98.サイニッスラの風(最終話)
アンジェリンは暖かな寝台の中で、はっ、と目を開いた。どこかから幼い子供の泣き声が聞こえてくる。
──ウィレム? またぐずっていたの?
アンジェリンが身を起こそうとすると、体に乗っていたフェールの腕がぐっと巻きつき、強く抱き寄せてきた。そのまま自然に唇が合わさる。その間も泣き声はどんどん近づいてくる。
「……っ」
静まっていた体の熱に再び火が灯りかけたが、子供の声が気にかかる。
フェールは唇を離して苦笑いした。
「残念、どうやら嵐が来たらしいな。すぐに起きる必要がありそうだ」
言葉が終わらないうちに、王に起床時間を知らせる鈴の音が廊下に鳴り響き、侍従の声がした。
「おはようございます、陛下、王妃様。ウィレム様がお待ちでございます」
アンジェリンがフェールとともに寝室から出ると、涙で顔がベタベタになっているウィレムが、両手を広げてアンジェリンに突進してきた。
「おはよう、ウィレム。どうしたの?」
抱き上げてやると、ターニャが申し訳なさそうに頭を軽く下げた。
「すみません、さみしかったみたいで……」
「かわいそうに。この子なりに環境の変化に耐えているのね。今日も来賓の方々のお相手があるからウィレムとあまり遊んであげられないわ。どうしても泣き止まないようならば、今夜はここで一緒に寝るようにしましょう」
アンジェリンは、フェールがひどく不服そうな顔をしていることに気が付いて笑いがこみあげてきたが、見なかったことにしておいた。
昼すぎには宿泊していた客人たちのほとんどは帰り、最後まで残っていたシャムアのルヴェンソ王子も帰国する時間となった。国賓の見送りとして、アンジェリンは、フェールやマナリエナたちと共に城門の近くまで出た。
馬車に乗り込むルヴェンソは、表面上は王子らしく礼儀正しく挨拶した。昨夜の披露宴でフェールに軽口をたたいていた人物とはまるで別人のようだとアンジェリンは思った。
この王子様とはまた会える、そんな気持ちでアンジェリンは馬車に乗り込むルヴェンソを見送った。
ルヴェンソに付き従う護衛たちの馬の列の後に、馬車がもう一台付いていく。その馬車には窓覆いが掛けられていて中は見えないようにしてあったが、アンジェリンは、誰が乗っているかは知っていた。
――ココちゃん、さようなら。
馬車に乗って密かに城を出て行く親子。ココルテーゼとその父親ツェドーは、半年間の強制労働の後、国外永久追放に決まり、先日労働刑期が終わったばかりだった。
二人が乗った馬車がアンジェリンの目の前を通過していく。親子がセヴォローンに帰って来ることは二度とない。
と、馬車の窓覆いがいきなり内側から取り除かれ、ココルテーゼが顔を見せた。
「アンジェリン! ごめんね! 私、あなたを殺す気なんてなくて、廃貴族を辞めたかっただけなのよ。一緒に仕事できて楽しかった。いつもやさしくしてくれてありがとう」
強制労働に従事していたココルテーゼの顔はすっかり日焼けし、頬も少し引き締まっていた。
馬車の中からの突然の大声に、周囲はざわめいたが、暴漢が飛び出してきたわけでもないため、馬車は止まることなくゆっくりと動いて行く。
「王妃様に無礼な口を利くとは、あってはならないことですよ!」
アンジェリンの傍に控えていた侍女長のマリラが大声で怒鳴りつけるのも構わず、ココルテーゼは窓に張り付いて叫んだ。
「王妃様、ご成婚おめでとうございます。さようなら、お幸せに。このご恩、忘れませんからっ!」
ルヴェンソ王子の行列はやがて城門から出て完全に見えなくなった。
涙ぐむアンジェリンに、フェールは肩に回っている手に少し力を込めた。
「ココルテーゼは強くたくましい。シャムアでもきっとうまくやっていけるだろう」
「そうですよね。あの子はいつも前向きに生きていて、何でも頑張れる。かわいいからすぐに良い人も見つかりますよね?」
「ああ、心配する必要はないと思う。さあ、室内へ戻ろう。ウィレムが待っている」
フェールはアンジェリンを従えて室内へ向かった。
フェールはさりげなく、マナリエナの背後に控えていた女官姿のザースと、一瞬だけ意味ありげな視線を交わしたが、アンジェリンはそれには気が付かなかった。
マナリエナの後ろから見送りの様子を見ていたザースは、腹の中で笑った。
――ふっ、なんとも甘い王妃様だ。ココルテーゼは自分を売ろうとした女なのに。あの様子だと、兄上はあの親子の今後について、アンジェリンには何も話していないようだな。あんな重罪人を生かしたうえ、何の裏もなく仕事を用意してやって、護衛までつけてシャムアへ行かせると本気で思っているのか?
――兄上はルヴェンソ王子にうまく話を付けてくれた。さすが、兄上。ルヴェンソ王子の方も、我が国を後ろ盾として期待している面があるから、兄上の頼みを飲んであの親子に家と仕事を用意したのだろう。シャムア王家に何かあったときには、あの親子が我が国の連絡役となる。
シャムアは王家が政権を取り戻したものの、前教皇を支持していた一部の人々の反発は続いており、表面上は穏やかでもいつ何が起こるかわからない状況が続いている。
──ココルテーゼ、ツェドー、シャムアで密偵として情報を集め続けろ。それが父上を殺した闇の一族にふさわしい生涯の仕事だ。虚偽の情報を流す、あるいは裏切りの兆候があれば、このザースがすぐに殺しに行ってやる。そのために監視用の護衛までつけてやったのだからな。
来賓の見送りが終わると、人々はそれぞれの仕事に戻るべく動き始めた。
ザースも女官らしく、濃紺の女官服の裾をはためかせながら室内へ向かうマナリエナの背に付いて行った。
◇
そして八年の月日が流れた。
ウィレムは十歳になり、立太子の式を済ませて正式な王太子となった。結婚の翌年に生まれた第二王子キトイは、もうすぐ七歳になる。そしてその三つ下に生まれたのは双子の女の子。双子の誕生により、フェールは今では四人の子の父親だ。
サイニッスラの火事の跡地では、その日、王家の公式行事となった慰霊祭が行われた。フェール国王一家は命日の前後数日の間、ここで休暇を取ることが恒例となっている。
厳粛な慰霊祭が終わると、フェールの子どもたちは大急ぎで普段着に着替え、はじけたように外へ飛び出した。
「魚釣りをする。キトイ、裏の滝へ行くぞ!」
「お兄様ぁ、待ってぇ」
「二人とも、気をつけなさいよ」
アンジェリンの声掛けも半分しか聞いていないように、網と手桶を手にした男の子二人が建物の裏の方へ走っていく。ロイエンニと護衛数名がそれを追った。
死者たちが眠る塚の近くでは、双子の女の子たちがしゃがみ込んで花を摘み始めた。
アンジェリンは、フェールとマナリエナと一緒に、塚のすぐ近くに作られたあずまやに腰かけ、顔がそっくりな女の子たちの様子を見ていた。
マナリエナは孫たちの愛らしい姿に目を細めている。
「わたくしはフェールにはすっかりだまされてしまいました。気が付けば、フェールに子供が四人もいるなんて」
「私は母上をだましてなどいない」
フェールは涼しい顔をしている。
「いいえ、そなたはわたくしをだましたのですよ。昔、テイジンとマリラに言ったのでしょう? シャムアで負った怪我のせいで子を作れない体になった、と」
「あの時は、可能性として、怪我で私の子種がなくなったかもしれないと言ってほしい、とは頼んだが、母上を惑わすためではなかった。人をだますのが得意なのは母上の方だ。アンが生きていたことを黙っていたくせに」
フェールがシャムアから大怪我を負って帰国したとき。
『そなたらに頼みがある……私の―――――――――――』
マナリエナは、わざと眉の間にしわを寄せて、思いきり不快だという顔をして見せた。
「リーザの生存情報をそなたに伏せたことはやむを得ないこと。そなたの嘘のほうがたちが悪いでしょう。わたくしは、そなたに子ができないという情報を信じてしまい、子はウィレム一人になるだろうから、どうしてもウィレムを放置しておけないと思い込んでしまいました」
「クレイア王女との結婚をつぶしたかっただけだ。母上の嘘のほうが絶対に罪深い」
「でもわたくしは、そなたの嘘に振り回されました。わたくしは、たった一人の王子ウィレムの将来を憂いて、養子先を必死で探していたのですよ。養子先はどこでもいいというわけではありません。由緒ある家柄で、秘密を守れる人間は限られていますし、何よりも、ウィレムの存在を多くの人に知られては困ることだったのですから」
「最初から養子にしようと思っていたこと自体がおかしい。私の子なのに」
アンジェリンは笑いながら二人の話を聞いていた。
──どっちが悪いとか……楽しく言い争ってやっぱり親子。
言い争っていても、お互いに真剣に怒っているわけでもなさそうで、親子はにこにこしている。
皆がそれぞれに一生懸命だった。何が間違っていたとか、そんなことはどうでもいい。
多くの人の努力の元、夢のような今がある。
「絶対に母上の嘘の方が悪質だ。私に子種がなくなったなどという嘘は軽い。結果はこの通りなのだから問題ない。孫が四人、しかも、もうひとり増える」
フェールは、隣に座っているアンジェリンの腹に手を伸ばした。
アンジェリンも膨らんだ腹をそっと撫でながら微笑んだ。
「母上、無駄な言い合いはここまでに。風が冷たくなってきた。アンは室内に入った方がいい」
アンジェリンは言われたとおりに立ち上がった。
フェールに手を引かれ、建物に向かうアンジェリンを見ながら、マナリエナは過去に思いを飛ばした。
「ねえ、ジャネリア、あなたのかわいいリーザがわたくしの息子と結婚して、今では子どもが四人もいて、来年にはもうひとり増えるの。リーザのお相手はザースではなくて、予想外にフェールの方だったけれど」
リーザが生まれた時、マナリエナは王城近くにあったニハウラック家の本宅──現在は美術館になっている建物──に足を運び、ジャネリアの見舞いに行った。
『ジャネリア、おめでとう!』
刺しゅう入りの毛布と一緒にお菓子などを手渡した。
ジャネリアが産んだ子は、色が白く、きれいな緑色の目をした女の子だった。
『かわいい子! この子、きっと美人になるわ。よければ、うちのザースのお嫁さんにどうかしら。ちょうどひとつ違いだし』
ジャネリアは、えくぼのある顔で朗らかに笑った。
『この子がザース様のお妃様に? うふふっ、そしたら私、ザース様の義理の母親になって、マナとも親戚になるってことね? 本当にそんなことになったら素敵。この子が歩けるようになったら、二人をできるだけ一緒に遊ばせるようにしましょうか。この子がザース様と自然に恋に落ちるように。もちろん、ザース様が別の女性を選ぶなら、それでいいのよ』
子供同士を一緒に遊ばせるというささやかな約束はかなわなかった。リーザが歩けるようになる前に、ジャネリアはこの地で殺されてしまった。
フェールたちが玄関に入って見えなくなると、マナリエナは死者が眠る塚に目を戻した。
生まれたばかりのリーザを前に、母親同士で勝手に作った将来の夢を思い出すと、自分でも滑稽だったと笑えてしまう。
当時、マナリエナは、第一王子のフェールの将来の相手は、政治的な背景を考慮した女性になるだろうという固定観念にとらわれており、フェールとリーザという取り合わせは頭になかった。
「ジャネリア、フェールがリーザに夢中になってしまったのはあなたが仕向けたのかしら? リーザはフェールと結ばれて王妃になったわ。ニハウラック家の娘として、これ以上の嫁ぎ先はないでしょう? 安心してゆっくり眠って」
室内へ入ったアンジェリンは、玄関を入ってすぐの部屋で足を止め、壁にかけられている大きな油絵を見上げた。フェールも一緒に絵をあおぐ。
きちんとした額に入れられたその絵は、腰かけているアンジェリンの背後に寄り添うフェールの姿が等身大で描かれている。絵の背景は、どう見てもシドが秘密に借りていた部屋だった。二人が初めて愛を交わし、数日を過ごした思い出の場所。あれから十年の時が流れているが思い出は色あせない。
アンジェリンは今でも思う。あの時、あの部屋で、帰りかかったフェールの背に自分がしがみついて引き留めていなかったら、二人は別の道を歩いていたかもしれない。
「シド様……今年も連絡はなかったですね」
「生存しているかどうかは微妙なところだな。彼が大怪我を負ったまま行方知れずになったことは間違いないのだから」
この絵がここに届けられたのは二人が結婚した年だった。この家の管理を任されている者の話によると、汚い恰好をした猫背の男が、ひとりで荷馬車を使ってこの大きな絵をここまで運んできたという。絵の端に画家の署名はあるが、シドではなく知らない名前だ。
「やっぱりゾンデ様の作品でしょうか」
「どうだろう、わからない」
「シド様は私たちが結婚できたら祝いに絵をくださる、とおっしゃっていましたけど、そのお約束をゾンデ様が知っておられたかどうか」
シドが行方不明時に重体だったことを考えれば、シドはやはり亡くなっており、彼が描いた下書きを入手したゾンデが、絵を完成させた可能性はある。そのゾンデもあいかわらず行方知れずで、シドの消息を聞くこともできず、絵の作者が誰なのかは知りようがない。
「シドは画家になりたがっていたから、怪我のついでにすべてを放り出して遠い国へ逃げてしまったのかもしれない。ヘロンガル家が裏でやっていることも薄々知っていたのだろう」
「そうですね……セヴォローンには居場所がなくて戻れないから、ゾンデ様を使ってここに絵を届けさせて、生きているから安心してほしいと無言で伝えてくださったような気がします」
「戻れない状況を作ってしまったのは私だ。申し訳ないがどうしようもなかった」
没収となったヘロンガル家の所有物件のほとんどは売却処分となり、その財は戦災者の保証に回された。シドが生まれ育った家は、今はヘロンガル家とは無関係の貴族が買い取って住んでいる。
「シド様はきっと遠い世界で画家として楽しく暮らしておられますよ」
「そう信じていたいものだな。生きているならいつか会える」
寄り添って絵を見つめていた二人は、耳に入ってきた子どものやかましい泣き声に、しんみりとした雰囲気を邪魔された。
フェールは、むっ、と眉を寄せる。
「また嵐が来たぞ」
泣いて走り込んできたのは第二王子キトイ。
「お母様ぁ、お兄様が僕の魚とっちゃった。僕がみつけたのに。僕のだよ。あれは僕が」
アンジェリンは涙を流してくしゃくしゃの顔になっている息子をそっと抱きしめてやった。この王子はとても泣き虫で甘えん坊だ。
そのうちに、手桶に生きた魚を入れ、誇らしげな顔でウィレムが入って来た。左右色の違う瞳がきらきら輝いている。
「お母様、ご覧ください。今日はいつもより大きいのが捕れました」
「あら、本当ね。こんなに大きなお魚がいたの?」
アンジェリンが桶を覗きこむ間も、第二王子キトイは「僕の! 僕のだよ」とぐずり続けている。
ウィレムは「キトイが捕れないから僕が捕ってやったのです」と得意そうな顔で胸を張った。
「そう、ウィレムが捕ってあげたのね? でもキトイは自分でやりたかったようだから、もう一度捕りに行ったら? お魚ならまだいるでしょう?」
「こんな大きいの、もういないよぅ。うわーん」
「じゃあ、一緒に見に行きましょう」
そこへ双子の女の子たちもやってきた。
「お母様、きれいなお花を見つけたの。お外へきて。あれも薬草? 摘んでもいい?」
「お母様、お母様」
子どもたちはアンジェリンの袖をひっぱる。
アンジェリンは、はいはい、と戸口へ向かった。
フェールが横から口をはさんだ。
「お母様に無理させるな。寒くなってきたから室内に入ったところだぞ」
「あなた、大丈夫ですよ。あなたも一緒にもう一度外へ出ましょう。この子たちは先ほどの追悼式典の間、ずっといい子でがまんしたのですから、少しぐらい相手をしてあげてもいいと思います」
フェールはアンジェリンにつられるように外へ向かいながら、つまらなそうに唇を尖らせた。
「どの口も、開けば、お母様お母様だ。お母様は大人気だな。次の子が生まれたらさらに大変なことになりそうだ」
「また子どもたちに嫉妬していらっしゃるの?」
「あまり甘やかすと、わがままな大人になって面倒なことになるぞ。ダメなときはダメとはっきり言うべきだ。おまえは身重なのだから」
フェールは身をかがめてアンジェリンのえくぼに唇を落とした。「無理をしてほしくないのだ」
「お魚やお花を一緒に見るぐらい、無理なことではないです。子どもたちに嫉妬はいけませんよ」
「私は我が子に嫉妬などしていない。かわいくてちょっぴりいじめてみたくなるときはあるが」
「【いじ】を張って【いじわる】してはいけません」
「ん? 今、おかしな駄洒落が入ったな」
「そう……でしたか? 気のせいでは?」
アンジェリンはフェールに笑顔を向けた。その場にいる者たち、みんなが笑っていた。
子どもたちが開け放した扉から、秋の乾燥した風が吹き込む。
サイニッスラの風は、玄関先に置いてあるケイシュカの鉢植えの花を揺らし、笑顔のアンジェリンたちの頬をやわらかく撫で、静かに室内に溶け込んでいった。
了




