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88.雨の湿地で(2)

 ザースは自分に刺さった短剣を何事もなかったかのように引き抜いた。

 アンジェリンからは傷口は見えなかったが、彼が手にした剣からしたたる雨でない液体につい叫び声をあげてしまった。

「ザース様!」

「かすり傷だ」

 すぐそこで目を押さえてしゃがみこんでいたマニストゥが、嬉しそうな声を上げた。

「うほほお、命中しましたかな? 目が見えなくてもやってみるものですなあ。成果が確認できないことが残念でございます」


 ザース王子は血を流しながらも傷の痛みなど感じない様子で、両手を大きく広げて、アンジェリンとエフネートたちの間に立ちはだかった。

「この母子を殺したいなら私を殺してからにしてもらおうか。さあ、かかって来い。全員倒してやる。手加減はしない。叔父上でも」


 アンジェリンはザース王子の顔色を確かめようと思ったが、暗くてよくわからなかった。恐る恐る声をかけてみる。

「大丈夫ですか?」

「私にかまうな。さっさと行け」

「ですが、お怪我を」

「普通に戦える。体内にいまだ残っている毒のおかげで、怪我をしても痛みはほとんど感じないし、血の止まりも早いのだ。早く行け!」

「はっ、はい!」

 申し訳ない気持ちを抱きつつザースに背を向け、そこに転がっている御者の死体の横を抜けようとした。ここで自分ができることは大急ぎでこの場を離れることだけだ。


 エフネートは手下たちを怒鳴りつけた。

「その女を逃がすな! こいつはザース殿下ではないから命令に従う義務などない。皆、思い出せ。ザース殿下は亡くなって葬儀まで出しているのだぞ。生きているはずがない。こいつはザース殿下が不在の時に代役を勤めていたやつだ。顔が似ているだけの男で殿下御本人ではない。こんな偽者の言うことを信じるな」

 エフネートの声に、固まっていた手下たちは、正気を取り戻したかのように、逃げかけていたアンジェリンの方に動き出した。

 ヒュン、と剣が空を切る音と共に、アンジェリンに触れようとしたエフネートの手下二人ががくりと膝を折った。

 目を押さえたままのマニストゥは、ヒュウ、と冷やかしの口笛を吹いた。

「ほほお、自称王子様が皆を倒しましたか? 手傷を負ったにしてはお強い。わしの投げた剣はどこに命中したのですかな? 普通なら痛くて動きが鈍るはずですけどなあ」

「このザースに傷をつけるとは、よくもやってくれたな」

「グェ!」

 ザースは怪我をしているとは思えぬほど軽い動きで、無駄口を叩くマニストゥの頭を蹴り倒した。マニストゥは草の中で頭を両手で抱えて、痛そうに顔をしかめ、その場に横になった。

「黙ってそこで寝て待っていろ。おまえにはたくさん聞かねばならぬことがある」

 ザースは倒れたマニストゥの両手の甲に素早く剣を刺し、手を使えないように傷をつけた。マニストゥは耳に入るだけで寒気がするような声を上げた。

「ぎゃああ! お許しを! ザース殿下、先ほどのことはほんのたわむれでございました。自分を守るために短剣を適当に投げただけでございます。お許しください。哀れな年寄りをお助けくだされ」

「ふん、見苦しいやつめ。これで戦えまい。気が散るから黙っていてくれ」

 ザースはさらにマニストゥの脇腹に一撃蹴りを入れて黙らせると、エフネートの手下たちに向かって剣を構えた。残りの敵はエフネートを含めて三人。

「次! かかってこい。アンジェリンは私の後ろでその子を守れ。逃げろと言ったが、前言は撤回だ。この状況なら逃げてもらう前に倒した方が早そうだ」

 アンジェリンは言われたとおりにザースの背中に回り込んだ。正面にはエフネートの手下が二人。その背後にはエフネートが剣を構えている。足元はぬかるみ。草木も不規則に茂っており、とても足場が悪い。

「雨が冷たい。ぐずぐずしていたら風邪をひく」

 ザースはそう言うなり、素早く体を回転させ、エフネートの残りの手下二人をたちまち泥に沈めた。

「ご安心を。叔父上の大事な部下だから気絶させただけで殺していませんよ。この者たちの罪裁きは後ほど」


 これで四人いた手下はすべて倒され、アンジェリンの敵はエフネート一人だけになった。

 ザースは、剣を構えているエフネートに呼びかけた。

「叔父上に私を倒すことは無理ですよ。剣を捨てて投降してください」


 アンジェリンは、ザースの呼吸が上がっていることに気が付いた。彼の肩は大きく上下している。

 ――ザース様!

 彼は負傷したまま戦っている。

「あの、ザース様、傷の御手当てをした方が」

 ザースの背後から声をかけたが、そっけない返事だった。

「今すぐ手当てしなくても問題は何もない。苦しかったら戦いなどしない」

 そういうところが兄のフェールにそっくり。大丈夫ではなくても、大丈夫なつもりになっているのだ。

 ――ザース様は無理をなさっている。どうしよう……。

 アンジェリンは、ただ立っていた。この状況を静める手段は何も思い浮かばない。ウィレムは泣き続けていて下ろすこともできず、両手はふさがっている。ここは王子に頼って戦いが終わるのを待つしかない。その間も雨はやまず、皆の服はどんどん重くなっていく。冷たく、寒い。


 エフネートは少し腰を落とすと体の正面で剣を構えた。

「王子様ごっこは終わりだ。腐敗したセヴォローンを壊し、新しいセヴォローンを理想の国家にするため、王子と名乗るものなどいらん。死んだ王子は死んだままでいい」

「誰のための新しいセヴォローン? 叔父上の――っ! むっ、まだ誰かいたのか」

 言葉途中で、ザースは苦しげなうめき声を上げ、少しよろめいた。その肩に、どこからか飛んできた小さな剣──マニストゥの小剣よりももっと小さく、ひとさし指ほとの長さの手投剣──が刺さっていた。

「ザース様!」

 驚いたアンジェリンが首をまわして周囲の闇を確認すると、ガサリ、ガサリ、と草を踏みしめる音が近づいた来た。

 ランタンはひとつ。

 現れたのは二人。

「ザース様、驚きましたわ。生きておられたのですね。お強いみたいですけど、サラヤの手投げ剣はかわせなかったのですわね。今度こそ仕留めさせてもらいますわよ。転落死したはずだったのに、まだ生き延びていたなんて、しぶといお方ですこと」

 現れた二人はどちらも黒っぽいマントのような服を身に着けていた。フードで顔を隠した体から出た声は女のものだった。

 ザースは女が誰かを確認して、苦笑いをもらした。

「ふ……あなたはクレイア王女……か。思いもしなかった魚が釣り上がった。こんなところにおられたとは。お探ししておりました」

「うふふ、驚かれているようでうれしゅうございます。ザース様もエフネートもお久しぶりですこと。わたくしだって、エフネートをずっと探していましたのよ。エフネートをやっと見つけたから後をつけてきたら、こんなことになっていて、おかしくってたまりませんわ」

 クレイアは高い声を出してコロコロと笑った。そのすぐ横には小柄な侍女サラヤが亡霊のように付き従っている。サラヤの両手には円剣と呼ばれる半円形の剣が握られていた。

「ほほほほ……なんて楽しいのかしら。運よくフェール様の想い人とその子までここにいて、それをエフネートが殺そうとしているなんて。みなさま、どうぞ全力で、全員が倒れるまで戦ってくださいませ。お身内の喧嘩は死後の世界でも続けてくださってかまいませんわよ」


 アンジェリンは、エフネートとクレイア王女だと思われる人物を交互に見た。エフネートは本当にびっくりした様子でクレイア王女を凝視しており、この場にクレイアが現れたことが元から打ち合わせてあったようには見えなかった。


 雨粒が少し大きくなってきた。冷たさが増す中、その場にいる全員が雨に濡れながらにらみ合っている。

 目を押さえて転がっているマニストゥがうれしそうな声を上げた。

「その声はクレイア様ですな? おお、よいところにお出ましで助かりましたぞ。目も手もやられちまいまして、動けなくて困っております。水筒をお持ちならそれで目を洗わせてもらえませんかな?」

「サラヤ、まずはあの男をやっておしまい」

 クレイアが命じるなり、キラリと円剣が光り、小柄な影が宙を飛ぶ。それは獣のように速く動き、アッという間に、マニストゥの喉を掻き切っていた。声にならないしゃがれた空気の音と、首から噴出した激しい血しぶき。アンジェリンは悲鳴を押さえられなかった。

「ウィレム、見ちゃ駄目!」

 思わず息子の顔を自分の胸に押し付けた。

 ──マニストゥが! こんな形で殺されるなんて。


 命が消えていくマニストゥ。

 アンジェリンは必死で体の震えを押さえた。メタフ村でマニストゥにされたことは許せることではなく、あの村での出来事は生涯忘れられそうにない。あの日、肩にあてがわれたマニストゥの歯の感触の生々しさと、噛まれた痛みを思い出すだけで泣き叫びたくなる。それでも目の前で殺されると、これでよかったと大喜びする気分にはとてもなれなかった。つい、気持ちを口にしてしまった。

「マニストゥはお仲間ではなかったのですか?」

 クレイアは笑いながら返事をした。

「あら、なぜ驚くのかしら。なあに、そのお顔。泣きそうになって。そなたがフェール様が熱を上げていた侍女ですわよね? 申し遅れましたけど、はじめまして。わたくしがザンガクムの第一王女で、フェール様のかつての婚約者、クレイアですわ。わたくしとの結婚話が進んでいる中で侍女との間に子どもまで作っていたなんて、フェール様もひどい男。あんな男なんかやめておいたほうがよろしくてよ。彼は乱暴で単純で子どもっぽくて、王様には向いていませんわ」

 あからさまな嘲笑に、ザースが口をはさんだ。

「兄上を侮辱する気か」

「本当のことですわよ。彼が捕虜になったわたくしに何をしたか、ご本人に聞いてみてくださいませ。あ、でもそれは無理でしたわね。皆様の人生はここで終わるのですもの」


 アンジェリンはフェールが侮辱されたことの怒りよりも、目の前のマニストゥの死の方が大きすぎた。

「どうして……エフネート様もクレイア様も、そんなに簡単に人を殺してしまえるんですか? マニストゥは普通の世界に生きている人じゃなかったけれど、こんな形で殺さなくても」

 クレイアは涼しい顔で答えた。

「わたくしがやっていることは普通のことですわよ。この金欲まみれの男はもう使えないから処分しただけ」

「処分なんて……人は物じゃありません」

「その男はね、本当にどうしようもなくお金が大好きだったの。お金さえ出せば簡単に寝返ってしまう最低男でしたのよ。わたくしに情報を持って来てくれるけれど、同時にエフネートへ我が国の情報を勝手に流してもいたのです。そなたが今、多額のお金を渡すことをこの男に示したなら、その男はそちらの味方になってわたくしと戦っていたに決まっていますわ。それにね、この男、ことあるごとにわたくしを脅してお金を要求していたのですわよ。わたくしが潜んでいた居場所をフェール様に通報してやるってね。黙っていてやるからお金を出せと何度言われたことか。もううんざりですわ」

「そういう人だったとしても、いきなり殺してしまうなんてあんまりです」

「そなた、今、危険な状態にあるのはご自分だとわかっているのかしら? 死んだ金まみれ男のことよりも、今はご自分と御子の心配をした方がよろしくてよ?」

 アンジェリンは、すでに息をしていないマニストゥから目を反らした。両眼は泥まみれ、両手の甲からは血が流れ、首を切り裂かれて息絶えた様は、あまりにも悲しく恐ろしい最期だった。


 クレイアは、得意な芸を披露する前の子どもように顎を上げ、笑顔を見せた。

「アンジェリン、安心しなさい。そなたは、今はぎりぎり死なない状態で生かしておいてあげましょう。フェール様に会うまではね。フェール様の前で子どもと一緒にじわじわと痛めつけて命を奪ってあげますわよ。楽しみにしていなさい。きっとあの男、泣いてそなたと子どもの命乞いをするでしょうね。おほほほ、あの高慢ちきな王様が両手を付いた姿、想像しただけで心が躍りますわ」


 明るい声で笑うクレイアに、ザースは剣先を向けた。

「クレイア様がここまで最悪の女性だとは思いませんでしたよ。私は兄上がどうしてもアンジェリンを望むなら、代わりに私があなた様と結婚しようとまで考えて……つぅ……」

 ザースは倒れはしなかったが、低いうめき声を上げた。

 アンジェリンは心配の声をかけたが、ザースはアンジェリンを守るように背を向けたまま構えて、大丈夫だ、と言う代わりに軽く片手を上げた。負傷している彼の手当はまだ何もできていない。確実に彼の体液は失われている。


 クレイアはまた声を出して笑った。

「わたくしとザース様が結婚ですって? 夢のお話かしら? わたくしは、ザース様が妹のイデに熱心な恋文を送っていたことは知っておりますわよ。おかげでイデは、会う前からすっかりザース様のとりこになってしまって、ザース様が死んだと信じて、雪の山中で自死を選んでしまいました」

「イデ様が亡くなられたことは残念に思っておりますが、婚約者と定められた女性と仲良くするために手紙を書くことは当たり前のことでしょう」

「ザース様は妹をだました軽々しい方ですわ」

「兄上の暗殺を目指していたクレイア様に、そのようなことを言われる筋合いはありませんよ」

「ザース様とわたくしは仲良くできそうにありませんわね。雨もひどくなってきたことですし、そろそろ戦闘再開とまいりましょうか。ザース様は手傷を負った状態でどこまでサラヤと戦えるかしら」


 雨がいよいよ強くなってきた。至るところの草木の葉が、当たる雨にパラパラ音を立て始めた。周囲は足首から膝ぐらいの丈の草が生い茂り、あちこちに倒された人が横たわり、消えそうになっているランタンが転がっている。灯りを手に持っているのはクレイアのみで、付近は闇の中にある。


 暗い中、ザースは焦りを感じさせない落ち着いた声で、何も言わずにクレイア王女を凝視していたエフネートに提案した。

「叔父上、ここは共同戦線を張りませんか? あのサラヤという女は養成所出身者。人殺しの専門家です。叔父上が勝てる相手ではありません」

「養成所?」

 エフネートが問うとザースは早口で簡単に説明した。

「ザンガクムの養成所とは、人を殺すことに罪を感じず、幼いころからただ戦うためだけに育てられた身寄りのない子供たちの施設です。戦後ヘロンガル家の本宅を襲ったのも、クレイア様脱獄にも、養成所の子どもたちが関係していました。養成所出身者が相手では、今、我々が敵対していては全員がやられてしまいます。これではクレイア様が笑って逃げて行くだけですよ」

 エフネートは雨がしたたる顔を袖でぬぐった。

「よかろう。アンジェリンを尋問するのも後にする。今はクレイア王女と戦うことに異論はない。この王女は、俺にとっても敵だ」

 クレイアは大げさな甲高い笑い声を出した。

「ねえ、ザース様、御存じかしら? エフネートはエンテグア城内の廃貴族をそそのかして反乱を起こさせたうえ、我が国に働きかけてラングレ王の暗殺を扇動しましたのよ。そんな男と手を組むのかしら? エフネートはお父上の仇ですわよ?」

「知っておりますよ。今そこで死んだマニストゥという男が、ザンガクムと叔父上のつなぎ役をやっていたことぐらい調査済みで」

 ザースは言い終わるなり、クレイアめがけて突進すると剣を振りかざした。キン、と刃物が合わさり、サラヤが飛び出し、ザースの剣を遮る。その隙にエフネートがサラヤの横からその小柄な体に向かって剣を突き入れようとしたが、サラヤは身軽に体を回転させて、エフネートを簡単に蹴り倒した。

 尻もちをついたエフネートの胸に、サラヤが円剣を食いこませようと――。

 ザースがすかさず剣を振り回してサラヤを遮って追い払い、手早く叔父の手首をつかんでひっぱり起こす。

「すまぬ」

「叔父上、左右に分かれて攻撃しましょう」

 ザースとエフネートが同時にサラヤに向かって剣を振る。サラヤは両側からの攻撃にもまったく危なげない様子で、軽く飛び下がって避け、次の瞬間にはエフネートに斬りかかっていた。

「むっ!」

「叔父上!」

 エフネートの右太ももから血が吹き出し、彼は痛そうに顔をしかめながら右足を押さえた。クレイアの楽しそうな声が聞こえた。

「エフネートはもう終わりですの? あっけない。そんなに弱いくせにわたくしを手玉にとったのかしら。エンテグア城は簡単に陥落するって嘘を言ってわが国を散々な目に遭わせてくれましたよね? わたくしが許すと思ったら大間違いですわよ」


 アンジェリンは何もできず、泣き続けるウィレムを抱きしめながら、人々が命を懸けて戦う姿を見ていた。城にいるだろうと思われるフェールに想いを飛ばす。

 ──どうか、あの人が私たちがここにいることに気が付いてくれますように。あの人と生きていくと私は決めたの。だから、ここで殺されたりはしないわ。


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