第24話:初陣の熱気、地下通路の因縁
五月下旬。
初夏の強い日差しが照りつける中、インターハイ県予選の会場となった県立総合体育館は、全県から集まった高校生たちの熱気と怒号で満ち溢れていた。
フロアに響き渡る無数のバッシュの摩擦音、甲高いホイッスル、応援団の太鼓の轟音。
高校バスケ界において、夏と冬の二大大会は文字通り生徒たちの青春のすべてを賭けた戦場だ。
特に、負ければ即座に三年生の引退が決まるこのインターハイ予選は、どのコートからも異様な気迫と緊張感が漂っていた。
「うわぁ……人、多すぎだよ……」
サブアリーナの片隅で、百九十八センチの白石岳が青ざめた顔で自分の両手を見つめていた。
指先が微かに震えている。
「僕、中学の時もこんな大舞台出たことないよ……ギャラリーからみんなが見てるし、足がガチガチになって動かないよ……」
「情けねえツラしてんじゃねえぞ、岳!」
鮫島豪が怒鳴りつけるが、その鮫島自身も額に異常な量の汗をかき、バンダナを何度も締め直していた。
中学時代はファウルトラブルで干され、公式戦のコートにまともに立った経験が少ない男だ。大歓声と独特の緊張感に、全身の筋肉が知らず知らずのうちに過緊張を起こしていた。
「深呼吸をしろ、二人とも」
俺――如月蓮は、二人の背中に手を当て、ゆっくりと息を吐かせた。
「緊張するのは当たり前の生理現象だ。交感神経が優位になり、アドレナリンが分泌されて心拍数が上がっている。無理に落ち着こうとするな。『身体が戦う準備を整えている証拠だ』と受け入れろ」
俺は電解質ドリンクのボトルを二人に手渡した。
「喉を潤して、横隔膜を深く下げる腹式呼吸を三回繰り返せ。それだけで心拍数は十拍下がる」
白石と鮫島がゴクリとドリンクを飲み干し、深く息を吐き出す。
その隣では、黒木凌が無言で靴紐を二重に結び直し、陣内誠は右膝を両手で包み込むようにして、静かに目を閉じていた。
「陣内、足はどうだ」
「……大丈夫だ、蓮」
陣内が目を開けた。その瞳には、恐怖を必死に押し殺した強い光が宿っていた。
「痛くはねえ。だが……フロアの歓声を聞くと、中学の最後の試合で靭帯を痛めた時の光景が、どうしても頭をよぎる。……だけどよ、逃げ出したいとは思わねえ。早くあのリングに、一本シュートを叩き込みてえよ」
「その意気だ」
俺は陣内の肩を叩いた。
「俺たちの初陣だ。泥臭く、一歩ずつ進むぞ」
◇
一回戦の相手は、県立東陽高校。
派手さはないが、三年生を中心とした堅実なハーフコートバスケを展開する古豪だ。
ピーーーーーッ!
試合開始のブザーが鳴り響いた。
創部初年度、全員が一年生の黎明高校の立ち上がりは、決して華々しいものではなかった。
公式戦の重圧に呑まれた白石は、最初のポストアップで足をもつれさせてトラベリング。
鮫島はリバウンドで相手と競り合った際に腕が絡まり、開始二分で早くもファウルを一つ取られる。
陣内も、フリーで放った最初のスリーポイントが緊張から手元が力み、リングの手前を叩いて外れた。
第1クォーター残り五分で、『4対10』の6点ビハインド。
観客席からは「なんだ、開明高校って鳴り物入りで噂になってたけど、ただの素人集団じゃないか」「やっぱり一年生だけの新設校じゃ県大会の空気には呑まれるよな」と冷めた声が漏れ始めていた。
だが――コート上の俺の心拍数は、百十台でピタリと安定していた。
(想定内だ。最初から完璧に動ける高校生など存在しない)
「ディフェンス! 一本確実に止めるぞ!」
俺の声がコートに響いた。
相手のセットオフェンス。ガードがピック&ロールを使ってペイントエリアへ切れ込んでくる。
その瞬間――黒木凌が喉を裂くような声で叫んだ。
「――っ、右スクリーン! スイッチ!!」
白石岳が巨体をスライドさせ、ドライブコースへ垂直の壁を作った。
相手ガードが焦って無理な体勢からフローターシュートを放つ。
カツンッ!
リングを叩いて跳ね返ったボールの落下点へ、鮫島豪が両足を揃えて垂直に跳躍した。
バシィッ!
ノーファウル。完璧なディフェンスリバウンド。
「走れ陣内!」
鮫島からのアウトレットパスを拾った俺は、相手ディフェンスの戻りの遅れを見逃さず、フロントコートへ矢のようなロングパスを放った。
右コーナーへ必死に走っていた陣内の手元へ、吸い込まれるように収まる。
相手フォワードが猛然とクローズアウトに飛び込んでくる。
だが、陣内は今度は跳び上がらなかった。
膝を沈めず、足首のバネと背筋の波を指先へと通すワンモーション。
――スパァァァンッ!!
『7対10』。
「入ったぁぁッ!」
陣内が拳を突き上げ、黎明ベンチから歓声が上がった。
この一本を皮切りに、黎明高校の歯車がようやく噛み合い始めた。
俺の出場時間は、事前の取り決め通り前半の十分と第3クォーターの五分の計十五分。
相手の執拗なプレスを受け続けるポイントガードの体力を温存するため、俺は第2クォーターの序盤と第3クォーターの合間に短時間のベンチ休養を挟みながら、コート上の仲間たちをコントロールし続けた。控えメンバーが繋ぐ時間帯は相手の猛追を受け、2点差まで詰め寄られる苦しい展開となったが、最後は黒木の執念のスティールと、白石の泥臭いルーズボールへの飛び込みでリードを守り抜いた。
ピピーーーッ!
『黎明高校 74 - 61 県立東陽高校』
決して圧勝ではない。
ミスを重ね、息を切らし、打撲だらけになりながら掴み取った、開明高校男子バスケットボール部にとっての「公式戦初勝利」だった。
翌日の二回戦・西陵高校戦もまた、苦難の連続だった。
相手は徹底した外角シュートとゾーンディフェンスで黎明のインサイドを塞ぎにかかってきた。
連日の試合で白石の太ももはパンパンに張り、第2クォーターの終盤には足が止まりかけた。
だが、蓮の緻密なゾーン攻略――白石を囮にしてハイポストから逆サイドへ振るスキップパスと、鮫島の泥臭いオフェンスリバウンドのねじ込みによって、終盤に抜け出した。
『黎明高校68 - 59 西陵高校』
9点差の辛勝。
満身創痍になりながらも、ノーシードの黎明高校は、ついに県ベスト16――シード校への挑戦権を掴み取ったのだ。
◇
そして迎えた、大会三日目。
ベスト8進出をかけた三回戦の朝。
メインアリーナへと続く、薄暗くひんやりとした地下通路。
試合前のウォーミングアップへ向かう黎明高校の5人の前に――行く手を塞ぐように立ちはだかる巨大な壁があった。
臙脂色の重厚なウォームアップウェア。
青々と剃り上げた丸刈りに、高校生離れした分厚い胸板と丸太のような腕。
シード第3位・県立北嶺高校の2年生と3年生の主力たちだった。
平均体重八十五キロ。第二次性徴を終えた上級生たちが放つ暴力的な威圧感が、地下通路の空気を重苦しく支配していた。
そして――その中心に、腕を組み、不遜な仁王立ちで立っていたのは。
手にした使い古された竹刀。
顔中に刻まれた深い皺の奥から、蛇のように陰湿で執念深い眼光をギラつかせている男――権藤鉄蔵だった。
「……久しぶりだな、如月」
地を這うような濁った声が、コンクリートの壁に反響した。
「南陽中では小賢しい真似をしてくれたようだが……高校のコートにまでそのお遊びを持ち込めると本気で思っていたのか?」
北嶺の巨漢フォワードたちが、権藤の背後から威圧するように一歩踏み出してくる。
ドスン、と床を踏み鳴らす重い足音。
鮫島がピクリと反応し、白石が思わず息を呑んで後ずさりしかけた。
「一回戦と二回戦の試合、見させてもらったよ」
権藤が竹刀の先をフロアにトントンと叩きつけ、嘲笑を浮かべた。
「たかが無名の公立相手に、息も絶え絶えの一桁差の泥仕合。……おいおい、南陽中を全県準優勝まで押し上げたっていう『最先端の科学』とやらは、高校生相手にはこれっぽっちも通用しねえようだなァ!」
北嶺の部員たちから、低く下品な嘲笑が漏れる。
「おい如月、お前のようなひょろいチビが高校バスケのコートに立っていられると思うなよ」
権藤の目が、血走った狂気の色を帯びた。
「高校のバスケはな、身体と身体がぶつかり合う本物の戦争なんだよ! 俺がこの春から徹底的に叩き込んだ北嶺の『気合と根性の肉弾戦』の前に、お前たちの軟弱な身体が何分耐えられるか……フロアの上で血反吐を吐かせてやる! 二度とバスケができない身体にしてやるからな!」
明確な恫喝。
暴力による支配を信じて疑わない昭和の亡霊の咆哮に、地下通路の空気が凍りついた。
「テメエ……っ!!」
鮫島が青筋を立て、拳を固めて前に飛び出そうとした。
「誰の足をへし折るってんだコラァ! ぶっ殺してやるぞジジイ!!」
「待て、鮫島」
俺は片手を伸ばし、鮫島の胸板を制した。
俺の心拍数は六十四。呼吸は静まり返り、視界は極めてクリアだった。
俺は一歩前へ歩み出た。
権藤の突き出す竹刀の切先、そして北嶺高校の上級生たちの威圧的な視線を、真っ向から静かに見据え返した。
「権藤先生」
俺の淡々とした声が、通路に響いた。
「相変わらず、生徒たちの肉体をただの消耗品としてしか見ていないようですね」
「何だと……!?」
権藤の眉がつり上がる。
「北嶺の選手たちの足元を見れば分かります。過度なベンチプレスとスクワットで下半身の関節が過緊張を起こし、足首の背屈可動域が著しく狭まっている。上級生の筋肉の鎧は確かに脅威ですが……その硬直した肉体は、方向転換やブレーキ動作において、自らの関節へ莫大な破壊エネルギーを跳ね返している」
俺は権藤の目を冷徹に見つめた。
「力任せに押すことしか教えられないのは、指導者としての思考停止です。あなたの信じるその暴力的な精神論が、いかに時代遅れで脆いものか……コートの上で証明して見せますよ」
「口を慎め、クソガキがァッ!!」
激昂した権藤が竹刀をフロアに激しく叩きつけた。
「全員、今日の試合、開明のチビどもをゴール下で徹底的に踏み潰せ! 骨の一本でも折ってこいッ!!」
「「オオォッッ!!」」
北嶺の部員たちが地鳴りのような怒号を上げ、メインコートへと行進していった。
重い足音が遠ざかり、再び静寂が戻った地下通路。
白石は両手を強く握りしめ、陣内は荒い息を吐きながら自らの胸を押さえていた。
「すげえ殺気配だったな……本当に、骨を折りにくる気だぜあいつら……」
陣内が呟く。
「怖がる必要はないよ、陣内」
俺は振り返り、4人の顔を一人ずつ見つめた。
「相手は力で押すことしか考えていない。なら、こちらは練習通り、その突進力をすべて空転させるだけだ。……行くぞ、みんな」
鮫島が獰猛に唇を吊り上げ、黒木が無言で頷き、白石が覚悟を決めたように頬を叩いた。
「おうよ! あの筋肉ダルマども、全員ひっくり返してやるぜ!」
ピーーーーーッ!
メインアリーナから、三回戦の開始を告げるブザーが轟き渡った。
昭和の亡霊が率いる筋肉集団と、未完成な原石たちが紡ぐ知性と泥臭さの戦い。
因縁の死闘が、いよいよ火蓋を切ろうとしていた。
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