第27話:肉弾の反動、綻びる昭和の檻
前半終了のブザーが鳴り響いた瞬間、メインアリーナの熱気はそのまま、両校の控室へと持ち越された。
スコアは『29対34』。
5点ビハインド。
だが、薄暗い通路を通ってベンチ裏の控室へ戻ってきた開明高校の選手たちの表情に、絶望の色はなかった。
汗と打撲で身体はボロボロだったが、その瞳には、荒れ狂う上級生の突進を最後の最後で押しとどめたという、泥臭い手応えが宿っていた。
「ハァ……ハァ……っ! 死ぬかと思ったよ……」
白石岳がパイプ椅子に崩れ落ち、床に大の字になって天井を仰いだ。
百十キロの巨体が激しく上下し、ユニフォームは絞れるほどの汗で肌に張り付いている。
鮫島豪は荒い息を吐きながら、冷やしたタオルを真っ赤に腫れ上がった脇腹に押し当てて顔を歪めていた。相手の肘打ちを食らった箇所が、青黒く変色しかけている。
「全員、靴紐を緩めろ。足を心臓より高い位置に上げて、アイシングを当てろ」
俺――如月蓮は、神崎コーチとともに用意していた電解質ドリンクと氷嚢を手際よく配った。
「白石、股関節とハムストリングスに氷嚢を当てろ。鮫島、深呼吸を止めるな。アドレナリンが引いてくると打撲の鈍痛が強くなる。痛みに意識を集中させるな、横隔膜を動かして酸素を全身へ送れ」
「蓮……すまねえ」
陣内誠が右膝をさすりながら、唇を噛み締めて俯いた。
「俺がもっと外からスリーを決めてりゃ、お前が下がった時間帯に逆転されずに済んだんだ……。相手が着地点に足を滑り込ませてくるのが怖くて、どうしてもリリースがコンマ数秒遅れちまう……」
「謝るな、陣内」
俺は陣内の前に膝をつき、その右膝の熱感を確かめた。
「腫れも熱もない。お前の腱は無事だ。相手の上級生が着地点を潰しにくるのは、それだけお前のシュート力を恐れている証拠だ。恐怖を抱くのは恥じゃない。生きて戦っている証拠だ」
俺は立ち上がり、黒木凌の肩を叩いた。
「黒木。お前の声がチームを救ったぞ。お前が『スイッチ』と叫ばなければ、前半の最後の失点で点差は十点以上に開いていた」
黒木はタオルで顔を覆ったまま、わずかに肩を震わせ、掠れた声で返した。
「……まだ、遅い。もっと早く……相手が動く前に叫べたはずだ」
「その悔しさがあれば、後半はもっと良くなる」
そこへ、通路の偵察から戻ってきた神崎コーチが、苦々しい表情で扉を開けた。
「……向こうの控室、酷い状況だよ」
神崎が手元のバインダーを叩き、静かに告げた。
「権藤監督が部員たちを怒鳴り散らしている。『たかが一年坊主に手こずりおって! 後半は全員で足をへし折るつもりで突っ込め!』とな。……そして、水筒に手を伸ばそうとした2年生のフォワードを『弱気になるな、水を飲んだら身体が重くなる! 気合で汗を引っ込めろ!』と竹刀で床を叩いて制止していた」
「な……ッ!?」
陣内が目を見張った。
「この猛暑の中、前半あれだけ激しくぶつかり合って……水分補給を禁止してんのか!?」
「昭和の亡霊の、絵に描いたような自滅パターンだ」
俺の冷徹な一言が、控室に響いた。
俺はホワイトボードの前に立ち、ペンを走らせた。
「いいか、全員よく聞け。北嶺高校の選手たちの筋肉は、限界を迎えている」
俺は骨格と筋肉の断面図を描き、矢印を書き足していった。
「彼らはベンチプレスで分厚い筋肉の鎧を纏っているが、その過度な筋肥大こそが、いま彼らを内側から破壊している。筋肉量が多ければ多いほど、運動時の酸素消費量と熱の発生量は膨大になる。この蒸し暑い体育館で、水分も電解質も補給せずにフルパワーの体当たりを続ければ、血中乳酸値は急激に上昇し、筋小胞体からのカルシウムイオンの放出が阻害される」
俺は4人を見渡した。
「簡単に言えば、彼らの筋肉は後半、自分自身の重さと熱に耐えきれず、鉛のように硬直して動かなくなるということだ。すでに前半の終盤、相手の3年生ガードは足首の背屈ができず、ステップの戻りがコンマ三秒遅れていた。第3クォーターの後半から、彼らの足は確実に止まる」
鮫島がハッと息を呑み、白石が目を丸くした。
「勝負は、相手の身体が壊れ始める後半の終盤だ」
俺は戦術ボードを叩き、4人へ告げた。
「神崎先生、第3クォーターの立ち上がり数分間、小林をスタートで入れてください。前半の接触で削られた俺の呼吸筋と心拍数を完全に整え、勝負所で全員が走り切れるようにペースを配分します」
「了解だ」神崎が頷いた。「第3クォーターの立ち上がり、権藤は間違いなく怒号で選手を焚き付け、前半以上の力任せな突進を仕掛けてくる。そこで無理に点を取り合おうとするな。黒木、お前が落ち着いてゲームを作れ。相手の突進を徹底して『椅子引き』といなしで空転させろ。相手が勝手に突っ込んで、自らの筋肉を疲弊させるのを待つんだ」
俺は鮫島と白石の目を真っ直ぐに見据えた。
「焦る必要はない。相手の足は確実に止まり始めている。俺もすぐに呼吸を整えてコートへ戻る。立ち上がりの数分間、泥臭く食らいついてくれ!」
控室に、熱い覚悟が満ちた。
互いの体力を補い合い、全員で40分間を戦い抜くための試練。
「……やってやるよ」
沈黙を破ったのは、鮫島だった。
鮫島は痛む脇腹を押さえながら、立ち上がった。
「あんな竹刀ジジイの言う通りに動いてるロボットどもに、俺たちが負けるわけがねえ。蓮……第4クォーターまで、絶対に十点差以内で耐えてやる。テメエがコートに戻ってくるまで、このゴール下は一本たりとも譲らねえ!」
「僕も……」
白石が太ももを叩いて立ち上がった。
「相手が勝手に転ぶなら、僕、何回でも椅子引きやるよ。痛くても……逃げない」
「声は、俺が出し続ける」
黒木が短く告げた。
「蓮。最後の一本、絶対に俺が決めてやるからな」
陣内が力強く頷いた。
ピーーーーーッ!
後半開始を告げるブザーが、通路の向こうから響いてきた。
◇
第3クォーター開始。
コート中央に並び立った両校。
開明高校のポイントガードの位置には控えの小林が入り、ベンチでは氷嚢で首筋を冷やした如月蓮が、戦況を鋭く見つめていた。
「おい見ろ! 如月がベンチに下がったぞ!」
「やっぱりあの一年生ガード、前半の当たりで潰されたんだ!」
観客席がざわめき、北嶺高校のベンチでは権藤鉄蔵が醜悪な笑みを浮かべて立ち上がった。
「ハハハッ! 見たか! あの小生意気なチビはもう終わりだ! おい、コートに残った抜け殻どもを一気に踏み潰せ! 点差を二十点つけて勝負を決めろッ!!」
北嶺ボールのスローイン。
権藤の怒号に背中を押された北嶺高校の5人が、まるで獲物に群がる野獣のように開明陣内へと襲いかかってきた。
3年生ガードが暴力的なスピードでドライブを仕掛けてくる。
だが―― 黎明の4人は、前半のように浮き足立ちはしなかった。
「――っ、ドライブ左! 白石、ヘルプ!!」
黒木凌の研ぎ澄まされた叫び声がコートを切り裂いた。
白石岳が、軋む太ももの痛みに耐えながら、瞬時にドライブコースへ身体を滑り込ませる。
「邪魔だデカブツゥッ!」
相手ガードが白石を吹き飛ばそうと、全体重を預けて右肩から体当たりを仕掛けてきた。
ドスンッ!
凄まじい衝撃。だが、白石は正面から受け止めない。
接触の瞬間、みぞおちを深く引き、骨盤を立てて相手の突進力をそのままフロアの斜め後ろへと逃がした。
スカッ!
「なっ……!?」
壁だと思っていた白石の身体が柔らかく力を逃がしたことで、相手ガードは自らの突進する運動量を制御できず、無様に床へと足をもつれさせた。
バランスを崩したまま放たれた苦し紛れのシュートが、バックボードの角を叩いて虚しく弾け飛ぶ。
「リバウンドッ!」
北嶺の百九十五センチの巨漢センターが、鮫島を背後から突き飛ばすようにして宙へ跳び上がろうとした。
だが――鮫島は空中で張り合わなかった。
相手が跳び上がるコンマ一秒前、相手の太ももにどっしりと自らの腰を当て、相手の踏み切りの支点を完全に押し出した。
地上での『ボックスアウト』!
「うおっ!?」
支点を失った北嶺センターは、本来の跳躍の半分も跳べずに空中で体勢を崩した。
その頭上から、落下点の真下を確保していた鮫島が、真上へ垂直に跳び上がって両手でボールを引ったくった。
バシィィィッ!!
「取ったぞォォォッ!!」
鮫島が咆哮する。
着地と同時に、鮫島は前線へ走り出していた黒木へ鋭いパスを放った。
黒木が長いストライドでフロントコートを駆け上がる。
相手ディフェンスが必死に戻ってくるが、その足取りは明らかに重かった。
蓮が指摘した通りだった。
前半から水分補給を絶たれ、過剰な筋肉が熱を帯びた北嶺の選手たちの太ももは乳酸で張り詰め、ダッシュの一歩目が目に見えて鈍っていたのだ。
黒木は相手ディフェンダーを長い腕でいなし、右コーナーへ鋭いスキップパスを振った。
待っていたのは陣内誠。
相手フォワードが死に物狂いでクローズアウトに飛び込んでくる。
だが、その踏み込みは甘く、足首が硬直して跳躍にキレがない。
(見える……! ブロックの手が、全然届かねえ!)
陣内は恐怖を完全に振り払っていた。
足首のバネ、骨盤の回転、広背筋の波。
脱力から放たれたボールが、夕暮れの体育館に美しい放物線を描いた。
――スパァァァンッ!!
『32対34』! 2点差!
「しゃあぁぁッ!!」
陣内が拳を突き上げ、開明ベンチが総立ちになって歓声を上げた。
「バカ者どもが! 何をしている、足を動かせェッ!」
北嶺ベンチで権藤が激昂し、竹刀をフロアに叩きつける。
だが、怒鳴られた北嶺の選手たちの表情は、苦痛と疲労に歪んでいた。
肩で激しく息をし、喉は渇きで張り付き、足の筋肉が痙攣しかけている。
精神論で誤魔化してきた肉体の限界が、確実に彼らを蝕んでいた。
その後、第3クォーター中盤、呼吸を整えた蓮がコートへ復帰。
試合は壮絶な消耗戦となった。
黎明も白石のスタミナが限界を迎え、足をもつれさせて失点を許す場面もあった。
だが―― 黎明の5人は決して心折れることなく、互いに声を掛け合い、泥を啜るようにして相手の背中に食らいつき続けた。
ピピーーーッ!
第3クォーター終了のブザーが鳴り響いた。
『私立黎明高校 42 - 45 県立北嶺高校』
点差は、わずか3点。
激しい肉弾戦の嵐を耐え抜き、一桁差の射程圏内を死守したのだ。
ベンチへ戻ってくる4人の身体から、湯気のような汗が立ち上っていた。
白石は膝をつき、鮫島は息も絶え絶えだったが、その誰もが倒れ込むことなく、ベンチの前で真っ直ぐに蓮を見つめた。
「蓮……」
鮫島が、血の滲むような笑みを浮かべて拳を突き出した。
「約束通り……3点差で耐え抜いてやったぞ……!」
俺はジャージを脱ぎ捨て、白いユニフォーム姿で一歩前へ進み出た。
心拍数は最適。全身の筋肉にも腱にも、一切の疲労はない。
仲間たちが命懸けで繋いでくれた、最高の舞台。
「ありがとう、みんな」
俺は4人の拳に、自らの拳を力強く打ち合わせた。
「よく耐えてくれた。……ここからは、俺がすべてを終わらせる」
最終第4クォーター。
傷だらけの5人の執念と、新時代の知性が、昭和の亡霊を完全に打ち砕くための逆襲が、いま始まろうとしていた。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下にある【☆☆☆☆☆】の評価やブックマークをいただけると、執筆の大きな励みになります!
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




