62.冬の山中にて(1)
キャムネイ王一家と一部の重臣たちは、少数の守りの兵を連れ、コオサ城内に密かに作られていた地下道を抜け、炎上する城からの脱出に成功していた。
城から伸びる長い地下道を抜けた先は、郊外の森の中にある小さな猟師小屋だった。キャムネイ王が馬などを準備していた山小屋はここではなく、北西の山中にある。一行は猟師小屋で休む暇はなく、すぐに北へ向かって山道を歩きだした。
山小屋を経由した後は、第二王女ミイメが嫁いでいるヨマイグの町へ向かう。
機嫌が悪いクレイア王女は、眉間にしわを寄せ、寒さに手をこすりながら父親に不満をぶつけた。
「お父様、本当にこのように寒い中をヨマイグまで歩いていくのですか? しかも、敵の目をくらますためにわざわざ遠回りして山歩きですって? 正気でいらっしゃいますの?」
「今は辛抱せよ。ヨマイグへ向かう東へ延びる主街道は、おそらくセヴォローンがすべて押さえている。山道でなければ、安全にヨマイグまでたどり着けぬ」
「それは理解できますけど、ヨマイグまで歩くなんて、街道を使ったとしても、とんでもなく遠いですわよ。今日中に着くことは不可能ですわ」
「心配ない。こういう時のために、休憩用の山小屋を用意させてある。そこに馬も食事も準備してあるはずである。今宵はそこで休んで風雪が静まるのを待てばよい。たとえ数日かかっても、ヨマイグまでたどり着くことさえできれば、我々は勝てる。ヨマイグにてセヴォローンを迎え撃つ」
「ここでがまんすればセヴォローンをつぶせるのですね? それならば、寒くても辛抱しますわ」
ヨマイグの町は、ザンガクム国の大きな町としては最も東にある。元々は、北の山脈を越えてやってくる異民族の侵入を防ぐために作られた要塞で、山の急斜面に張り付くように、階段だらけの人々の町が作られていた。
ヨマイグにはコオサ城のような水堀はないが、何重にも巡らされた強固な塀に守られ、この町が異民族に攻め落とされたことは一度もなかった。ザンガクム国の王都コオサにいた多くの貴族たちは、私兵を連れてこの町に逃げこんでおり、ザンガクムの兵力は温存されている。
キャムネイ王の一行は冷たすぎる強風に歯を食いしばりながらも、確実にコオサから遠ざかっていた。
セヴォローン側は、ヨマイグまで伸びるこの細い山道のことは把握しておらず、キャムネイ王たちは予定通りに歩ければ、無事に逃げ切れるはずだった。
しかし。
灰色の目をした猫背の男が、崖の上からこの一行を無言で見つめていた。
山中にザンガクム兵がいる不審な山小屋を発見したゾンデは、山小屋の兵の追跡を警戒し、きちんとした道は通らず、登山用の尾根道や獣道を選んでコオサへ向かう途中だった。
ゾンデは、どこかから聞こえた複数の人の声に、馬を下りて近くの木につないだ。ここでザンガクム兵に見つかって殺されては終わりだ。山小屋に囚われているかもしれないシドを助けることができなくなる。
もう一度耳を澄ます。やはり、複数の人の声が。しかも大勢で、どんどん近づいているようだ。
ゾンデは、冷たい崖の上に這いつくばって道を見下ろした。
やがて、大勢の人の姿がはっきり見えてきた。向こうは谷、こちらは崖の上で、しかもかなりの高さがあり、一行はゾンデの存在には気が付いていない。
人の行列は百人以上いそうで、人々が頭にかぶっているのは軍人らしい兜ではなく、ほとんどが動物の毛皮を加工した防寒帽子だった。しかも、戦闘には向かない長い防寒コートで身を包んでいる。どう見ても軍隊ではなく、ゾンデを追ってきた兵ではなかった。旅人や商人の集団とも思えない。もしも、商人ならば荷車があるか、あるいは背中に大荷物を担いでいるはず。しかし、現れた人々の荷物はほとんどなく、荷車どころか、馬の一頭すら連れていなかった。山越えするにしては、装備が少なすぎる。
人々は、フードや帽子をかぶっており、ゾンデの位置からは彼らの顔はまったく見えなかったが、背格好から女性も何人もいるように見えた。高価そうな上衣を着ている者もいて、貴族か大金持ちとも思えた。
ゾンデは灰色の目を光らせた。
――コオサから逃げてきた貴族のようだな。なぜこんな山の中へ大勢が? そういうことか!
先ほど発見した、ザンガクム兵が守っていた山小屋は、この一行を迎えるためだったと思い当たった。シドが幽閉されているのではないかもしれない。そもそも、怪我を負ったシドがこんな遠くの山小屋にいると考えてしまうことがおかしいのだろう。
──シド様は、やはり、皆の言うように、もう生きておられないのかもしれん。俺はそろそろあきらめて、シド様が亡くなったことを受け入れないといけないのか。
今夜から大雪になる。これ以上の捜索は危険だった。
ゾンデは、行列が進んでいくのを黙ってみていたが、よく見ると、人々は、中央にいる数人を守るように固まって動いていることがわかった。時折狭くなる道でも、一列にならず、人々はぎゅっと真ん中に集まる。
──ただの貴族があんなふうに主人を守りながらこんな山道を歩くか? これはもしかすると、キャムネイ王の一行かもしれない。チッ、顔が見えない。
コオサ城が明け方から炎上していたことは知っている。王たちが逃げてきた可能性はある。
ゾンデは背負っていた大きな弓をゆっくりと取り出し、矢の先を一行に向けた。
――あれがキャムネイ王なら幸運だ。違ったとしても問題ない。敵のザンガクム人だ。セヴォローンの貴族がこんなところを逃げているわけがない。シド様に傷をつけたやつらなんか、ひとり残らず死ね。
ゾンデは、中心にいる男に狙いを定め、ギリギリと弓を引き絞った。中心で守られている男はキャムネイ王の偽者かもしれないが構わない。
──捜索は今日で終わりにしよう。シド様はおそらくもう生きておられない。ならば、弔いの花の代わりに、キャムネイ王の命をシド様に捧げる。
ゾンデの剛腕で固い弓矢は限界までしなった。
吹き荒れる風の中、風が少しでも弱まるときを待つ。そうしている間にも行列はどんどん進んで行ってしまう。今は王らしき者の背中が見えているが、この風では射かけられない。もう少し別の場所へ移動しようかと思った時、一瞬風が弱まった。
ビン、と音をたてて、弓が手から離れ、唸り声をあげて飛んだ弓は一直線に目標に向かった。
突然膝をついて前のめりに倒れたキャムネイ王に、周囲の者たちは驚き、皆、足を止めた。転んだだけだと思った兵が、王を助け起こそうとして悲鳴を上げた。
「陛下! うわあああ!」
「お父様? キャー!」
「敵だ! 伏兵がどこかにいるぞ!」
ゾンデは、倒れた王の姿を確認し、馬まで戻ると全速でその場を離れた。
――やつら、あの男のことを陛下と呼んだ! よし、あれはキャムネイ王本人だ。
ゾンデは女性たちの様子からそう判断し、あふれる満足感で笑いながら山中をかけぬけて逃げた。
「はははっ、やった! ざまあみろだ。シド様、お喜びください。あなたの従者ゾンデは、セヴォローンを穢した悪人の親玉を仕留めました」
キャムネイ王が倒れ、山中の人々は大混乱に陥った。数少ない警護兵たちは姿の見えぬ敵を求めて付近を走り回り、王女たちは、ピクリとも動かぬキャムネイ王の周りにしゃがみ込んでその体を揺さぶった。
「お父様! お父様! しっかりしてください」
クレイアの妹二人は、キャムネイに取りすがって泣き始めた。クレイアはそんな妹たちと、呻き声すらあげない父王の姿を、言葉もなく立ったまま見ていた。
どこからか飛んできた矢は、キャムネイの後頭部、首のすぐ上あたりに深く刺さっており、キャムネイはぴくりとも動かず、目を開いたまま絶命していた。
やがて、付近を調べたザンガクム兵が、王女たちのところへ報告に来た。
「敵は馬で逃げたようです。今のところ、この付近には他の敵はいないようです。足跡は一つだけでした」
「そうか」と王女たちの代わりに返事をしたのは、同行していた執政官のシューカイルだった。彼は、長くキャムネイ王の参謀を勤め、その信頼も厚く、人望もある年配の男である。
シューカイルは戸惑っているクレイアに淡々と告げた。
「クレイア様、キャムネイ陛下はご逝去なさいました。残念ながら我らの負けです。コオサに戻って降伏しましょう。我らはこの人数ですし、これ以上、多くの命を犠牲にするわけにはいきません」
茫然としていたクレイアは、キッ、と顔を上げた。
「なんてことを言うのですか。わたくしたちは負けてなどいませんわ。ラングレ王とザース王子を殺して、優位に立っているのはこちらなのですよ。新国王のフェール様だって死にかけの怪我人ですわよ」
シューカイルは、深くかぶった毛皮の帽子の下から、濃紺の大きな目でクレイアを見据えた。
「では、このまま山中へ突き進みますか? セヴォローンでの山中行軍作戦が失敗したことは、よもや、お忘れではありますまい。このような寒い時期に山中を行軍した兵士の負担が大きすぎたから、結果的に兵たちはエンテグアへ予定通りに到着できず、多くの兵の命が失われ、彼らを頼りに待っていた我が軍は、撤退を余儀なくされたのですぞ」
「終わったことなどどうでもよい。コオサ城は火事なのに戻れるわけがありません。このまま、父上の言ったとおり山小屋へ向かうのです。吹雪になったら小屋で待機すればよいだけですわ」
シューカイルは穏やかに言い返した。
「馬もない我々はこの冷たい風の中を徒歩で、まだ半日程度も歩かねばなりません。追手を気にして途中の休憩も満足にできず、暖を取るための火すらも熾せません。無事にたどり着けたとしても、その小屋に全員を収容できるとお思いですか? 先ほどの猟師小屋にも入りきらなかったものを。用意されているという馬もここにいる全員の分があるとは思えませぬ。それに、風雪が収まるまで待つだけの食料も足りるかどうかもわかりません」
「馬は交代で使えばよいし、全員が小屋に入りきれなくても、仕方がありませんわ。食事は少しぐらい足らなくてもどうにかなります」
シューカイルは眉を動かした。
「小屋に入りきらない者たちは、山道を歩かされて疲れているのに室内で暖まることも食すらもとることができず、外で待てとおおせか。その先も、ヨマイグまで雪の山道を歩かねばならないというのに」
「今、道を戻れば全滅しますわ。安全な道はここしかないのだから、このまま進みます」
「陛下が襲われたのですぞ。ここは安全な道とは言い難いです。道中の安全を確認するだけの数の兵も連れておりません。この先も伏兵がいると考えた思った方がよいと存じます。我らの動きはすでにセヴォローン側に把握されている可能性がありますぞ。このような石だらけの道、走って逃げることすらできません」
「よけいなことを考えている暇があるならば、歩いたほうが寒くなくてよろしくてよ。立ち止まっていては凍え死にます。それこそ全滅しますわ」
「全滅を避ける方法は先ほど申し上げました。どうか降伏をご決断くださいませ。小屋はすでにセヴォローンに制圧されている可能性がございます」
「ありえません。黙りなさい。さっさと歩くのです」
人々は足をとめたまま、クレイア王女と執政官シューカイルのやり取りを見守っていた。その間も、冷たい強風は休みなく人々に吹き付けていた。
「わたくしは、歩けと命じているのですよ? 山へ向かって進みなさい」
クレイアは厳しい目でシュ―カイルをにらみつけた。やげて、シューカイルはクレイアから視線をはずして声を落とした。
「では好きになさればよい。自分はキャムネイ陛下に忠誠を誓い、王家のために生涯を捧げてまいりましたが、それもここで終わりでございます。人の命を軽んじるクレイア様には従えません。自分はコオサへ戻ります。我が国の民の命がこれ以上散らされることのないよう、フェール王に掛け合います。放っておけば、セヴォローン軍はさらに東へ侵攻するでしょうからな。それを思いとどまるよう交渉します。陛下のお体はお借りしますぞ。交渉の手土産が必要ですからな」
「シューカイル! お父様の体を道具にするなんて、非常識で無神経すぎますわ。わたくしたちは大切な父を失ったばかりですのよ」
シューカイルはクレイアの怒りなどまったく恐れない様子で、冷たく突き放した。
「ごきげんよう、クレイア様。陛下のご遺体をここに置いて、どうぞこのままお進みください」
「このっ、裏切り者!」
クレイアは護身用の短剣を抜いた。
「わたくしに従えないのなら、ここで今すぐ死になさい」




