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87.雨の湿地で(1)

 アンジェリンの前に現れた男は、間違いなくマニストゥだった。雨除けのフードをかぶっていても、ふざけたようなしゃがれ声は変わらない。

 マニストゥはメタフ村での夜の時のように、歯茎を見せて下品に笑った。

「お嬢さん、あの時のようにまた肩を噛んであげましょうか? なかなかおいしい肌でございました。その子をこのわしの子ということにしてやってもいいですぞ。その子はあなたが一日だけうちにお泊りになったあの夜にできた子ということで。いやあ、最高の夜でしたなぁ」

 マニストゥは、グヒヒ、といやらしい声を出しながら、両手を突き出して胸をもむような卑猥な仕草をして見せた。


「寄ってこないでください!」

「お嬢さん、素直に従わないならお子さんだけもらいますぞ。ここでは暗くてよくわかりませんが、この子、珍しい左右色違いの目をしているそうですなあ。これは高く売れそうだ」

 マニストゥがそう言うなり、いきなり距離を詰め、アンジェリンは顔に衝撃を受けて倒れていた。湿地に倒れたその腕からウィレムがもぎ取られるのが分かった。子どもはさらに大声で泣く。

「ウィレム!」

 ──連れて行かせない!

 アンジェリンは倒れてつかんだ泥を、マニストゥの顔に向かって夢中で次々投げつけた。

 マニストゥは泣き叫ぶ子を抱いたまま歩き出した。アンジェリンが投げる泥が背に当たっても動じる様子はない。

「お嬢さん、さっさと立ってわしに付いてきなされ。さもないとお子と離れてしまいますぞ」

「ウィレム!」

 アンジェリンは倒れたままもう一度大声で我が子の名を呼んだ。

「だれか助けて」

 どこからも応援はない。

 

 転んだ状態で泥を必死で投げ続けるアンジェリンに、エフネートが泥を避けるように顔を隠しながら近づいて来て、腰の剣をゆっくりと抜いた。

「動く気がないならここで死ね。おまえの遺体は夜盗にでも襲われたと思われるようにしておいてやる。その前に遺書を書いてもらわねばならんが」

「そんなもの、誰が書くものですか!」

「ティアヌ・バイスラーを殺したのは私ですと書いた書類に名を入れてもらう」

「できません。私、誰も殺していませんから」

 エフネートはアンジェリンの顔の前に剣先を突き付けた。

「真実がどうあれ、おまえが殺人犯として死ねばそれでよし」

「絶対に嫌です。人殺しはエフネート様の方ですよ」

「ティアヌを殺したのは俺ではない」

「ティアヌ様のことではなくて、私が言いたいのは他のことです。私が何も知らないと思ったら間違いですよ。私、あなたが昔、サイニッスラで何をしたか、全部知っています」

 エフネートは飛び上がりそうなほど驚いた顔をし、低い声でうなると、アンジェリンにさらに近づいた。

「おい、誰からその話を聞いた」

「答える義務はないですよね」

「おまえはいったい何者だ。やっぱりジャネリアの子ではないのか? それとも、火事を逃れたニハウラック家の親族のひとりか? ジャネリアはひとり娘で、血のつながった姪はいないはずだが……サイニッスラと今おまえは確かに言ったな」

「何をおっしゃりたいのでしょう」

 アンジェリンは勇気を出して泥を両手に掴んだまま立ち上がろうと動いた。予想通り、アンジェリンが立ち上がっても、エフネートは剣を振りおろすことはなかった。

 マニストゥに持っていかれたウィレムは徐々に遠ざかっていく。

 ──ウィレム、いっぱい泣いて人をここへ呼んできて。通りすがりの誰かが気が付いて助けにきてくれるかも。


 エフネートは剣をアンジェリンに向けたまま、いろいろ考えているようだった。

「だが、おまえが何者であっても、見逃すことができないことを口にした以上、どう転んでもおまえを生かしておくことはできない。そこの小屋まで連れて行くまでもない。おまえをここで殺す。あいかわらず後先のことを考えもしない愚かな女だ。よけいなことを口走らなければもう少し長く生きられただろうに」

「私を殺しても、エフネート様の罪は消えません。あなたの秘密を知っている人が、私の他に何人もいるんですよ。私が死ぬか行方不明になったら、あなたがやってきた悪いことを全部世間一般にばらすよう皆にお願いしてありますから」

「おまえ、このエフネート・ヘロンガルを脅しているつもりか」

 エフネートは剣先をアンジェリンの頬にピタリと付けた。少しでも動かせば、頬が切れてしまう。

 ちくりと頬を刺す感触でもアンジェリンはひるまなかった。ウィレムを助けられるのは自分だけだ。恐ろしくてもここで泣いたりして、子どもっぽくわめき散らす行為は正しくない。今は時間を引き伸ばし、無関係の誰かが通りかかる可能性にかける。

 アンジェリンは声の震えを隠し、できるだけ強気にふるまった。

「先ほども言いましたけど、私がいつまでもお城に戻らないとあなたは終わりです。子どもと私をお城に帰してください」


 その時、暗闇から声がかけられた。

「旦那様? いかがなさいました?」

 ランタンも持たずに湿地に入ってきたのは、アンジェリンを乗せてきた馬車の御者だった。この御者は本当に何も知らなかったようで、追い詰めらているアンジェリン、剣を今にもアンジェリンの顔に刺してしまいそうなエフネートに、泣き叫んでいる子どもを抱えて去ろうとしているマニストゥ、それを黙って見ている数人の手下たちを不思議そうに見回した。

 アンジェリンはすかさず大声をあげた。

「助けてください! エフネート様が私から子どもを取り上げて殺そうとしているんです!」

 御者の男は、アンジェリンの必死の訴えになんとなく状況が分かったようで、攻めるような口調でエフネートに歩み寄った。

「旦那様、この母子をそこまでお連れするのではなかったのですか?」

「マニストゥ、やれ!」

 エフネートの一声でマニストゥは戻ってきた。ウィレムを抱き直して片手で持つと──。


 きらめいた短剣が。

 アンジェリンは耐えられずに悲鳴をあげた。

 マニストゥは瞬時に取り出した短剣を、何事もなかったかのように胸にしまい込んだ。

 御者の男はマニストゥが振った短剣で一瞬のうちに喉を掻き切られて、その場に頽れていた。喉から血と息が不自然に漏れる音が雨の闇に吸い込まれていく。死への音はすぐに聞こえなくなった。


「エフネート様! なんてことするんですか! 殺すなんて! この人は何も悪いことなんかしていない」

 エフネートは不快そうに大きな音で舌打ちした。

「生きていてはいけないから死んでもらう。それだけだ。子どもを傷つけられたくないなら答えろ。誰がサイニッスラの秘密を知っているのか」

「秘密ってなんのことですか?」

「とぼけるな!」

「私と話したいならお城でお願いします。もちろん、陛下の御前で」

「少なくともマナリエナは知っているな? 他には誰がいる。ロイエンニもか?」

「エフネート様の秘密って、いっぱいありますよね? だから、秘密を知っている人って、実はびっくりするほど大勢いるんですよ。うまく隠せていると思ったら大間違いです」

「ここで言わないなら子供の腕をへし折ってやる。マニストゥ、ここまで戻ってこい」

 エフネートはいったん剣を下げて振り返り、子どもだけ連れ去ろうとしていた背後のマニストゥを呼んだ。マニストゥの腕に抱えられているウィレムは、まだやかましい声で泣き続けている。


 マニストゥは草に足を取られながら戻ってきて、エフネートのすぐ横までやって来た。

「お嬢さん、このうるさいガキ、どうにかしてもらえませんかねえ。泣きすぎてとうとうしょんべんをもらしちまった。びしょ濡れで臭くってたまわんわい」

 マニストゥはウィレムの両脇を持ち、前に突き出すようにして自分の体から離し、顔をしかめていた。

「うるさくて臭えガキだ」

 ウィレムは両脇をつかまれて持ち上げられたまま、号泣しながら手足をバタバタと動かし続けている。

 ――ウィレム、今助けてあげる。

 アンジェリンは両手に握りしめていた泥の感触を確かめた。

「お嬢さん、あいかわらず頑固ですなあ。だんな様の言うことをおとなしく訊いたほうがよろしいでしょうな。さもないとこの子の指が一本ずつなくなりますぞ」

 アンジェリンは狙いを定めた。ランタンの灯りしかない暗さでも顔の位置まで見失うことはない。マニストゥの目をめがけて泥を投げればいい。だが、エフネートの剣がすぐそこにある。剣を振り上げられたら終わり。

 ──それでも何もしないよりは。このまま殺されるなんていや。

 やってみるしかない。エフネートがすぐに剣を振り上げない方に命運をかけて。

「えぃ!」

 力任せにマニストゥの両目に泥をぶつけた。子どもを持っていて両手がふさがっていたマニストゥは、アンジェリンの泥攻撃を防げず、ギャッ、と声を上げた。

「ウィレム!」

 マニストゥがひるんだ隙に、アンジェリンは、むしりとるように子供を取り返した。マニストゥは両目に泥が入り、うめき声をあげて目を押さえたが、片足を大きく振り回して、逃げようとするアンジェリンを蹴ってきた。

「っ!」

 マニストゥの動きは予想以上に早く、避けきれずに脇腹を蹴られたアンジェリンは、ウィレムを抱いたまま横向きに倒された。アンジェリンは必死で起き上がろうとしたが、蹴られた脇腹の痛みに加え、倒れた拍子に下になった腕も強打し、しかも足が泥にとられてすぐに立てなかった。くじいている足はまだ完治しておらず、少し動かすと痛みが走る。

 ウィレムはあわやアンジェリンの腕から放り出されそうになり、泥に手をこすってしまい、さらに泣き声は大きくなった。


 エフネートは切りかかっては来なかったが、転んだまま必死で子を抱くアンジェリンの頭上に剣を振りかざした。

「おまえは凶暴すぎる。誰が秘密を知っているかはどうでもよくなった。調べればわかることだ。やっぱりここで死んでもらうしかないな。おまえの遺書は俺が代筆しておいてやろう」

「嫌です!」

 今度はアンジェリンの両手がふさがっている。泥を投げることはできない。腕の中のウィレムはけたたましく泣き続けて手足をばたつかせており、抱いているだけで精一杯。戦う余裕はない。これでは立ち上がれない。

 エフネートは、立てないアンジェリンに向かって剣を勢いよく振り下ろした。

 アンジェリンは悲鳴をあげ、一撃目は横に転がって避けたが、エフネートはすぐにもう一度剣を振り上げた。

「やめて! 人殺し! そうやって子どもを抱いた女に切りかかるの、お好きなんですね! 大臣までやるような尊い方が、力のない女と子どもを狙うなんて最低ですよ」

「おまえ……やっぱりおまえは知っているんだな」

「私を殺せば、誰が秘密を知っているか一生わからないのでは?」

「必ず調べ上げてやる。おまえは殺すしかない。死ね!」

 アンジェリンは、片手で暴れるウィレムを抱いて泥を掴もうとしたが無理だった。

 ――ウィレム!

 息子を守るためエフネートに背を向けて身を丸めた。覚悟して目をきつく閉じる。

 キン、と剣が合わさる音がした。

「おまえ! 邪魔するか」

 驚いて目を開けると、エフネートの手下のひとりが剣を手に取り、アンジェリンとエフネートの間に立ちはだかってくれていた。

 突然寝返った手下に、エフネートは怒りの声を上げた。


 アンジェリンは、その隙にようやく立ち上がることができた。自分を守ろうとしてくれている者の横顔をみて、うっかり大声を上げそうになってしまった。

 荒れた肌の頬が。

 ――ザース様!

 いつのまにか、エフネートが連れてきた手下と入れ替わっていたのか。まったく気がつかなかった。

「ザー……」

 驚きのあまり、真の名を出してしまいそうになったアンジェリンを遮るように、ザースは振り返ると早口でささやいた。

「私が気を惹いてやるからその隙に逃げろ」


 ザースはさっとアンジェリンから離れると、フードを跳ねのけ、吹き出物だらけの顔をエフネートにさらした。ランタンの灯りしかない暗い中、エフネートは縮れた白髪の相手がザース王子だと気が付かない様子で、アンジェリンをかばう『謎の手下』をにらみつけた。

「おまえ、なにをやっている。どけ!」

 ザースはアンジェリンの前で守るように両手を大きく広げた。その右手には短剣が握られている。ザースは落ち着いた口調で叔父に話しかけた。

「このような形でお会いすることになるとは残念です」

「ああ?」

「この声をお忘れですか? むろん、叔父上が憶えておられる私はこんな汚い顔ではなかった。ですが、声も中身も同じですよ」

「叔父上? 誰だ、おまえは」

「私は王弟のザース。父と同様、あなたに殺された者です。あなたがクレイア王女と手を組み、私を殺した。あの時、私の部屋のバルコニーに落ちていた毒蜘蛛、私が手配したことになっているらしいじゃないですか。私がクレイア王女暗殺を企てて、それに失敗して転落死ということにしたみたいですけどね、とんでもないねつ造だ」

 エフネートは剣を手にしたまま、目を大きく見開き、ザースだと名乗った相手を凝視していた。

「ザース? そんなはずがない。葬儀を出したではないか」

「確かに私は死んで棺に入りました。ですが、こうしてここにいる」

「遺体が消えたと聞いたが……いや、それでもおまえがザース王子のはずがない。王子は確かに死んでいた。俺は遺体を見たのだ。あれはどう見ても本人だった」

「ええ、転落の大怪我と毒薬で仮死状態となり、本当に棺に入りましたよ。でも葬儀のころの記憶はありません。毒のおかげで心臓の動きが鈍り、転落のさいの怪我の出血が最小限に抑えられたことは皮肉にも幸運でした」

「……本当に生きていたのか」

「この通り。肌はあの時の毒の影響で、いまだに荒れておりますが」

 ザースは剣を構えたままにっこりと笑うと、周囲の戸惑う者たちを見回した。

「皆、聞け! 私は死んだとされている王弟のザースだ。ここにいる我が叔父、エフネート・ヘロンガルを殺人罪および不敬罪で捕まえろ。エフネートを捕縛できたらおまえたちの罪は問わぬと約束する」

 ザースは振り返ると、顎でアンジェリンを促した。


 アンジェリンは気をつけながらその場から離れようとゆっくりと足を進めた。この場にいる他の者たちは驚きのあまり、アンジェリンが目の前で逃げようとしているのを見ているだけで誰も動かない。

 アンジェリンは固まっている男たちの間を抜けて、馬車へ向かおうと──。

「危ない!」

 ザースの鋭い声に、振り返った。

「ザース様!」

 ザース王子の右の鎖骨のあたりに、手のひらほどの小剣が突き刺さっていた。



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