序章 表裏の世界でそれぞれの旅
――人の心とは複雑なものだ。
お互いの感情のすべてを理解し合うことなど、到底難しい。
それは、人間の意思疎通に限界があるからだ。
人間は言葉でしか意思を伝えることはできない。声で発するか、文章など形にして伝えないといけないのだ。つまり、相手の頭や心を覗くことはできないのである。
だが、それでも分かり合おうと、伝えようと努力することは間違いではないはずだ。
前向きと後ろ向き。
ポジティブとネガティブ。
肯定的と否定的。
人間にもそれぞれの生活や環境から、感情の変化は大きく分かれる。
誰かに「大丈夫」言われて前を向く人がいるように、「大丈夫」と言われて納得しない人もいる。
分かってほしいと強く思うのに、分かってもらうことができないと、どうして分かってくれないのかと怒ってしまう人もいる。
欲しい言葉が貰えなくて悲しくなったり、心が折れそうになったりする。
その人にとっての「当たり前」は、全員共通の「当たり前」ではないこともある。
厳しくとも、難しくとも、それが現実であった。
だからこそ、近くで寄り添ってくれる存在はとても大きく、そして声を上げて教えてくれる存在は有難いものなのだ。時に見たくない現実を叩きつけられることもある。厳しいことを言われて打ちのめされることもあるが、叱ってくれる存在もまた大きいものだ。
近くで寄り添ってあげたい、そんな存在になりたいと思う青年が、表の世界に一人――。
青年はふと顔を上げる。何かに気がついて、夕焼けに染まりつつある空を眺める。そして、ふわりと口元を緩めた。
誰もいないその道で誰かに告げるかのように優しく言葉を紡ぐ。
「大丈夫――って、言ったら納得しない人もいるんだよねえ。僕もよく言っちゃって怒られてしまうんだけどさ。けど、本当に大丈夫だよ。よく聞いて、否定していないよ、君に寄り添いたいんだ。たった一言で片づけようとしていないよ、君の肩の荷を下ろしてあげたいんだ。そういう人の傍に僕はいてあげたいんだ、僕はそういう人に寄り添ってあげたいんだよ」
青年はほわほわと笑う。その笑みには冷たい冬の中で差し込む暖かな日差しのようで、優しく包み込んでくれる春の温かさのようで、落ち着ける存在のように感じられた。
青年はうーんと悩んで、けれどすぐにぱっと顔を明るくした。
「誰かが悩んでいるのは理解したけど、今はまだ動くときじゃなさそうだなあ。少し様子を見ようかな。でも、目印だけつけておかなくちゃ。手を抜いたら相棒に怒られちゃうからねえ」
青年は何かを懐から取り出すと、魔法をかけるように振るう。きらりと何かが光って、けれどすぐにそれは消えていった。どこかに吸収されたようにも、流れ星のように流れていくようにも見えた。
青年は満足に頷いてから、ほわほわとした表情でちらりと振り返る。そこには誰もいなかったが、青年は誰かに声をかけるかのように告げる。
「……今頃、相棒はどうしているのかなあ」
「きっと、僕より忙しそうに動いているんだろうなあ」と青年はルンルンと歩き出す。ステップを刻むように踏みしめるその足には、軽さの中にしっかりとした足取りがあった。
「さーて、僕も準備、準備! 終わったら、相棒に会いに行こうーっと」
一方その頃、別の旅をする青年が裏の世界に一人――。
――今の世に広く使われているSNS。
幅広い世代に使用されており、好きなものを共有し、世界を超えて繋がる、まさに懸け橋のような存在になる――はずであった。
いつしか、SNSには悪がはびこるように黒く染まってしまっていた。
闇バイト、誹謗中傷、詐欺など……様々な闇の案件が、光の陰に隠れながら存在を大きくしている。その多くに注意喚起が行われるものの、収拾がそう簡単につくはずもなく。
人間たちが使う道具として普及されたSNSは、人間たちの欲や強い思考によってもはや止められなくなってきていた。
青年が立ち止まる。
「……ここもか」
彼は隠すことなく舌打ちをした。予想以上に次々と広がっていく闇に苛立ちを隠せない。
「ろくでもねえもん、生み出しやがって」
自身の胸にゆっくりと触れる。本来そこにはあるはずの鼓動はない。
鼓動もなく、体温もなく、姿かたちだけが人間なだけの、彼。
彼だって、人間に生み出された。
「……やるしかねえ。それが、俺の使命」
誰かに言われたわけでもない。
誰かに助けを求められたわけでもない。
彼は勝手にこれを使命だと思っていた。
自分が動いたところで何も変わらないかもしれない。
自分があがいたところで手遅れなのかもしれない。
それでも、彼はまだ諦めたくない――。
青年がふと顔を上げる。見上げても空は見えない。ここは電脳の世界、表の世界とは違い、ここは裏の世界だ。
だが、確かに呼ばれた気がした。
「……チッ、どうせあいつだろうが。分かりやすすぎるのも困りもんだな。だが……、負けてはいられねえからな」
表の世界で動く相方の存在を思い出して、青年はニヤリと笑う。そして、前を向いた。
「頼むぜ、人間ども。まだ終わらねえってとこ、俺に見せてみろや」
表と裏の世界、それぞれの旅路を歩む青年たち。
彼らが望むのは、人間たちが間違わずに、言葉を使って前を向くこと。
お節介だ、そんなことは関係ない。
押し付けるな、勝手にさせてもらう。
彼らは彼らの信念から動く。
誰かに寄り添える存在となれるように、傷つく人が少なくなるように。
彼らは今日も今日とて、終わりのない旅をする。
果てのない、行き先の見えない旅路を、表裏の世界でそれぞれに――。




