ということになるのである。
ただ、ノアからすれば、の話ではあるが。
さて、始めるか。
ノアは手にしていた鞭のようなそれをシュッと一度伸ばした。しなやかだったそれがピンと張り詰める。そして、ノアは一度自身の手のひらへと吸収してしまった。
まだ使う時が控えている、そう考えたからである。
ま、こいつとは切っても切れねえ関係だ。切り札は取っておかねえとな。
ノアは頭の片隅でそれだけを考えると、首をゴキリと鳴らす。彼の気合の入れ方であった。
「さーて、お話ししようぜ、兄ちゃんよ」
いまだに痛みに堪えて蹲っていた男の前に、ノアはしゃがみ込む。いわゆる「ヤンキー座り」をして、男の出方を見守っていれば、男はひたすらに頭をさすりながら。
「い、ってててて……。お、お前、さっきの!」
「ようやく現実が見えてきたか。おっせえな」
「お、俺は話すことなんてねえぞっ! それよりも、俺を早く帰してくれ!」
「帰れねえよ」
ノアは冷たく目を細めて言い放つ。瞳を細めれば、鋭い眼光が男を捉えていた。
男が息を呑んだのを理解する。
ノアは意地悪く笑ってから告げる。
「てめえに変わる気がなけりゃあ帰す気はねえ。この世界の主導権は俺だ。俺が帰してやると思えば帰れるだろうし、そうでなければ永遠にこの世界に住むことになるだろうぜ。ま、てめえがこの世界で永遠に生きられるかは知らねえけどな」
ノアは平然と告げる。何せ、自分には関係のないことだ。
この世界に男を引き込んだのは確かにノアだ。
だが、元よりこの世界に爪痕を残したのは紛れもなく、目の前の男なのである。
そう、SNSという世界に書き込むことをノアは強要していない。彼が望むがままに、思うがままに書いたのだ。そして、その結果がこれである。
ならば、自分が同情してやることもない。
ノアは非情にもそう思った。
優しくしてやりゃつけあがる。
調子の良いことを言っていれば、そのうちそういうものだと勘違いしていく。
現実を見せてやれる機会があるのなら、見せてやることも必要だ。
――それが、自分の仕事であり、使命である。
ノアは強くそう思っていた。勝手に思っているだけだ。誰かに命じられたわけでも、最初からそれを言い聞かせられていたわけでもない。
ただ、誰もが知らないSNSの現状を、現在起こっている惨状を、誰かが教えてやらなくてはいけないのだ。
汚れ仕事ならいくらでも被ってやる。
ノアは眼光を鋭くさせたまま、男をじっと見つめた。
「今のてめえをただで帰すわけにはいかねえ。これ以上、この世界で被害を出すわけにも、てめえらの世界で影響が起こることも避けてえわけだしな」
「お、俺が一番被害、被っている!」
「てめえのは自業自得だろうが。弁解の余地もねえわ」
ノアは吐き捨てた。そして、ふいとそっぽを向く。見たくもない、そう言うかのような視線が男に向けられていた。
それほどまでに、ノアの中で怒りが渦巻いている。
男はいまだに目を白黒させているだけだった。思い当たる節はないようだ。だが、その状況でもノアから逃げる素振りはなさそうだった。おそらく、ノアが強気な姿勢を貫いているからというのと、威圧的な雰囲気に怖気づいているからなのだろう。どちらかと言えば、後者のほうが強そうだ。
どちらにせよ、ノアからすれば好都合。思わず口角が上がっていた。
「とりあえず、名乗っておくぜ。俺はノア。てめえは」
「……し、匠李」
「あ? フルネームで言えや」
「と、藤真匠李、です……」
「じゃあ、匠李」
ノアは無表情で告げる。眼光は鋭いままだ。
「どうにもてめえには心当たりがねえようだが、てめえが執着して行っていること、一つだけあんだろ」
ノアの言い方には確信がある。何せ、匠李が何をしているかはすでに把握しているからだ。
だが、対して当の本人は目を瞬くだけであった。まったく理解できていないらしい。
ノアはついにぶち切れる。
「……てっめえ、マジでいい加減にしろや」
「いや、そんなこと言われても! 理不尽すぎるだろ⁉ マジで分かんねえ――」
「SNS」
ノアは匠李の言葉を遮って、単語だけを低く呟いた。
匠李はようやく合点がいったようだ。小さく息を呑んだのが音としてノアの耳に届いた。
ノアはふんと鼻を鳴らして。
「あったじゃねえか、心当たり。てめえはこの世界に確実に爪痕を残しているんだよ。てめえが発信した、てめえが発端の投稿でな」
ノアはしゅるりと手のひらから鞭のようなものを再度取り出す。しなやかな動きで手のひらから出現したのは、先ほど確かに匠李を捕えたもので。ノアはそれを何もない空中に貼り付けた。
「見てみろ」
ノアは匠李の視線を空中へと誘導する。
匠李はその空中へと視線を向けたようだ。数秒後にハッと驚いた声が聞こえてきた。
ノアはそれを耳にしながら、貼り付けた内容へと視線を向けながら語る。
「これは文章――それも、てめえがこの世界に刻み込んだSNSの投稿の一つ。こいつとてめえは切っても切れねえ関係なわけだ。つまり、てめえがどれだけ俺から逃げようと、てめえが逃げることはできねえ。ま、俺からというよりは、てめえが投稿した内容から逃げることはできねえ、と言うほうが正しいか」
「……っ! お、俺の、投稿……」
ノアの話を耳にしながら、匠李は気が付いたらしい。目の前にある文章が自分の投稿した内容であることを。
そして、その内容が一番SNSで注目された内容であったことを――。
ノアはさらに続ける。
「これがオスクロウィアを増幅させている。この世界で大きな影響が与え続けられれば、それは現実世界にも影響が出てくる。……チッ、まんまと負の連鎖を起こしやがって」
ノアは「面倒くせえ」と続ける。
すると、匠李は慌てて弁明し始めた。
「け、けど、俺一人じゃねえだろ⁉ 似たような投稿している奴なんてたくさんいるはずだ! 俺だけじゃない! 俺のことを言うんなら――」
「てめえのことを棚上げして他者を悪く言っているんじゃねえよ。俺が今つきつけていることは、てめえが蒔いた種だろうが」
ノアは匠李を黙らせるために強く睨みつけた。ギロリ、その視線が向けられたからか、匠李は怯えて黙る。ノアは再度舌打ちをした。
「ったく、あいつも厄介なことに首を突っ込むタイプだが、こっちもこっちで厄介だな。面倒くせえ」
ノアの言葉に、匠李が「あいつ……?」と反応を示す。だが、ノアはそれを一蹴した。
「てめえには関係ねえ話だ。それよりも、今後こういう投稿をしねえと誓うなら俺はてめえを解放してやる。ついでに今まで投稿してきた内容も消せ」
「はあっ⁉」
ノアの言葉に、匠李は大声を上げた。納得がいかないようである。
ノアは顔を顰めた。この電脳世界では音は反響しやすい。広いから音が響かなさそうであるものの、電脳世界で数々の処理が行われているからなのか、それとも音楽もかかわっているからなのか、音は小さくとも大きく反響するのだ。この至近距離で大声を上げられれば、不快な音量になる。
ノアが不機嫌さを隠そうとしないものの、匠李は気にすることなく言い返した。
「ふっざけんな! せっかく人気が出た投稿なんだぞ! 消してたまるかってんだ!」
ノアはそれに強く言い返す。
「そういうところが原因だっつってんだろうが。てめえみたいな奴がいるから、オスクロウィアは増え続けている。際限なく増え続けているから手がつけられなくなってきているんだよ」
「そんなの知るかよ! 俺一人の責任でもねえし! 大体にして、そのオスク……なんとかっていうのは何なんだってえの!」
匠李はガチギレだ。
ノアはやれやれと肩を竦めてから告げる。
「オスクロウィア……。人の闇をもとに生まれる。てめえのような投稿をした奴から一つ一つ小さな穴が生まれていく。そしてそれは人の影響を受ければ受けるほどに大きな穴へと広がっていき、徐々に侵食していく。そして、その穴に落ちれば戻ってくることはできねえと言われている。いわば、奈落だ」
ノアは目を細めて断言する。
匠李はその言葉にぞくりと背筋を震わせた。あまり想像を膨らませることはできなかっただろうに、その闇を感じ取って身体が悪寒として受け取ったのだ。
そして、ノアがそれだけ本気で怒っており、本気で立ち向かっている気迫が放たれているということにもなる。
ノアは現状のSNSを望まれぬ姿だと思っていた。
人の欲や悪意に染まったその姿。このままいけば取り返しのつかないことになる、それをノアは痛いほどに感じ取っていた。
とにかく急がねえと。起こってからじゃ遅えんだ。
ノアの中にも多少焦りが生じていた。放置すれば放置するほど、SNSは黒く染まっていっている。その進行速度は予想よりもは遥かに早い。
確かに、匠李の言うことももっともだ。すべてが彼だけの責任ではない。彼のように誹謗中傷や批判の投稿は月日が経つほどに増えてきている。だが、その一つ一つを対処していかないと、何も終わりはしないのだ。
ノアはさらに語る。
「全員がやっているから良いってわけじゃねえ。誰もが言いたいことを言う、その権利がねえとは言わねえよ。人間だから愚痴や不満も出るだろうしな」
「だったら――!」
「だが、てめえの言葉に誰一人苦しんでいる奴がいねえなんて何故断言できる」
ノアはギロリと睨みつけた。その視線には確かに殺意が滲み出ていた。
匠李は言おうとした言葉を飲み込んでいた。言葉に詰まって何も言えなくなったらしい。
ノアはお構いなしに続けた。
「てめえの投稿、大体見たぜ。胸糞わりい。有名人叩いてご満悦か? そんなにてめえが偉いとは思えねえけどな」
ノアは言葉を吐き捨てる。嫌悪感をすべて吐き出すかのようであった。そして、匠李に発言する暇を与えることもなく、さらに告げた。
「てめえ自身は顔出しもせずにほとんどの情報は開示していねえ。だというのに、情報を出している相手は叩くのか。随分と偉いものだな」
「……」
「てめえも知っているだろうが、有名人は顔や名前なんかの情報をもとに自分を売り出している。特に、テレビに出ている奴や雑誌に載っている奴はな。だが、それは現実世界からしたらごくわずかな人間だ。大半の奴はそんな情報表示していねえし、開示されていねえ。むしろ、個人情報なんて言って守っている奴がほとんどだろうよ。だが、その情報が出ている奴に対して、情報を守っている奴が平気で批判する。それが誰の目にもつく場所に載せるなんざ、どういう神経しているんだ」
ノアの中では次々と怒りが湧きおこっている。
だが、自分の中でも痛いほど理解していた。目の前の男一人を責めたところで状況は何も変わらないことを。
それでも、一人一人が気を付けるように意識を変えるだけでも変わってくる。それだけで多少なりとも状況が変わってくるのだ。激変することはなくとも、少しずつ形が、景色が変わってくるはずなのだ。
……言いたいことを好きなだけ言って良いなんてことは、ねえんだよ。
誰にだって、意見を言う権利はある。誰にだって、言いたいことはある。それでも、そのすべてが言って良いことではないのだ。
それが、何故分からない……!
ノアは暴走しがちな自分を見た。一つ深く深呼吸して落ち着かせる。それから、再度口を開く。
「……てめえ一人のせいじゃねえことなんざ、俺だってよく理解している。現実世界での意識をすべて変えねえと変わらねえのかもしれねえ。それでもな、てめえが変わることは必須なんだよ。てめえだけじゃねえ、そういった投稿をしている全員が変わる必要がある。でねえと――」
ノアは目を細める。その瞳の中には辛く苦しい未来が、かすかに過った。
「――現実世界の全員が、闇に飲み込まれて終わるぞ」
「や、みに……」
「そうだ」
ノアは匠李が繰り返す言葉を短く肯定する。そして、ノアは肩を竦めた。
「現実世界でおかしなことが起きつつあるのはてめえも知っているだろう。ニュースやらなにやら流れているだろうからな。その原因が、オスクロウィアの増殖だ。これ以上増え続ければ、どうなるか分からねえ。……オスクロウィアは端的に言えば人間の闇だ。SNSに落とされた闇の数々。そして、現実世界の事件とのつながり。あとは分かるだろうが」
ノアが確信を持って問いかければ、匠李は気まずそうに目を逸らした。
SNSの中にいるノアですら、現実世界の異変は知っている。
人間が人間を刺し、人間が人間を傷つけ、暴走する。そして、人間だけでなく、動物や環境にも異変が起き始めている。毎日のように異変がニュースという形になって、人間の白日の下にさらされている。その数は、おそらく昔よりも遥かに増えてきているはずだ。
少なくとも、ノアはそう思っていた。
――そう、スマートフォンが普及してから特に。
「刺傷、器物損壊、窃盗、名誉棄損、誹謗中傷……、挙げ始めたらキリはねえ。だが、それが否定できない事実。この世界で生み出されている事件や事故。それはオスクロウィアの影響であり、元を辿ればてめえら人間が原因だ」
「お、れたち、が……」
「そして、人間の闇は増幅し続けている。これ以上被害を増やすことは避けてえ」
「けど、それがどうして――」
「オスクロウィアを覗き込んで見ろ。先に言っておくが、絶対に落ちるなよ」
ノアは横目で匠李を見て告げる。不審な目を向けられるが、さっさとしろと顎をくいっと動かすことで黙らせた。
ようやく匠李が近くのオスクロウィアを覗き込む。すると、すぐに大声を上げて尻もちをついた。そして、そのまま震える身体を必死に動かして遠ざかろうと後退する。
ノアはそれを見て肩を落とした。正常な反応だ、そう思いつつそれを口にすることはなかった。ノアは匠李のすぐ横まで歩み寄ると簡単に肯定する。
「ま、そういうことだ」
「な、なんだよ、これ……! ま、まるで、お、怨念……!」
「遠からず、ってところだな」
ノアはポケットに手を突っ込んで告げる。そして、自分は平然とオスクロウィアを覗き込んだ。
オスクロウィアを覗き込んで平気なのは、ノアぐらいだろう。もしかしたら、相棒はいけるかもしれない。だが、オスクロウィアを覗いて平気なものはほとんどいないというのがノアの見解だった。
「言葉は意思を伝えるものであり、時に凶器となり、時に呪いとなる……。そして、その呪いの部分が集まったと言っても過言ではないのが、このオスクロウィアだ。ここには人間の闇が集まり過ぎている」
「の、ろい……」
「端的に言えば、悪意が満ち過ぎているということだ。だから、周囲にいるだけで影響が出る。てめえがオスクロウィアから離れたのは英断だ。……取り返しがつかなくなれば、現代世界にまで影響が出てやがて人間へと影響が広がっていく。つまりだ」
ノアは匠李に視線を向ける。そして、人差し指を突き付けた。
「てめえはその呪いに加担した、ってことだ」
「っ!」
「もっとも、誰もがそんな風には考えていねえだろうけどな。ただ、一度でもオスクロウィアに触れれば帰ってくることはできねえ。人間が闇に手を染めて慣れてしまったようにな。悪事に手を染めた奴は一度行えば次も抵抗が少ねえらしいしな」
「ちょ、ちょっと、待てよ……。な、なんであんたは平気なんだよ! こ、こんなとこに、ずっといて……」
「そりゃそうだろ、てめえらが発端なわけだしな」
「は……?」
さらっと答えたノアだったが、匠李はその答えに納得がいかないらしい。何を言っているんだ、そんな表情を向けられる。
ノアはひらひらと手を振って。
「つーか、俺のことはどうでも良いんだよ」
そう言ってから、鋭い視線を匠李に向ける。そして、答えを求めた。
「てめえが心を入れ替えるか、入れ替えねえか。俺が知りてえのはそこだ」
匠李の目の前に立ちはだかり、冷ややかに見下ろす。そして、問いかけた。瞳で、表情で、全身で。
匠李はノアの視線を受けて、それから気まずそうに目を逸らした。だが、何かを思い出したらしく、目を見開くとぽつりと呟く。
「『SNSに悪しき心を流す者、地獄より伸びし鎖にその身を囚われ為すすべなく引きずり込まれることであろう』……」
「あ?」
今度はノアが怪訝な顔をした。青年が何を言っているのか理解できなかったのである。
なんか、変な言い方だな。どこかの都市伝説みてえだ。
ノアがそんなことを考えていれば、匠李が静かに口を開いて。
「最近、聞いたことがある噂なんだけど……。なんか、今の状況みたいだなって急に思い出して……」
「ああ? んな不名誉な噂いらねえわ。大体にして、誰がんな噂流したんだか……」
ノアはそう言いつつ、ふと思い出す。
よく考えれば、自分がこうして引きずり込んだのは目の前の男だけではない。過去にも何人、何十人と引きずり込んでいる。
……引きずり込んだ奴が警告のために流したのか、それとも改心したためにできるだけこいつみたいな奴を減らそうとしたのか。なんにせよ、俺からしたらどうでも良いことだが。
もし、本当にその噂によって闇の投稿がなくなるというのであれば、ノアからしてもありがたいことだ。その噂はそのまま流しておくほうが良いだろう。
ノアが思考を巡らせていると、さらにぽつりと呟きが聞こえてきた。
「……俺も、その一人。呪いに、加担した……」
「……そうだ。てめえもオスクロウィアを作っていた一人だ」
「けど、そんなの……」
ノアはその言葉に確信をもって続きを告げた。
「誰も知らねえよ」
断言した言い方に、匠李が勢いよく顔を上げる。
だが、ノアは鋭い眼差しのままでいた。
「確かに、誰も知らねえよ、オスクロウィアのことは。俺が知っていて、人間どもは知らねえさ。だが、誰も知らなかったとしても、てめえがしていたことはゆるがねえ事実だ」
「付け加えておくとするなら、俺だけがよく知っている」とノアは続ける。
……そう、誰も知らねえよ。この事実に関して、な。
ノアは目を細める。拳を握る力に手を込めた。
だからこそ、知らない人間に、この状況を知ろうともしない人間に、腹が立つ。
現状が悪化していることに腹が立つ。
そして、それを知りながら食い止められていない自分の無力さに腹が立った。
ノアがこうして人間とかかわるようになって、幾星霜。それでも、すぐに状況が変わることはなく。ましてや、悪化していると言っても過言ではない。
簡単に状況が変化するとは思っていなかった。
表を練り歩くあいつの存在と並行して、裏は自分が引き受けると告げた。
おそらく、あいつ自身も歯がゆい経験はしているはずだ。俺も、うまくいかねえことが多いから。
それでも、ノアも、相棒も歩みを止めるわけにはいかない。何としてでも食い止めてやる。抗って、希望にかけて、自分のできることをするしかない。
俺たちができること、お互いの得意なことをするしかねえっていうのは、お互いよく分かっているからな。
ノアは怒りで染まっていた瞳に、自分の意思を宿した。そして、その瞳を匠李へと向ける。
「誰も知らねえ、それでも誰かが広めていけば変わっていく。悪意を広めるより、それを阻止するほうを広めたほうが誰もが納得するはずだろうが」
だが、それでも匠李は頷かない。おそらく、頭の中ではノアの言葉を理解しているのだろう。瞳には確かに「迷い」の文字が過っているように見えた。
そして、ぽつりと呟かれた言葉は。
「……でも、そしたら『いいね』とか――」
「んな商人欲求満たすために、他人を貶めるんじゃねえ!」
ノアは激昂した。吠えるように言葉を放つ。本日初めて声を荒げた。普段からノアは言葉は悪く、口調は厳しいものの、そう声を荒げることはない。
だが、あまりにも自分勝手な発言に、ノアの堪忍袋の緒が切れたのだ。
匠李がびくりと身体を震わせたことは見て取れたが、ノアはそれよりも怒りの感情をぶつけた。
「てめえが本気で評価を欲しいと思うのなら、てめえのことを素直に書きやがれ! 他人のことを貶めて、苦しめて、そんで自分は評価の数稼げて嬉しいだあ? ふざけるのもいい加減にしやがれってんだ!」
ノアは人差し指を匠李に突き付ける。
「実際に目にしたてめえなら分かるだろうが! オスクロウィアは闇だ、それも濃く深く根強い闇なんだよ、そう簡単に消せるもんじゃねえ。そしてそれを生み出したのは、他でもないてめえら人間だ。てめえらが何も考えずに闇を投稿してきたことによって、生み出された悪の権化だ! それを見た本人はどうなる、てめえらが話題に出した、出された本人はどう思うかって話だろうが! 最悪の場合、命を絶ってもおかしくねえんだぞ! てめえはその責任取れるのかよ! ああ⁉」
「……それって、まさか――」
「分からねえか。なら、突き落としてやろうか、その闇の中に」
ノアは匠李を睨みつけた。その瞳は本気の色であった。
匠李は本気で怒らせたことを理解し、顔を青ざめさせた。
ノアは匠李を見下ろしたまま、冷たく告げる。
「言葉で分からねえって言うんなら、実力行使しかねえだろうが。……やはり、人間にはこれぐらいしねえと分からねえってことか」
ノアは残念だと肩を竦める。
できれば、この手は使いたくなかったが……。仕方がねえな。
ノアが物思いにふけっていれば、匠李はその間に少しずつ後退している。ただ、腰が抜けてしまったようで、座ったまま少しずつ下がるだけであった。
ノアはずかずかと歩み寄ってすぐに距離を縮め、男の首根っこを掴むとそのまま一つのオスクロウィアの上にぶら下げる。ノアが手を離せば、そのまま一直線で穴の中に真っ逆さまだ。
「や、やめ――」
匠李の口から悲鳴じみた声が出てくる。
ノアはそれには答えずに、ただ冷たく告げるだけであった。
「見てみろ」
「な、に……」
「オスクロウィアを見てみろ、って言っているんだ」
ノアがそう告げれば、意外にも匠李はあっさりとオスクロウィアへと視線をやった。恐る恐るではあったものの、ノアの言葉にすぐに反応した。恐怖が勝っているからなのかもしれなかったが。
しばらくして、匠李から息を呑む音が聞こえてきた。
ノアはそれを理解すると、難なくオスクロウィアから遠ざけて匠李を放った。
匠李はそのまま落下して、頭を抱える。だが、その瞳には恐怖も、迷いもなく、あるのは覚悟だけであった。
ノアはそれを見ながら口角を上げる。
「誰も知らねえ、誰も変わらねえ。そのままならこの世界は破滅の道を辿るだけだ。誰かが教えて、誰かが理解して、誰かが広めていかねえとどうにもならねえんだよ」
ノアがそう告げると、匠李はあっさりと頷く。クツリ、ノアは喉奥で笑ってから問いかけた。
「で? てめえはこれからどうするんだ?」
Ⅳ
後日、ノアはハッと鼻で笑った。だが、それは嘲笑うものではなく、満足している笑いだった。
「あの小僧、意外と根性あるじゃねえか」
あれからオスクロウィアは確実に一つ減少した。
それは、ここに引きずり込まれた青年が載せていた投稿を削除したからであった。完全に収束するには多少時間がかかったものの、元の投稿を削除したことによってオスクロウィアは次第に小さくなっていき、やがて消滅したのであった。
青年は完全に心を入れ替えたようで、あれからオスクロウィアが発生しそうな投稿を控えられていた。しかも、SNSを正しく使えるようにと、微力ながらもSNSの在り方を促すような投稿がされている。
もちろん、その投稿には共感の声もあれば、批判の声も飛び交っていた。
それでも、あの青年は投稿の在り方について意見を変えるつもりはないらしい。炎上覚悟で、人を傷つけるような投稿をしないようにと、戒めの気持ちも含めて少しずつ投稿しているようであった。
ノアはくつくつと笑う。
「一人が変われば、多少の影響は出てくる。あとは周囲の人間次第だ」
あの時、ノアが青年に見せたのは、被害者の声であった。
それは、ノアにしかできないこと。関係のない投稿を引き出すことは容易ではないが、実際の声を見せることが必要だ。オスクロウィアに少しでも関連している投稿に関しては、ノアは引き出すことができるのである。
被害者は相当追い込まれていた。数々の批判的な投稿を直視してしまったことにより、精神的ダメージが大きかったのだ。
それを、ノアはあの青年に見せた。
それが青年にとっては一つのきっかけとなったのである――。
満足したノアは目を閉じて、脳裏に浮かぶ相棒の姿を思い浮かべる。
「……さて、あいつは何をしているのかね」
少し休息したら、次のオスクロウィアをどうにかしなくてはいけない。また動き出すためには、多少の休息が必要だ。
「どうせ、あいつも忙しく動いているだろうからな。俺もそう休んではいられねえよ」
ノアはやれやれと首を振る。
しばしの休息に、ノアは身体を預ける。
脳裏に浮かぶ相棒に、ひそかに声をかけながら――。




