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78.別れるためにもう一度(2)

 やがて、フェールはゆっくりと身を起こした。

「そろそろ城へ戻らないといけない」

 アンジェリンは離れたぬくもりを少しだけさみしいと思いながらも、それでいいのだと自分に言い聞かせた。日除けの向こうの窓には、まだ明るさはない。

「まだ外は暗いですよ? 危なくないでしょうか」

「暗闇に危険はつきものだが、城が大騒ぎになる前に帰る必要がある。私がここへ来ていることは誰も知らないのだ」

「またゾンデ様の変装を使ってお城を抜け出したのですか?」

 フェールは、ふふっ、と笑った。

「そういえば、そんなことがあったな。ゾンデとはずっと会っておらず、今はあの変装は使えない。ゾンデはシドを探しに行ったきり行方不明になっている。今日は王の部屋にある秘密の通路を抜けて城を出た。その先には、伝令用の馬が常時用意されているのだ」

 

 会話は途切れたが、フェールは寝台に腰かけたままですぐには立ち上がらなかった。

 彼のまなざしがアンジェリンに絡みつく。

 アンジェリンも彼を静かに見つめ返した。

 彼の眼は、瞬きする瞬間すら惜しいと思えるほどせつなそうで、密かな熱をまとっていた。

 動けない。視線を外せば、それで終わり。別れの時がやってくる。

 室内に響くのは、幼な子が立てる小さな寝息。そして外からかすかに聞こえてくる虫の音色。


 長く見つめ合っても、それ以上のことは何もなく、やがて、フェールはさみしそうに目を伏せた。

「アン、肩の傷を見せてもらいたいのだが、いいだろうか?」

「はい……」

 アンジェリンは言われたとおりに寝台の上でフェールに背中を向け、夜着の肩をはだけさせた。フェールの視線を背後から感じる。それだけで顔が火照った。

 ──背中を見せるだけよ。血が上った顔を隠せるからちょうどいいの。


「やはり痕が深く残っている。シャムア軍にいた時も、この傷のことが気になって心配で仕方がなかった。きちんと医術師をつけてやれず、ずっと後悔していたのだ。触れてみていいか?」

「……どうぞ」

 フェールの指の腹が、アンジェリンの傷痕に触れた。

「押すと痛いか?」

「いいえ」

 彼の指の腹が傷の上を移動していく。

 アンジェリンはゾクッとする感覚をこらえた。

「完治していても、腕を動かすとひきつるのではないか? 私の腹の傷痕もそうだから」

「確かにひきつるときはありますけど、普通に生活できるから問題ありません」

「そうか。日常生活に支障がないならそれは不幸中の幸いと言うべきだろうが、この傷跡は一生残るだろう。私のせいだ」

 ふいに彼の声が近くなった。

 ──あっ……!

 アンジェリンは背中で感じた吐息に、思わず身を震わせた。彼の唇が傷痕に押し当てられている。

 彼は、傷痕をなぞるように唇を少しずつずらしながら、傷を上下の唇で軽くつまんだ。

「こうすることで、この傷痕がなくなればよいのだが、いまわしい刻印は決して消えはしないのだ」

 その唇の感触……唇を使い、皮膚をやさしくつかんでは離すような動き。かつて肌を合わしていた時、彼はよくこんなふうにアンジェリンの全身を唇で愛した。

 アンジェリンは急激に高まる熱に必死で耐えた。うっかりおかしな声を出さないよう、口をしっかり閉じる。

 ──ディン……やめて……。

 呼吸まで乱れてしまいそう。いっそこのまま昔のように愛されたい。

 ──だめよ、流されてはいけない。


 そんなアンジェリンの思いを見透かすように、フェールはすっと唇を離し、はだけていたアンジェリンの夜着を背後から引っ張り上げ、傷痕を隠した。

 フェールは自虐的な笑い声を漏らした。

「は、ははは、ようやくわかった。おまえはその子の父親が、こんな不快な男だと思いたくないということだ」

「いいえ、そんなんじゃなくて……」

「今、おまえがすごく嫌がっていたのがわかってしまった」

「それは……あの……」

 アンジェリンは黙り込んだ。大人な気分になってしまった、と言えるわけがない。


 部屋は再び沈黙に支配された。再び向き合う寝台の上。

 アンジェリンは身動き一つとれず、彼の視線をただ受け止めていた。恥ずかしすぎて顔を隠したいのにそれもできない。フェールは寝台に腰かけたまま手を出してこず、ただアンジェリンの上気した顔をじっと見つめている。

 呼吸音すら立てることをためらってしまうような張りつめた空気の中、瞬きすることすら惜しむように、視線が絡み続ける。それ以上の行為は何もなく。見つめ合ったまま時間が流れていく。

 アンジェリンはいけないとわかっていても、時を忘れてしまいそうだった。


 長く静かな時をおいた後、フェールは立ち上がり、傍らの小さな寝台に近寄った。

「この子と同じ部屋で寝ているのか」

「別室にしていたときもあったのですが、夜泣きがひどくて、結局同室にした方が私もゆっくり眠れるので。歩くようになってからは夜もしっかり眠ってくれる日が多くなりました」

「おまえも母親になってがんばっていたのだな」

 フェールはやさしい笑顔になって眠る子を見おろした。

「そなたが私を拒否するなら、私はそなたをあきらめる。だが、ひとつだけ望みを叶えてほしいのだ。後悔したくないから、今、この子を抱かせてくれないか? すぐに返す。父親としてこの子を抱きたい」

 父親として。

 言葉の響きに、アンジェリンは痛い胸を密かに押さえた。


「アン? 嫌か? それすら許可してもらえないのか?」

「許可なんて、そんな」

 アンジェリンはフェールの隣に立ち、子の寝台を一緒に覗き込んだ。

 幼いウィレムは両手を頭の上にあげて気持ちよさそうに眠っている。アンジェリンはそっとウィレムの背に手を入れて、寝台から抱き上げた。

「抱いてあげてください。泣いてもかまいません」

 アンジェリンはフェールに子を差し出した。愛する人に子を抱いてもらう瞬間。この時をどれほど夢見ていただろう。

「許可、感謝する」

 フェールは恐る恐るアンジェリンの腕にいる小さな存在に手を伸ばして、子を抱きとった。


 ウィレムは目を覚まし、抱いているのが母親ではないとわかると、不快そうに怒り声をあげ、抗議するように手足を動かして背中を反らした。

「おお、よしよし、思ったよりも重いな。シャムアの神に感謝しよう。こんないい子をさずかった。ウィレム、私が嫌いか?」

 起こされて不機嫌になっていたウィレムは、突然、フェールの頭上まで高々と持ち上げられ、驚きと喜びが混じった甲高い声を上げた。フェールは二、三回それを繰り返すと、少し落ち着いた子をきちんと抱き、その頬や髪に何度も頬ずりしては、ところかまわず唇を押し当てた。

 ウィレムは澄んだ目を開いて、抱いているフェールの顔を不思議そうに見ている。

「ウィレム、私がおまえの真の父だ。まだ小さすぎて今宵のことは記憶に残らないと思うとせつないが、それでいい。私はおまえに何もしてやれず、家族として共に生きることはかなわぬ」


 横に立って二人の様子を見守るアンジェリンは、朝のようにあふれてきた嗚咽で口を押えた。

 ――私は大切な人にこんな悲しいことを言わせて、また追い払おうとしている……。


 フェールは全力で子と触れ合っている。普通の家庭ならば、いつでも見られる幸せでありふれた光景に違いないというのに。幸せそうな笑顔のフェール。しかしこれは今の時間限定。それも、人生において、たった今だけのごくわずかな時間なのだ。


「アン、この子を生んでくれてありがとう。遠いこの家まで来たかいがあった。困難な壁にぶつかり心が壊れそうになったら、今夜のことを思い出して自分を励ますことにする。遠く離れていても、私はいつでもおまえとこの子の幸せを願っている。ん? またしても大泣きしているのは母親の方か」

「その子は……」

「もうよいのだ。おまえが何と言おうとこの子は私の子だ。だが、おまえが親子関係を否定する以上、私はこの子の父親にはなれない。王子として生きない方がいいとおまえが判断したのだから、それが正解なのだ。この子とは今後はこうして会うことはできないが、この子を頼むぞ」

「……っ……申し訳ありません」

 フェールは、涙でむせて咳き込んでいるアンジェリンにウィレムを返した。


 ウィレムは、アンジェリンの腕に戻ってもまだフェールを凝視していた。左右色違いの目はぱっちりと開いている。

 フェールはその頬を指先でつついた。

「かわいいやつめ。おまえには父はいないが、最高の母がここにいる。やさしい母に守られ育ち、母を守れるような強い男になれ」

 フェールはポケットに忍ばせてきたガラス玉の首飾りを取り出し、手のひらに乗せてアンジェリンに見せた。

「その首飾り……」

「憶えているだろう? あの強欲武器屋から買った物だ。短剣を買った時に一緒に」

 フェールの手の上で光るガラス玉の首飾り。アンジェリンは、なつかしさと同時に、あの時一緒に買った短剣が、イルカン殺害の凶器と決めつけられてしまったことを思い出し、思わず目を反らしていた。

「おまえに返しておく。この首飾りは長く身に着けていたが、おまえのことばかり考えてしまうからはずしていた時もあったのだ。これは私にとっては大きな力を与えてくれる世界にひとつしかない宝だった。おまえが私と別離の道を選んだ以上、これを私が持っていても仕方がない。いつか、その子が成長した時、本当の父親との思い出の品だと言って見せてやれ」

 フェールは、首飾りを、うつむくアンジェリンの首に回してつけてやろうとしたが、ウィレムがガラス玉に興味を示し、つかんで口へ持って行こうとしたので、つけてやるのは断念した。

「駄目だな。ここへ置いておくぞ」

 フェールは首飾りをウィレムの手から離すと、アンジェリンの寝台の枕元へ置いた。

 ウィレムはせっかくのおもちゃを取り上げられ、抗議の金切り声を上げた。フェールはそんなウィレムの頬をまたツンとつつき、楽しそうに笑った。

「怒っても無駄だぞ。これは口に入れて遊ぶものではないのだ。さて、城へ戻るとしよう。アン、ウィレムと見送ってくれ。それとも、朝のように泣いて出て来てもくれないのか? そこまで嫌われたかと思うと悲しい」

「っ……いえ、ちゃんとお見送りします。朝は、申し訳ありませんでした」



 見送りに出てきたロイエンニは、静かに頭を下げた。

「陛下、お望みであれば、今から娘と子を連れてどこかへ行かれてもかまいません。旅の用意をいたしましょうか?」

 フェールは、驚いた顔を一瞬だけ見せたが、すぐにさみしそうな笑い顔に変わった。

「さすがロイエンニ。恋を貫いた者が言うことは違う。今からアンジェリンとウィレムを連れて逃げてもいいと言うのか? もしも、今も父とザースが生きていたなら私は迷わずそうしたことだろう。だが、私はもう国王だから、勝手に行方をくらますことはできないのだ」

「陛下は、手を付けたうちの娘よりも王位が大切だとおおせですか?」

 ロイエンニの突っ込んだ質問にもフェールは怒ったりはしなかった。

「どちらも大切だ。だが、先の戦いでも、王の名の元に多くの民が戦い、傷つき、死んだ。アンジェリンのことは、今でも焦がれ死ぬほど愛しているが、私はセヴォローンの王だ。無責任に民を捨てて、アンジェリンと逃げることはどうしてもできぬ」

 ロイエンニは唇を横にひき、微笑んだ。

「そのお言葉を聞いて安心いたしました。駆け落ち同然で結婚した自分が言うのはおかしなことでございますが、もしも、陛下がお立場を考えず娘と今逃げる、とおっしゃったなら、自分は陛下に殴りかかっていたかもしれません」

 ロイエンニは顔を上げ、フェールを正面から見据えた。フェールは苦笑いした。

「そなた、娘の夫にふさわしいかどうか、私を試したな」

「失礼しました。王位を放り出すような無責任で軽々しい男には娘の夫はまかせられないと思っておりましたので」

 アンジェリンは驚いて父の顔をまじまじと見てしまった。王族に対してこんな態度を取った父は初めて見る。

「お父様?」

 戸惑うアンジェリンをよそに、フェールは、ロイエンニに対し、深く頭を下げた。

 それは、朝と同様、敬意を含んだ正式な礼の仕方だった。普通ならば、王が他人に対しこのような礼をすることはまずない。

「ロイエンニ・ヴェーノ殿。アンジェリンとのことをお許しいただきたい、とは虫が良すぎるとわかっている。だからこれを受け取ってほしい」

 フェールは城から持ってきた皮袋をロイエンニに渡した。ずしりと重い皮袋。チャリ、と音がして、中は金貨だとわかったロイエンニは、やんわりと拒否した。

「陛下、おそれながら、いただく理由がございません」

「これまでの迷惑料だ。これが私に用意できる精一杯だった。これを使って私兵を雇い、ウィレムとアンジェリンを守ってほしい。その子がもう少し成長したらきちんとした教育をつけさせてくれ。今後、その子にかかる費用は母が墓参りに来るときに密かに託す。アンジェリンとウィレムのことをどうか、頼む」

 フェールはロイエンニに向かってもう一度深く頭を下げ、袋を再び押し付けた。

「陛下、いやしい私どもにそのように頭をお下げになってはなりませぬ」

「受け取れ。この子にこれから必要な額には程遠いが、否定されても私はこの子の父親だ。この袋の中に、金貨と一緒に王の腕輪が入っている。その腕輪は対になっている片方だ。ひとつは王城内にあるから、困ったことがあればそれを持って城へ来い。私の直筆のウィレムを王子と認める書類もその袋の中に一緒に入れてある。私の部屋にももう一部同じ書類を作っておいた」

「しかし……」

「父親としては、私の顔など見たくもないことだろう。そなたが大切に育てたアンジェリンを傷つけただけでなく、私は今も彼女をこんなに泣かせて苦しませている。だが、私は本気でアンジェリンを深く愛している。今朝は正式に迎えに来たつもりだったのだが、彼女にそのつもりがなくてはどうしようもない。そなたを父上と呼べなくて残念に思っている」


 ウィレムを抱いて黙って二人のやり取りをみていたアンジェリンは、泣きながら首を横に振り、話に入った。

「私は苦しんでなどいません。陛下と御一緒できて、楽しくて……幸せでございました」

「そう言ってくれるとうれしい」


 フェールは玄関にいた警備兵の顔をみて、んん、と眉を動かして苦笑した。

「どこかで見た顔だと思ったら、そなたら、白花隊の者だな? 母上はやはり白花隊から兵を選んでここを守らせていたか」

 私服の兵たちは否定も肯定もせず、心配そうに外の暗がりに目をやった。

「陛下、おひとりでは危険でございます。我々が城までお守りいたします」

「おまえたちは私の警護を命じられたわけではないだろう?」

「それはそうでありますが」

「おまえたちが守るべきものはここにある。どんなことがあってもアンジェリンとウィレムを守ってくれ。頼んだぞ。では、皆、さらばだ。アン、ウィレム、幸せに」


 馬に乗ったフェールは、片手を軽く上げ、別れのあいさつをすると、月明かりだけの闇に歩みを進めて行った。

 ゆっくりと彼の姿が闇に溶け込んで見えなくなった。高原を下りる途中までは一本道とはいえ、月明かりだけでは馬で走るには暗すぎ、慎重に馬を進めるしかない道。道幅は馬車が一台通るだけの幅しかない狭さで、決して安全な道とはいえない。それでも彼は城へ戻っていく。

 フェールは一度も振り返らず、高原の家を後にした。

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