77.別れるためにもう一度(1)
その夜、フェールは全く眠れなかった。朝、遠いサイニッスラまで馬で往復しており、城へ戻ってからはすぐに重要会議があり、とても疲れているはずだった。それなのに頭は冴え冴えとして、今日の出来事を繰り返し思い出してしまう。寝返りを打ち、気分を変えようとしても、どちらも向いても胸はすっきりしない。
フェールは窓辺に立ち、日よけを少し上げて外を覗いた。月光に照らされた庭の木々が、闇の中に黒く枝を広げている。普段と何も変わらない風景がそこにある。
この部屋は王の部屋。昔住んでいた王太子の部屋とは違い、かつて、アンジェリンが通る姿を見ていた部屋から見える景色とは全く異なる。アンジェリンを見るために窓辺に立っていた王太子時代は、今はもう戻れない過去になってしまった。
虚しくなり、外を見ることはやめ、寝室に備え付けの家具の引き出しを開けた。
しまい込んでいたガラス玉の首飾りを久しぶりに手に取ってみる。アンジェリンの首飾り。指に紐をからめ、目の前で揺らせば、小さな反射光と共に思い出がよみがえってくる。
甘くも苦い思いに心が乱れ、首飾りを手の中に握りこんだ。
「私は何をやっているのだ。迷惑をかけただけで、きちんとした謝罪すらしていないではないか」
自分が今日アンジェリンにしたことは最低のことだった。サイニッスラへ行った行為は、マナリエナの言う通り、母子が襲われる危険度を上げただけ。半日を費やした小旅行は、アンジェリン母子の存在を王室所属の兵や侍従たちに大声で教えたも同然。それだけでなく、王の一行を目撃した街道沿いの民の憶測も呼んでしまったかもしれない。感情にまかせて行動してしまう自分が嫌になる。
「冷静になれ。私は寛大な心で彼女が選んだ相手を認めてやらねばならぬ」
アンジェリンが誰を選ぼうと、それはアンジェリンが決めること。自分は選んでもらえて当然だと思っていたことはただの思い上がりだった。思いもしなかった生存情報に心躍るも、彼女が選んだ道は決別。
フェールは手の中にある首飾りをもう一度目の前にぶら下げて眺めてみた。
「拒絶されてもアンとウィレムのためにできることはまだある」
このままでは絶対に後悔する。
──心おきなく別れるために、もう一度だけ会いに行こう。これで最後だ。
静かに外出着に変え、密かに荷造りすると、王の寝室だけに作られている城外へ出る秘密階段をひとりで下って行った。
その日の深夜、アンジェリンが住むサイニッスラの屋敷は、突然の訪問客に騒然となった。
屋敷内にはザース王子が置いて行った白花隊の警備兵が複数おり、彼らが対応にあたったが、深夜に馬に乗ってひとりきりでやって来た訪問客が誰なのかわかると、あわてて扉を開いた。
「陛下!」
「お嬢様、起きてくださいませ!」
泣き疲れたアンジェリンはすでに眠っていたが、ターニャの声にはっと目を開けた。
「お嬢様、大変です。陛下がおひとりでまたお越しです」
「えっ……?」
アンジェリンは窓に目をやった。日よけの向こうに明るさはない。
「今、まだ夜よね? もう明け方なの? どうして陛下が今……」
フェールとは朝、泣いて別れたばかり。また彼が。
寝ぼけた頭が混乱し、考えを整理する間もなく、燭台を灯したターニャがアンジェリンをせかす。
「とにかくすぐにお仕度なさいませ。陛下はお嬢様に会いたいと仰せです」
「ん……わかったわ。急いで着替えるから手伝って」
「その必要はない」
戸口から突然聞こえた男の声に、アンジェリンとターニャは軽い悲鳴をあげた。
ターニャが慌てていて扉を閉めるのを忘れてしまい、開いたままになっていたアンジェリンの部屋の扉の前には、フェールがすでに立っていた。彼の後ろには、困った顔になっているロイエンニや、白花隊の兵二名がくっついている。
「入らせてもらうぞ」
フェールは、有無を言わさず部屋に入ると、一直線に寝台へ向かい、寝台の上に座り込んでいるアンジェリンを見下ろした。
アンジェリンは、白く薄い前合わせの夜着一枚の姿。それも紐で緩く結んだだけの簡単服。容易にほどけてしまう。アンジェリンは、あわてて前をしっかり合わせた。
「……陛下……」
「無礼は承知している。こうでもしないとおまえとは話はできまい。着替えなどしなくていいから、二人だけで話をしよう。今日は話をしに来ただけだ。おまえに手出しはしない。おびえるな」
フェールは他の者たちを追い払って扉を閉めると、アンジェリンの寝台に腰掛けた。
「起こしてすまない。あれからずっと泣いていたのか。目が腫れている」
アンジェリンは、寝台の真ん中で動けないままシーツを握りしめた。息子のウィレムはすぐ横に置かれた小さな寝台の中で眠っている。
「私の子だろう?」
アンジェリンが沈黙を守り続けていると、フェールは寝台にごろりと横になり、アンジェリンの太ももの上に頭を預けて目を閉じた。
アンジェリンは身を固くした。この感覚は知っている。重傷のフェールと共に馬車でエンテグア城へ帰ろうとしていたとき、彼の頭はアンジェリンの太ももの上にあった。今の彼は、あのときのように冷たくはなく、顔色も良い。
「こんな時間で非常識だとわかっているが、夜しか自由な時間が無いのだ」
「無理をしてここまで来てくださったのですね」
「朝のことをどうしてもわびたかったからな。朝は取り乱してしまってすまなかった」
「私の方こそ、見苦しい姿をお見せして申し訳ありませんでした」
「思えば私も愚かだった。子のことを否定されてカッとなってしまった。我ながら子どもっぽかったと反省している」
フェールは少し向きを変え、アンジェリンの太ももに頬を寄せたまま両手を伸ばし、アンジェリンの腰を抱き込んだ。
アンジェリンは、くすぐったく笑い出したくなるような感覚をこらえ、膝の上のフェールから目を反らした。フェールの熱が布越しに伝わってくる。久しぶりに味わうドキドキするような波。腹のすぐ前に彼の顔があると思うだけで、忘れかけていた熱い何かがこみあげてくる。
「アンの匂いがする」
彼がぼそりと出す言葉だけで、アンジェリンは血がのぼった顔を隠したくなった。
「ああ、アンが生きている。本当に生きていたのだな。私はおまえが死んだとずっと信じていたのだ。怪我でまだ動けなかったとき、父上がおまえの髪を見せて、おまえを処刑したと告げた。私はあの髪を見て絶望に落ちた」
「そういえば、髪は」
アンジェリンは、東の牢に入れられてすぐに髪を切られたことを思い出した。ようやくわかった。あの時、斬首の準備だと言われて、長かった髪は首が見えるほどばっさり切りおとされたが、それは彼にアンジェリンの刑死を信じさせるためだったのか。
アンジェリンが髪のことを言うと、フェールは目を閉じたままで微笑んだ。
「私も単純すぎた。あんな髪だけでおまえが死んだと信じ込んでしまうとは。あのころは、おまえが生きているという可能性のひとつも考えつかず、泣いてばかりいた。寒い夜は、心の中でいつもおまえの魂を呼び、自分を慰めてきたのだ」
「陛下……私……」
――私も、あなた《ディン》のことばかり考えて生きてきたんです。会いたかった……。また会えた。奇跡みたいに。
アンジェリンは、言葉の代わりに、フェールの肩にそっと手を置いた。彼に対するいとおしい気持ちがこみ上げるが、ふと、今朝フェールが来た時にアンジェリンの出自のことを訊いたと言っていたことを思い出した。
──私の出自をとうとうこの人は知ってしまった。私がどろぼうの娘だって。それでもこの人は汚らわしい私のことを気にせずに触れてくれる……。
「ずっとこうしていたいが、またしても時間がない。おまえに聞きたいことは今のうちに聞いておかねばならないのだ。おまえにとってはつらいことを訊くが、正直に話してほしい。シャムアで誰かに襲われたのか?」
「……いいえ」
「おまえは傷を負って動けなかったはずだ。あの宿の亭主がおまえの部屋に合い鍵で忍び込んでくるようなことはなかったのか?」
「ささやき亭のご主人は、とてもよい方でした。危険を顧みず、シャムア兵に追われていた私たちを逃がしてくださったのです。そのおかげで私たちは帰国できました」
アンジェリンは、ささやき亭でフェールと別れてからのことをおおまかに話した。
「そうか、あのグフィワエネの少年が私を助けてくれたのか。それは知らなかった。自分の怪我で動けぬうちに事態が急変し、おまえのことを調べる時間も、ゾンデと話す機会もなかったのだ。それも言い訳にすぎないが」
「私のことならばご安心ください。私の怪我も癒えましたし、陛下が思っておられるようなことは何もなかったんです」
「それならよかった、と言うべきか。少し気が楽になった。おまえが異国や牢獄でひどい目に遭ったのではないかと、心配で仕方がなかったのだ」
「気にしていただき、ありがとうございました。私は大丈夫です」
アンジェリンはそう言うにとどめておいた。余計なことは言ってはいけない。
「ではその子の父親は誰なのだ」
当然のように出た質問。
アンジェリンは答えをためらった。
──正直に話してしまいたいけれど。
女装したザース王子に言われたことは、胸に深く刻まれている。
『あなたとその子の存在が、必死で王を勤め、しかるべき妃を迎えようとしている兄上を狂わせ、苦しめることになる。兄上を愛しているなら、この子と兄上の関係を否定して身を引いてほしい』
「……それは、申し上げられません」
アンジェリンはフェールの表情を確かめる勇気はなかった。きっと今の自分はゆがんだ変な顔をしていると思う。彼は今も、アンジェリンがどんな出自でも全く気にせず、王妃に迎えるつもりだったようだ。出自に関係なくアンジェリンを求めてくれている。それはうれしくも、現実的ではなかった。
アンジェリンが民に出自をごまかし、ウィレムを連れて王妃になったとしても、ザース王子の言った通り、フェールを苦しませることになることは間違いないと思えた。
「言いたくない……がおまえの答えか。その子の目の色は私とおまえの色だ。それでもおまえは、私の子ではないと言うのだな?」
アンジェリンは口を閉じていた。喉のすぐそこまで言いたい言葉が押してきている。
フェールはそれ以上追及して来ず、質問を変えてきた。
「シャムアの祝福札はどうした」
「今も大切にしております」
「では、私たちはシャムア教の上ではまだ夫婦か。おまえの好きなときにシャムアの祈り所へ札を返しに行けばよい。そうすれば宗教上でも離婚が成立する。おまえは自由だ」
フェールの言葉には怒りの勢いはなく、静かなあきらめが漂っていた。
「私は今日一日、頭を冷やして考えてみたのだ。おまえが泣いてまで、その子の父親が私でないと言い張るならば、そういうことにすべきなのではないかと。子が生まれたことをすぐに知らせなかったのも、考えがあってのことだろう? もしもおまえが、他の者との結婚を考えているならば、私はおまえの邪魔をする気はない。その子は新しい相手の子として育てた方が幸せになれるかもしれない。母上は子をおまえからとりあげて上流貴族の養子に入れるつもりのようだが、それは断ればよい」
「そんなっ、私……っ……結婚なんて……」
言葉を詰まらせたアンジェリンに、フェールは目を開くと、悲しそうにアンジェリンを見上げた。
「おまえには誰よりも幸せになってほしい。ずっとずっと幸せでいてほしい。だから、おまえが全力で私を否定するならば、それもよし。その子の父親は私ではないと言うなら、それを真としよう。私は身を引く。新しい相手と幸せをつかめ。おまえがレクト・セシュマクと結婚したいなら認める。あの男はおまえを愛している。おまえを絶対に幸せにしてくれるだろう」
「レクトとは友人というだけで、恋人ではないので……」
アンジェリンがやっとの思いでそう言うと、フェールはまた目を閉じ、しばらくの間そうしていた。
「アン、私が今『おまえを愛している』と何度も言っても、きっとおまえはもうそのような軽い言葉など信じられないに違いない。私がおまえにしたことは決して許されないことだ。ロイエンニに無断でおまえを連れ出し、怪我をしたおまえをひとりきりで異国の宿に置き去りにした。そしておまえのその後を確かめることもせず、放置した私の罪は大きい。だから私は『都合よく私を許せ』とは言わない。私を死ぬまで恨めばいい」
「恨むなんて……そんな必要はないです」
「ささやき亭をひとりで出て行ったあの日は、とにかく早く敵の軍に紛れ込んで、作戦をさっさと遂行し、おまえを連れて帰国すべきだとそればかりを考えていた。気ばかりあせって、怪我をしたおまえがどんな目に遭うかも想像できずに放置するとは、私はゴミクズ以下の人間だったと自覚した」
「あの時は川中の砦の期限があって、お急ぎだったから、仕方がなかったことだと思っております」
「確かに、あの旅には期限があった。だが、おまえが身ごもった可能性すら考えもせず勝手に行動するとは、我ながらあきれる。本当にすまなかった。こんな膝を借りた格好での謝罪では心も伝わらないだろう。だが今だけはこうしていたいのだ。こうすることもこれが最後。おまえは私を選ばなかった。それがおまえの私に対する評価ということだ」
「そんなことをおっしゃらないでください」
──私はあなたを選んだんです。だから、誰とも結婚しません。
心で訴えてもフェールには届かない。
「元々私はおまえに愛されていなかった。相思相愛だと私が錯覚していただけだったのだろう。おまえはしぶしぶ私に従ってシャムアへ行ったのだ」
「……」
──それは違います!
アンジェリンは心で叫びながらも、また沈黙を選んでしまった。言いたいことはこちらも山ほどある。
――私はあなたと一緒にいられて幸せだったんです。シャムア行きは自分で決めたことです。
気持ちを素直に出してしまえば、ザース王子に言われたとおりにフェールを突き放すことはできなくなってしまう。
似たような内容の会話は、たしか、マニストゥの家でもした気がする。彼はきっと愛されているという自信がなく、心の中から追い出すことができない大きな不安を抱え込んでいる。
――私が愛を言葉にしてちゃんと伝えていないから。でもここで私が今も変わらず好きだと、ディンのことを一生愛し続けたいと言ってしまったら……。
顔をこわばらせているアンジェリンにかまわず、フェールは続けた。
「すまない。今夜のように突然押しかけて来て膝を借りるようなことは、今後は一切しないし、こうして二人きりで会うこともない。どうせ私は何一つ自由にならぬ身。愛する女性を迎えることすら思い通りにできない。自分の息子を正式に認めようとしても、何らかの妨害が入ってしまう可能性は無限にある」
「……その子は」
――あなたの。あなたと私が愛し合って。
言葉の代わりに、耐え切れなくなったアンジェリンのこぼれ涙がフェールの顔の上にぽとぽと落ちた。
「も、申しわけありません。お顔を汚してしまいました。すぐに何か拭く物を持ってまいります」
アンジェリンはフェールの頭を下ろそうとしたが、フェールはアンジェリンの腰に手を回したまま動こうとはせず、少し潤んだ目でアンジェリンの目を見上げた。
「かまわぬ。もう少しだけこのままでいることを許してくれないか。それほど長くはいられないのだ」
腰に感じるフェールの腕。太ももに伝わる彼の頭のぬくもりと重さ。
身動き一つできぬまま、二人の時が過ぎていく。
ぽとり、ぽとり、とアンジェリンの涙が、膝上にあるフェールの顔や頭に散る。フェールはそれをぬぐおうともしない。
――私は、ディン、あなたのことを今も。だからお願い。私を捨てて幸せになって。
彼の琥珀色の目が、アンジェリンを見上げる。燭台の灯りで普段よりも黄色っぽく光って見えた。




