第35話:泥に咲く咆哮、初陣の凱歌
ピーーーーーッ!
第4クォーター開始を告げるブザーが、体育館の天井をビリビリと震わせた。
スコアボードの数字は『48対49』。
海浜商業が1点リード。
残り時間は、わずか10分。
超満員の観客席から地鳴りのような手拍子と歓声が降り注ぐ中、両チームの5人が再びコートへと散った。
「集中しろ! 相手の一年生どもはもう限界だ! 前線から完全に窒息させるぞ!!」
海浜商業のエースガードが、切れた唇から血を滴らせながら吠えた。
その瞳に浮かぶのは、伝統校の看板を背負う3年生としての、剥き出しの執念。
海浜商業は開始直後から、オールコートでのマンツーマン・フルコートプレスを仕掛けてきた。
戦術の美しさなどどこにもない。手足を引っ掛け、身体をぶつけ合い、相手の気力を根こそぎ削り取るための肉弾戦だった。
ボールを受けた俺――如月蓮(178センチ)の前にも、相手ガードが全身から湯気を立ち上らせて突進してくる。
肺は焼けつくように痛く、両足のふくらはぎには鉛が詰まったような重みがあった。
心拍数は限界域に近い。
だが――不思議なほど、視界は澄み切っていた。
(もう、竦まない)
前世の断裂の記憶。恐怖の亡霊。
そんなものは、床に頭から飛び込んでボールを死守してくれた鮫島の血と、泥臭く俺の背中を押してくれた仲間たちの熱い掌が、すべて吹き飛ばしてくれた。
「岳! 上がれ!」
俺の鋭い叫び声が、コートを貫いた。
トップ・オブ・ザ・キーへと駆け上がってきたのは、背番号8番――198センチ、110キロの巨漢、白石岳。
「パスを警戒しろ! ハイポストからの展開を遮断――」
海浜商業のディフェンス陣が、白石のパスコースを塞ごうと外角へと意識を広げた。
前半、白石がやってきたのは「動かない壁」としてのパス配給だけだった。相手の頭の中には、「白石岳=パスしか出せない鈍重なセンター」という固定観念が完全に刷り込まれていた。
だが、俺からボールを受け取った白石は、パスの構えを取らなかった。
ドムッ!!
地響きのようなステップ。
白石は、低く落とした骨盤から、198センチの長大なストライドを一気に前へと踏み出したのだ。
「なっ……ドライブだと!?」
マッチアップしていた相手センターが、信じられないものを見るように目を見開いた。
110キロの巨躯が、まるで雪崩のようにトップスピードでペイントエリアへ雪崩れ込んでくる。
それは、並の高校生ディフェンダーにとって、ダンプカーが突っ込んでくるような圧倒的な恐怖だった。
「止めろォッ! ゴール下を通すな!!」
パニックに陥った海浜商業のディフェンス陣が、たまらず三人、四人とペイントエリアの中央へ雪崩を打って収縮した。
白石のレイアップを阻止しようと、何本もの腕が空へと伸びる。
だが――白石の柔らかい手首は、シュートへは向かわなかった。
「陣内くんッ!!」
空中で接触を受けながらも、白石は驚くほど繊細な指先の感覚で、密集するディフェンスの頭上を越えるノールックのキックアウトパスを放った。
ボールは美しい放物線を描き、がら空きになった右コーナーへと吸い込まれる。
そこに待っていたのは――背番号5番、陣内誠(178センチ)。
「しまっ……コーナーが空いてるぞ!」
海浜商業のフォワードが、血相を変えてコーナーへと突進してくる。
視界を塞ぐ猛烈なクローズアウト。
かつての陣内なら、その影に怯え、膝を痛める跳躍へと逃げていたはずだった。
だが――今の陣内の瞳に、恐怖の影は微塵もなかった。
(俺のシュートを……蓮が信じてくれた。岳が体を張って繋いでくれたんだ……!)
膝を深く曲げない。
足首のバネと、背筋の波を指先へと流す。
蓮から徹底して叩き込まれた、絶対に壊れない「ワンモーション」。
トンッ。
流れるようなリリース。
相手ディフェンダーのブロックの手先を、わずか数センチ上回って放たれたボールは、高々と放物線を描き――ネットの中央を切り裂いた。
――スパァァァンッ!!
『51対49』。逆転。
「うおおおおぉぉぉぉッッ!!」
陣内が咆哮し、右拳を天へと突き上げた。
ベンチの神崎コーチが立ち上がり、拳を握りしめる。
だが、古豪・海浜商業も死んではいなかった。
「舐めるなァッ! 走れ、カウンターだ!!」
スローインからわずか四秒。
海浜商業のエースガードが、驚異的なトップスピードで開明のバックコートへと突進してきた。
足の限界を超えた意地のスプリント。
ディフェンスの戻りがコンマ数秒遅れた開明のペイントエリアへ、エースガードが身体ごと突っ込んでくる。
その進路の前に、立ちはだかった影があった。
背番号6番――黒木凌(179センチ)。
「抜かせねえよ!」
相手ガードが強引にステップを踏み、黒木の脇をすり抜けようとした。
その背後から、海浜商業のトレーラーがブラインドスクリーンをかけに迫る。
今までなら、味方に声をかけず、一人で背負い込んで突破を許していた場面。
だが、黒木の喉が、フロアを引き裂くように破裂した。
「――っ、岳! スクリーン来る、スイッチ!!」
体育館中に響き渡る、黒木の魂の絶叫。
その声に呼応した白石が、巨体を滑らかにスライドさせ、相手ガードのドライブコースへ分厚い肉の壁を築いた。
「くそがあぁぁッ!!」
コースを完全に消された相手ガードは、体勢を崩しながら苦し紛れのフローターシュートを宙へと放り投げた。
ガガッ!
ボールはリングのバックリムを激しく叩き、高く宙へと跳ね上がる。
「リバウンドォッ!!」
海浜商業の190センチ級のインサイド陣が、雄叫びを上げて落下点へと殺到した。
空中戦の高さなら、海浜商業が上回る。
だが――その真下で、獰猛な牙を剥いて待ち構えていた男がいた。
背番号7番――鮫島豪(186センチ)。
(相撲じゃねえ……前傾で突っ込むんじゃねえ……!)
蓮の言葉を脳裏で反芻しながら、鮫島は骨盤をグッと落とし、相手の巨漢二人の突進を完璧な面で押し留めた。
ノーファウルの完璧なボックスアウト。
相手の跳躍の起点を完全に奪った瞬間、鮫島は床の反発力を全身に吸い上げ、真上へとロケットのように垂直跳躍した。
ドバァァァンッ!!
空中で相手の腕を弾き飛ばし、両の手のひらでボールを鷲掴みにした鮫島が、フロアへ力強く着地した。
「ウラァァッ!! ゴール下は俺のナワバリだボケェェッ!!」
アリーナを震わせる狂犬の咆哮。
観客席が、割れんばかりの歓声に包まれた。
「走れ、蓮ッ!!」
鮫島が叫びながら、前線へと矢のようなアウトレットパスを放った。
ボールを受け取ったのは、俺だ。
残り時間は、あと2分。
スコアは『61対58』。が黎明高校3点リード。
ボールをフロントコートへ運ぶ俺の前に、全身汗まみれの海浜商業のエースガードが、最後の気力を振り絞って立ちふさがった。
膝は震え、息は絶え絶え。
だが、その眼差しには、これまで積み上げてきた三年間のすべてをぶつけてくるような、凄まじい執念が宿っていた。
「ここだけは……この一本だけは、絶対にやらせねえぞ、如月蓮……!!」
「……ああ。全力で来い」
俺は低く呟き、バッシュでフロアを噛んだ。
前世の冷徹なヘッドコーチの頭脳は、もう必要ない。
いまコートに立っているのは、仲間たちの熱い想いに背中を押され、泥にまみれて勝利を欲する、十五歳の如月蓮だ。
キュッ!
右への鋭いドライブ。
相手ガードが必死に食らいついてくる。激しい身体の接触。あばら骨がきしむような衝撃。
だが、俺は倒れなかった。
トップスピードの極限から――急減速。
股関節を引き込み、大腿四頭筋のエキセントリック収縮で衝撃を完璧に吸収しながら、一瞬でゼロの静止状態を作る。
相手ガードの重心が、慣性の法則によって前へと崩れ去った。
「なっ……!?」
相手の身体が流れた瞬間、俺は左足を軸にして、後方へとステップバックを踏み出した。
ふわ、と。
全身の力が抜け、時間がスローモーションのように引き延ばされる。
二階席の最前列で、息を呑んで見つめる綾瀬涼香の瞳。
胸の前で祈るように手を握りしめる橘葵の涙。
そして、ベンチで喉を枯らして叫ぶ仲間たちの姿が、クリアな視界の端に映った。
絶対に壊れないフォーム。
仲間たちと掴み取った、完璧な空間。
トンッ。
指先から離れたボールは、綺麗なバックスピンを描きながら、代々木……いや、この熱狂のメインアリーナの天井へと吸い込まれ――
――スパァァァッ!!
ネットが、美しく跳ね上がった。
『64対58』。
残り三十秒で、決定的な6点差。
ワァァァァァァッッ!!!!
体育館が崩壊するかのような、凄まじい歓声とどよめきが爆発した。
「入ったァァァッ!!」
「ステップバックからのスリーポイント!!」
「あの一年生ガード、化け物かよ!?」
海浜商業の最後の特攻も、鮫島と白石の分厚い壁が阻み、こぼれ球を黒木ががっちりと抱え込んだ。
ピィィィーーーーーーッッ!!
試合終了を告げる、長いホイッスル。
スコアボードの数字は――『66対60』。
「試合終了ッ!! 勝者、黎明高校ッ!!」
「「「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉッッ!!!!」」」
黎明高校のベンチから、控えの部員たちが雪崩のようにコートへと飛び出してきた。
鮫島が陣内を抱き上げ、白石がその場にへたり込んで大粒の涙を流し、黒木が珍しく破顔して力強く拳を突き上げた。
「ハァ……ハァ……っ」
俺はその場に両膝をつき、汗で濡れた床を見つめた。
息が苦しい。全身の筋肉が震えている。
だが――前世のどんな勝利よりも、胸の奥が熱く、誇らしかった。
「如月」
声をかけられ、顔を上げると、そこには海浜商業のエースガードが立っていた。
ユニフォームで顔を覆い、敗北の悔し涙を流しながらも、その男は右手を真っ直ぐに差し出してきた。
「強かったよ……お前ら。理屈だけじゃねえ、泥臭い本物のチームだった」
「……ありがとうございました」
俺はその手を、両手で強く握り返した。
「インターハイ……絶対に切符獲れよ。ウチを倒したんだから、全国へ行かなきゃ承知しねえぞ」
「はい。必ず」
二階席の最前列。
綾瀬涼香は、震える手でスコアブックを胸元に抱きしめていた。
「……勝っちゃった。本当に、県ベスト4の古豪を倒しちゃったわ……」
「涼香ちゃん、見て!」
葵が両手で涙を拭いながら、コート中央で仲間たちと肩を組む蓮の姿を指差した。
「誰も怪我してないよ……! あんなに激しい試合だったのに、みんな、自分の足で笑って立ってる……!」
知性とデータでチームを支えたいと願う涼香と、命と身体を守りたいと願う葵。
二人の少女の瞳に、背番号4番の少年の姿が、深く、強く刻み込まれていた。
創部一年目、無名新設校• 私立黎明高校
決勝リーグ第1戦を制し、彼らはついに、全国への扉をその手で押し開けようとしていた。
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