79.闇への危惧
「お嬢様、お部屋に入りましょう」
ターニャが声をかけたが、アンジェリンは子を抱いたまま玄関前から動かず、涙で頬を濡らしながら、すすり泣き続けていた。フェールの姿はもう見えない。
アンジェリンはウィレムを抱き直すと、涙が止まらない目頭をぎゅっと押さえた。
「行ってしまったわ。泣いてみせるなんて、よく考えたら変だったわよね。自分が追い払ったくせに」
「泣いて当り前ですよ。好きな人とこんな別れ方しちゃったんですから。私なら取りすがって泣きわめいちゃいますよ。さ、虫に刺されそうだから中へ戻りましょう」
ターニャに入室を促されても、アンジェリンはその場に留まり、別れの余韻を抱きしめながら彼が見えなくなった闇を見つめ続けていたが、ふと不安が走った。
城までの道中は長い。夜道を国王がたったひとりで、馬車ではなく乗馬で行く。もしも今、彼が夜盗にでも襲われてしまったら。シャムアで大けがを負い、血まみれで横たわっていたフェールの姿が脳裏によみがえった。
アンジェリンは身震いした。あの時の彼の青い顔。弱い呼吸。薬師の村で覚悟が必要だと言われた時の衝撃。
また彼は危険に身をさらしている。アンジェリンのために。
「やっぱりこのままでは危ないわ。ターニャ、この子を寝かせておいて」
アンジェリンは、息子をターニャに押し付けるように渡すと、ロイエンニが持っていたランタンをひったくるように奪い取り、闇に向かって突然走り出した。
「アンジェリン! 追いかけてどうする」
「危険だから」
アンジェリンは、ロイエンニの声に答えになっていない返事をすると、馬や馬車用の太い道とは別に作られている旧道の方へ駆けて行った。
アンジェリンが目指した道は、馬車道がなかった昔に作られた徒歩専用の狭く急な山道で、人がふたり並べるかどうかの幅しかなかった。今は使われておらず、軽い草刈りぐらいはしてあっても、土止めの丸太も腐り、地面は雨水で削られてあちこち深い溝ができており、荒れ放題になっていた。それでも、この旧道は馬車道と数回交差しており、急いで降りれば、フェールのいく手に立ちはだかって彼を止めることができるかもしれなかった。
アンジェリンは大急ぎで山道を下った。
──ディン、待って。
せめて夜が明けるまで。
闇にまぎれた盗賊に彼が襲われないように。
アンジェリンは一本目の馬車道と交差する場所へ出たが、フェールの姿は見当たらなかった。さらに山道の先へ進む。やがて次の馬車道との交差地点に出たが、そこにも彼の姿はない。
「もう行ってしまったの?」
ランタンを前に突き出し、足元を照らしながらさらに先へ進む。
──急がなきゃ。手遅れになる前に追いつかないと。
「きゃっ!」
石に躓いたはずみでつんのめり、ランタンが手から離れ、アンジェリンは急な斜面をごろごろと転がり落ちて行った。
悲鳴がどこかから聞こえた気がしたフェールは、馬を止め、振り返った。月明かりしかない夜の中に人の姿は見えない。
「ふっ、愚かしい。アンが追いかけて来てくれるわけがない」
追ってきてほしい、という願望が幻の声を耳に届けたのかもしれない。彼女とは終わった。今別れてきたのだから。
フェールはそのまま馬を進めようとしたが、アンジェリンを呼んでいるロイエンニの大声が聞こえると、ただ事ではない気がして、元来た道を急いで引き返した。
フェールが屋敷玄関前へ戻ると、ターニャがむずかるウィレムを抱いて円を描きながらオロオロと歩き回っていた。この二人の他には誰もおらず、先ほどまでそこにいたロイエンニや白花隊の兵たちはいなかった。
「何かあったのか? 悲鳴が聞こえたようだが」
「お嬢様が陛下を追いかけて行ってしまったんです。ご一緒じゃないんですね?」
「会っていないぞ」
「あちらに細い旧道があって、お嬢様はそちらから降りて行かれたのですが、悲鳴があがったあとランタンの光は見えなくなって、今、旦那様たちが心配して捜しに」
「何だと?」
フェールは馬から飛び降りると、玄関の柱に馬をつなぎ、ランタンを手に山道の方へ走った。道を上から見下ろすと、しげった草木の間を小さなランタンの灯りが複数動いているのが見えた。皆、アンジェリンを呼んでいる。
フェールも、彼らの方を目指して山道を下った。道は場所によっては足首以上の長さの下草も生い茂っている。月明かり程度では小石があっても全くわからない。ランタンがあるとはいえ、あわてすぎて足元を見誤り踏み外すと谷まで落ちてしまうかもしれない。
フェールも『捜索団』に加わり、大声で呼んだ。
「どこにいる、アン、返事をしろ」
やがて馬車道と交差する場所に出たが、アンジェリンの姿はない。馬車道を超え、さらに山道を下ると、途中で白花隊の兵が叫んだ。
「ここに消えたランタンが転がっています」
「その辺の藪の中に倒れていないか? どけ!」
フェールは狭い道に並ぶ男たちを押しのけ、大急ぎで周囲を照らした。アンジェリンの姿が見つからない。
さらに先へ進むと、次の馬車道との交差点に出た。
アンジェリンの名を大声で呼ぶと、どこかから小さな声がした。
「ここにおります」
フェールが声のした方を見ると、谷の方からガザガサと落ち葉に触れるような音がしている。ランタンで照らすと、木々の間に、アンジェリンだと思われる黒い塊が片手をあげていた。
「怪我は?」
「大丈夫です、転んだだけですから。心配をおかけしてすみませんでした。途中でうっかり踏み外して、ランタンがどこかに飛んでいってしまいました」
フェールは、斜面にへばりつくように手をついているアンジェリンの元へ行こうとしたが、踏み出した場所の足場が悪く、石ころがガラガラと崩れ落ち、あわてて足を戻した。
もう少し山道を下へ降りて、下から斜面を登って救出することにした。
ロイエンニたちが両手にランタンを持って付近を照らし、フェールが斜面をよじ登る。
フェールが近づいていくと、アンジェリンは叫び声に近い声を上げた。
「陛下、いけません! 私は自分で戻れます。危険なことはおやめください。馬車道へお戻りください」
「いいから手を伸ばせ。私の手をつかむのだ」
フェールが手を差し伸べても、アンジェリンは手を伸ばしてこなかった。
「手が動かないのか?」
「……私は陛下の御手を取ることはできません。私がいやしい生まれだとご存じなのでしょう? それに血で汚れますから」
「手に怪我をしているのか? 早く手当てをしよう」
それでもアンジェリンが動かないため、フェールはさらにアンジェリンに近づき、とうとう彼女の腕をつかんだ。アンジェリンは、フェールを振りほどきはしなかったが、首を左右に振って抵抗した。
「陛下、駄目です。下品な女のためにこれ以上危険なことをしてもらっては困るんです」
「今そのようなことを言っている場合ではない。危ない!」
突然アンジェリンの足元が崩れ、彼女は自然にフェールがいる場所に転がり落ちてきた。
フェールは木の葉だらけになっているアンジェリンを抱きとめ、斜面に生えている木の幹で体を支えた。フェールがアンジェリンの顔を覗き込むと、彼女がひどく泣いていたことがわかった。
「また泣いているな。私はアンを苦しめるだけしかできない男か?」
「……そうではなく……っ……」
フェールは斜面でアンジェリンを抱き上げ、足元に気を付けながら馬車道に戻ろうとした。
「あのっ、お、下ろしてください。こんな場所で、危ないって言っているじゃないですか! 大丈夫です。自分で歩けます」
「黙って抱かれていろ」
フェールはアンジェリンを抱きあげたまま慎重に馬車道に戻り、そのまま馬車道をたどって屋敷の方へ向かって歩き出した。ロイエンニが先導して道を照らし、白花隊の兵が数歩離れて後ろをついてくる。
「なぜ、このような無茶な真似をしたのだ。危険なことをしているのはおまえの方だぞ」
「陛下に申し上げたいことがあったのです。お願いですから、このまま暗い中をおひとりで帰らないでください。危険すぎます。朝が来るまで我が家でお待ちください。それが言いたくて急ぎ追いかけました」
「無断で出てきたから早く帰らないといけない、と言ったはずだ」
「お城はいつまでも待ってくれるはずです。こんな暗いのにおひとりなんて、陛下の御身にもしものことがあったら」
「あってはならないようなことなど城にこもっていても起こりうることだ。どうしようもないことを考えても意味がない」
「駄目です!」
アンジェリンの声はだんだんと大きくなってきた。「マニストゥの家であったようなことがまたあったらどうする気ですか。これ以上、私のために危険な目に遭うなんて、そういうの、もう耐えられないんです」
「仕方がないこともある」
「いやです。私っ、本当は、ささやき亭からディンがいなくなってしまって、心配で狂いそうでした。王子だとばれらたどうしようとか、希望場所に配属されなかったらどうなるのかとか、考えたら、いてもたってもいられなくて。また今夜もあの日のように、あなたがひとりで闇の中へ行ってしまうなんて、そんなの、やめてください。仕方がないなら、せめて、明るくなるまで我が家でお休みください。それ以上はお引き止めいたしませんから」
フェールは驚きを含んだ目で腕の中のアンジェリンを眺めた。彼女が強く自分の意見を通そうとするときは――グフィワエネたちの処刑のときもそうだったが――よほどのときだ。
アンジェリンは、先ほどの夜着のままであり、薄い生地はあちこち破れているだろうと思われた。暗くてもひじから血が出ていることが見て取れる。
アンジェリンの必死な目がフェールを見上げている。
「陛下、冷静にお考えください。こんな女のために王様が死んではいけないんです。おぞましく下品な出自で、しかもあなたを守ることもできないような、何の価値もない女に命をかけるなんておかしいんです」
「私はまだ死なない予定だ。勝手に殺すな」
「ですから、早々と死なないためには、危ないことはやめていただきたいとお願いしております」
「私だっておまえを失ってしまったら、今度こそ自分を呪い殺してしまうかもしれない。こんな怪我までして、なぜおまえは無茶をするのか」
「無茶をしているのはディンの方ですよ。闇は危ないって、明るくなってからの方が少しでも安全だって、申し上げているのに。私は、あなたが普通に生き続けて幸せになってくれればそれでいいのです」
「だが、私は帰らねばならぬ」
アンジェリンはフェールの首に腕を回して、ぎゅっとしがみついた。
「アン?」
「っ……ディン……今はいかないで。あなたを失ってしまったら私……どうか、危険な事ばかりしないで」
「そこまで言うか」
アンジェリンの濡れた瞳がランタンの薄明りの中で光る。
目が合った。
フェールはこらえきれず唇を重ねていた。
唇はすぐに離れたが、久しぶりの口づけにアンジェリンは涙した。
──ディンが私を抱きしめて口づけしてくれた。彼は私を今もこんなにも愛してくれている。
それはアンジェリンが何度も夢に見た愛する男の腕だった。
腰と肩に回ったフェールの腕のぬくもりは昔と変わりない。ささやき亭で待っていたときも、寒い牢獄の中でも、何度、この腕を欲しいと思ったことか。フェールの低い声は相変わらずやさしく耳に心地よい。
「泣くな。私も悲しくなる。おまえの意志に反するが、やっぱり城へ来てくれないか? もちろん、ウィレムとロイエンニも一緒だ。ここは大勢に襲われたらひとたまりもない山奥だ。城の方が多少は安全だと思う。私が傍で守ってやれないことは苦しい」
「私を守るとか、そんなことよりも、この国で大切なのは御身なのですよ。どうしてわかってくださらないのですか」
「私にとってこの身よりも大切なのはおまえたちだ。こうして遠く離れていると互いに無駄に心配し合うことになる。近くで、顔が見えるようなところで暮らしてくれた方が安心できるではないか。だから、城へ来てほしいのに、なぜ私を拒否するのか。ウィレムが誰の子でもかまわぬ」
「そんなの、いけません……」
アンジェリンは必死で嗚咽を押さえた。耳元でささやかれるなつかしい声。目の前にある彼の胸板。戸惑いつつも肌を合わせこの胸に包まれて幸せに眠った日の記憶が噴水のように湧き上がってくる。彼の命が消えかかっていたときの恐ろしさも同時に。
「おまえがウィレムを王子と呼ばせたくなく、私の子ではないということにしたいならそれも認めよう。それでも私はおまえと共にいたいと思っている。おまえに振られたばかりの今ですら」
「……」
「私にはどうしても理解できぬ。なぜ泣いてまで私とのことをなかったことにしたいのか。それほどおまえを夢中にさせてくれる男がいるということか。おまえは本気でレクト・セシュマクと結婚するつもりなのか」
アンジェリンは必死で首を横に振った。返事などできない。
フェールはアンジェリンを抱く腕に少し力をこめた。
「アン、結婚しよう。このまま離れていてはお互いに身を滅ぼすことになる」
「……泥棒の娘が王妃様になれるわけがないじゃないですか」
「それは違う。おまえは間違った情報を信じさせられている。おまえの両親の件については、時期を見て、母から詳しい話をしてもらうつもりだが、事情により軽々しく口にはできぬ。ただこれだけは言っておくが、おまえは出自を恥じることはない」
「おっしゃることがわかりません。私の両親はいやしい盗人なんですよ」
「だから、それは違うのだ。違うと言っても、すぐに信じてもらうには無理かもしれないが。話すと長くなる」
「私の両親の話はもうやめてください。聞きたくありません」
「そうか……ならば、後日、母から話してもらうことにする」
フェールはアンジェリンを腕に抱いたまま歩きながら、ときおりアンジェリンの顔を確かめるように見おろした。
「私と結婚したくないならそれでもいい。傍仕えでいいから、おまえを近くに置きたい。城で共に暮らそう」
「こんな女がお傍にいたら、陛下のお妃さまになる方がお気の毒です」
「私はおまえ以外の誰とも結婚しないつもりだ」
「それでは周りの人が納得しないと思います。王妃には書記官のご令嬢を迎えてくださいませ。由緒正しいお家柄で、あなたの後ろ盾になって支えてくれる女性がお傍にいらっしゃるそうですね。その女性のほうが、王妃にはふさわしいと思います」
「書記官の令嬢?」
フェールの足が一瞬止まりかけ、アンジェリンは失礼なことを言って彼を怒らせてしまったのかと息を引いたが、彼の言葉の続きは予想外のものだった。
「それは、ティアヌ・バイスラーのことを言っているのか? 彼女とは何もなかったのだが、彼女は殺された」
「えっ……!」
「私とうわさになったという理由だけで、ティアヌは自宅から連れ去られて無残に殺されたのだ」
アンジェリンは言葉を失い、フェールの胸の中で身を縮めた。
フェールは軽いため息をついた。
「おまえたちのことが心配でたまらない。マニストゥもクレイア王女もまだ逃げている。私に目をかけられているおまえはいい標的だ。彼らがいつここへやってくるかわからないのだぞ。城にいたって危険はあるが、城の方がまだましだと思う」
「でも……」
「アン、私たちには話し合いが必要のようだ。おまえの言うとおりに、夜が明けるまで屋敷で世話になることにするから、今宵はとことん本音で話し合おうではないか。おまえは私を愛してくれているのだろう? 身を投げ出しても私を止めにくるほど」
「……」
「私は今も変わらずおまえを愛している」
フェールはいとおしそうにアンジェリンを見おろし、もう一度アンジェリンに口づけた。
アンジェリンは涙を流しながら、フェールの胸に頬をそっと寄せた。
屋敷に戻り、怪我の手当てを終えたアンジェリンは、フェールが待っている部屋の前で躊躇していた。この部屋の扉を開けたらフェールがいる。女装したザース王子がここへ来たことを隠し通せるだろうか。フェールは弟王子がまだ生きていることを知らないのだ。そして、それよりももっと気が重いのは。
──今、彼に望まれれば、私はきっとすべてを許してしまう。
彼に甘い顔をしてはいけない。それは彼のためにならない。けれど、もしも手を差し伸べられたらどう突き放せばいいのか。自分自身が彼の腕を欲しがっている。彼の胸に甘えてすべてを開いてしまいたい。彼を拒絶しなければならないのだから、子どものようにときめいているこの胸の内を知られてはいけない。
アンジェリンは胸に手をあてて深呼吸した。彼の話がどんな内容であっても、国王をいつまでも待たせておくわけにはいかない。
夜にしつこく引き留めるとは、冷静になって考えると、ものすごく恥ずかしい。もしかして、大人の行為を期待させてしまっただろうか。そんなつもりはなくても、そういう意味だと勘違いさせたかもしれない。
──ああ、あれこれ考えても仕方ないわね。【陛下】は【平気】なのかしら? ……って使い古しの駄洒落を出している場合じゃないわ!
アンジェリンは、もうどうにでもなれ、という気持ちを奮い立たせ、扉を控えめに叩いた。どうぜ、残念な出自はもう明かされている。いまさらそれが暴露されることを恐れる必要はない。
「陛下、お待たせしました。アンジェリンです」
返事はなく、もう一度叩いたが、室内はしんとしていた。痛めた足を引きずりながら、静かに扉を開け中へ入ると、フェールは用意された客室の寝台に服のまま横たわり、眠りこけていた。
アンジェリンはほっとしながら、寝台に腰掛けて彼の疲れた寝顔を眺めた。一緒に旅をした時にわかったが、フェールはとても寝つきの良い男だった。先ほどまでしゃべっていたのにすぐに寝息が聞こえてくるようなことは何度もあった。そしていったん眠ってしまうと、その眠りは深い。狭い寝台で共に寝ていたアンジェリンが少しぐらい動いても気づかず、靴を脱がせるぐらいのことでは目覚めはしない。
「お疲れでしたね」
よく考えたら彼は朝もここへ来ている。長距離を馬で走ることはどれほど疲れたことか。ただでも王の激務をこなして忙しいのに、サイニッスラまでの余分な往復。アンジェリンのためにまた無理をしたことは明らかだった。
アンジェリンは眠るフェールの頬に手を伸ばしかけたが、思い直して彼に触れずに手をひっこめた。
──私はこの人に触れる権利はない。私はこの人の命を吸い取るようなことばかりしてしまうから。
フェールは何も知らずに静かな寝息を立てている。目覚めて話をすれば、ザース王子のことをうっかり口走ってしまうかもしれない。城へ来てほしいと言われて、心が揺れたことも見抜かれてしまうだろう。
彼にそっと毛布をかけ、静かに部屋を去った。




