第26話:削り合われる肉体、二十分の境界線
先制点を奪った歓喜も束の間、メインアリーナの熱気は一瞬にして殺気混じりの怒号へと塗り替えられた。
「戻れ! オフェンス、ゴール下へ放り込め!」
北嶺ベンチから権藤鉄蔵の濁った叫びが飛ぶ。
北嶺高校の3年生ガードが、獰猛な形相でボールをプッシュしてフロントコートへ侵入してきた。
速攻ではない。相手が開明のディフェンス陣を引き連れるようにして、意図的にペイントエリアへ雪崩れ込んでくる。
ローポストで待ち構えていたのは、北嶺の百八十八センチ、九十キロの3年生パワーフォワード。
鮫島豪の胸元へ、背中からドスン、ドスンと全体重をぶつけてくる。
「オラァッ! 今度は引かせねえぞ!」
先ほど『椅子引き』で転がされたフォワードは、今度は安易に全体重を預けず、両足を広げて鮫島の足を踏みつけるようにして下半身をロックしてきた。
力づくの面制圧。
高校生の上級生が放つ、圧倒的な筋骨格の圧力。
「ぐっ……おおぉぉッ!」
鮫島は両手を垂直に掲げ、胸板で耐えようとするが、体重差十キロの壁はあまりにも重い。
ミシッ、と鮫島の肋骨がきしむ音がベンチにまで届きそうだった。
強引に反転した相手フォワードが、鮫島の頭上から力任せにシュートをねじ込む。
――ドガッ、バスッ!
『2対2』の同点。
「っしゃあぁぁッ!」
相手フォワードが雄叫びを上げ、すれ違いざまに鮫島の胸元を肘で小突いて自陣へ戻っていく。
「テメエ……ッ!」
鮫島がカッと目を血走らせて詰め寄ろうとしたが、俺――如月蓮は即座にその前へ割って入った。
「乗るな、鮫島! わざと挑発してファウルを誘っているんだ!」
「だがよォ蓮! あいつ、わざと肘入れてきやがったぞ!」
「審判が見ていない死角での接触は、伝統校の常套手段だ。怒りでアドレナリンを無駄遣いするな。心拍数が上がれば、筋肉の酸素消費量が跳ね上がって後半に足が止まるぞ!」
俺の一喝に、鮫島はギリッと奥歯を噛み締め、荒い息を吐いて引き下がった。
だが、その胸元は真っ赤に腫れ上がり、呼吸の肩の上下は明らかに大きくなっていた。
たった二分間の攻防。それだけで、開明高校の選手たちの肉体は確実に削り取られていた。
◇
第1クォーター中盤、スコアは『10対12』。
黎明高校は蓮の巧みなスペーシングと配球で食らいついていたが、北嶺高校の愚直なまでのパワープレイの前に、じりじりと体力を奪われていた。
北嶺のディフェンスは、露骨な肉弾戦だった。
白石岳がハイポストへ上がろうとすれば、相手の百九十五センチのセンターが肘を張り出して進路を塞ぎ、腰に拳を当てて前進を阻む。
陣内誠がスクリーンの裏を回ろうとすれば、相手フォワードがすれ違いざまに肩を激しくぶつけて進路をずらす。
審判の目が届かないところで繰り返される、執拗なボディコンタクト。
「ハァ……ハァ……っ! 息が……苦しいよ……」
白石が太ももに両手をつき、早くも大量の汗をフロアにボタボタと滴らせていた。
自重百十キロの巨体を支えながら、相手の屈強な上級生とペイントエリアで押し合いを続ける負荷は、筋膜の未発達な一年生の心肺機能を容赦なく圧迫していた。
「白石、動くな。トップで壁になれ」
俺がボールをキープしながら指示を出す。
俺自身の身体にも、確実に疲労が蓄積し始めていた。
相手の3年生ガードは、執拗に胸や腕を押し当てて俺のドライブコースを潰しにかかってくる。
前世の感覚なら軽々と抜き去れるはずのステップも、まだ筋骨格が未成熟な十五歳の身体では、相手の接触に耐えながらトップスピードへ乗る瞬間に膝や股関節がきしみ、わずかに減速を余儀なくされる。
(焦るな……。力で押し返すな。慣性のベクトルを反転させろ)
俺はドリブルのリズムを急激に落とした。
トントン、と無機質なバウンド。
相手ガードが俺を押し込もうと前傾姿勢になったコンマ一秒の瞬間、俺は右足の母指球で床を後ろへ蹴り出した。
ステップバック。
相手の伸ばした太い腕が空を切り、目の前に広大なオープンエアが広がる。
体幹は完全な垂直。
放たれた高弾道の放物線。
――スパァァァンッ!!
『13対12』。逆転のスリーポイントシュート。
「うおおおおっ! 如月ステップバックスリー!!」
「あの激しいプレッシャーを受けながら、後ろに跳んで決めたぞ!?」
観客席からどよめきが上がる。
だが、着地した俺の太ももの裏側――大腿二頭筋に、ピリッとした微細な過緊張の痛みが走った。
心拍数は百四十二。
相手の重圧を受け流すために全身のインナーマッスルを極限まで酷使している代償が、十五歳の未成熟な肉体に確実に蓄積していた。
「如月……!」
ベンチの神崎コーチがストップウォッチを握りしめ、険しい表情で俺を見つめている。
第1クォーター終了時点で、スコアは『17対16』。開明の1点リード。
だが、ベンチに戻ってきた開明の5人の姿は、とてもリードしているチームのそれとは思えなかった。
「水……水くれ……!」
白石がベンチに倒れ込み、氷嚢を両足の付け根に当てて荒い呼吸を繰り返す。
鮫島は脇腹を押さえて顔を歪め、陣内は右膝をさすりながら唇を噛み締めていた。
「クソッ……あいつら、俺がシュート打とうとするたびにわざと着地点に足を踏み入れてきやがる……! 怖くて、思い切り踏み込めねえ……!」
「陣内、無理にジャンプするな」
俺は電解質ドリンクを口に含み、冷徹に告げた。
「相手が着地点を潰しにくるなら、シュートフェイクからワンドリブルで横へ逃げろ。足首のバネを信じるんだ。鮫島、リバウンドで相手と競り合うな。相手のジャンプの着地点を塞いで、セカンドチャンスを泥臭く拾え」
「蓮くん……」
神崎コーチがストップウォッチを見つめ、静かに告げた。
「相手の狙いは明らかに君への体当たりによるスタミナの消耗だ。第2クォーターの最初の四分間で一度ペースを握ったら、予定通り君をベンチに下げる。小林を入れ、黒木にボール運びを任せる。後半の勝負所まで、君の呼吸と足を温存しなければ、試合終盤に必ず全員がガス欠になる」
体育館の空気がピンと張り詰めた。
「四分で……下がるのかよ」
鮫島が悔しげに顔を歪めた。
「相手はベスト4の北嶺だぞ!t蓮が下がったら、あいつら一気にプレスかけてくるに決まってらあ!」
「だからこそ、お前たちを信じて託すんだ、鮫島」
俺は立ち上がり、4人の目を真っ直ぐに見据えた。
「相手は俺を削ってゲームを壊しにきている。俺がベンチに下がる時間、北嶺は必ず狂暴なプレスを仕掛けてくる。黒木、焦ってボールを急ぐな。お前の長いリーチでキープしろ。白石、ゴール下で無理に押し合わず、椅子引きでいなせ。……数分間耐えてくれれば、俺が必ず呼吸を整えて戻る。全員で四十分間を戦い抜くぞ!」
鮫島が獰猛に拳を握りしめ、白石が汗を拭って頷き、黒木が力強く前を見据えた。
◇
第2クォーター開始。
俺が出場できる残された四分間。
俺は持てるすべての知性を注ぎ込み、ゲームのペースを極限までコントロールした。
相手の突進を誘い、黒木の長いウイングスパンを生かしたトラップディフェンスでターンオーバーを奪う。
白石のハイポスト配球から、陣内のバックドアカットで2点を追加。
残り六分、スコアは『27対22』。開明高校が5点のリードを奪った。
ピピーーーッ!
「メンバーチェンジ、黎明高校!」
神崎コーチの非情なコールが響き渡った。
前半四分経過。相手の激しいチェックを受け続けた蓮の体力を勝負の後半へ温存するための、予定通りの交代だった。
「交代だ、蓮くん」
「はい」
俺は静かにユニフォームの汗を拭い、交代で入る一年生の控えガード・小林の肩を叩いた。
「小林、無理に攻めるな。ハーフコートまでボールを運んだら、すぐに黒木へ預けろ」
「は、はいっ……!」
俺がベンチへ歩き出す背中に、コート上の北嶺高校の選手たち、そしてベンチの権藤鉄蔵の嘲笑が突き刺さった。
「おい見ろ! あのチビ、もうバテて逃げ出しやがったぞ!」
「5点差なんてあってないようなもんだ! 全員、一気に踏み潰せェッ!!」
権藤が竹刀をフロアに叩きつけ、猛然と吼えた。
ここからが、黎明高校にとって本当の地獄の始まりだった。
絶対的な司令塔を失った黎明高校に対し、北嶺高校は死に物狂いのオールコート・トラッププレスを仕掛けてきた。
控えの小林がボールを持った瞬間、二人の巨漢フォワードが暴力的なプレッシャーで襲いかかる。
「うわっ……!?」
小林がパニックになり、ボールを弾き飛ばされる。
ターンオーバーから、北嶺の速攻ダンク。
ドガァァァンッ!
『27対24』。
「落ち着け! ラインを上げろ!」
黒木が声を張り上げるが、蓮という支柱を失ったコート上の一年生たちは、目に見えて浮き足立っていた。
スタミナが限界に近づいた白石が相手センターに押し込まれてファウルを取られ、鮫島は苛立ちからリバウンドで無理に腕を伸ばし、審判の笛が鳴る。
ピピーーーッ!
「白4番(鮫島)、プッシング! 第2ファウル!」
「クソがぁッ!!」
鮫島が床を踏み鳴らして悔しがる。
残り三分で『27対28』。逆転を許す。
さらに残り一分、北嶺の猛烈なインサイドアタックの前に、点差は『29対34』の5点ビハインドまで広がっていた。
フロアに膝をつき、肩で激しく息をする黎明の4人。
観客席からは「やっぱり如月がいないと何もできないな」「新設校の一年生部隊の限界だ」と冷酷な声が飛び交っていた。
ベンチに座る俺の胸が、激しく軋んだ。
代わってコートに入り、今すぐにでも試合をコントロールしたいという衝動。
だが、脈拍計の針と、筋肉の微細な緊張が、それを許さない。
(耐えろ……! ここを耐え抜かなければ、このチームは全国の舞台になど一生立てない……!)
残り二十秒。前半最後の北嶺の攻撃。
相手フォワードが、息も絶え絶えの白石を力任せに押し込み、トドメのレイアップを沈めようと跳び上がった。
この一本を決められれば、7点差。試合の流れは完全に北嶺へと傾く。
その瞬間だった。
「――白石、引くな! 跳ぶな! 面で立てぇぇッ!!」
ベンチの俺の喉が引き裂けんばかりの絶叫が、アリーナの喧騒を突き破ってコートへ届いた。
白石の垂れ下がった瞳に、最後の火が灯った。
「うおおおおぉぉぉッ!!」
百十キロの巨漢が、逃げるのをやめた。
相手の突進に対し、みぞおちを引き、骨盤を低く落として両腕を天へ垂直に突き立てた。
ドガァンッ!
凄まじい衝撃が白石の胸を直撃する。
だが、白石の足は一歩も後ろへ下がらなかった。
完全に角度を失った相手フォワードのシュートが、リングのバックボードを激しく叩いて弾け飛ぶ。
こぼれ球!
「もらったァァァッ!!」
2ファウルを抱えた鮫島が、前へ突っ込む悪癖を必死に抑え、真上へ垂直に跳び上がって両手でボールをもぎ取った。
ブォォォォォッ!!
前半終了を告げる長いブザーが鳴り響いた。
『黎明高校29 - 34 県立北嶺高校』
5点ビハインド。
リードは奪われた。だが、最後の最後で、蓮抜きの4人が泥臭く踏みとどまり、致命的な失点を防ぎ切ったのだ。
ベンチへ戻ってくる4人の身体は、汗と打撲でボロボロだった。
だが、肩を寄せ合い、荒い息を吐くその瞳の奥には、前半開始前の怯えは微塵も残っていなかった。
後半、残り二十分。
呼吸を整え逆襲を期す蓮と、泥にまみれて耐え抜いた4人の執念を懸けた。
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