第23話:鉄の鎧と、血潮の反復
放課後の薄暗い視聴覚室。
カーテンが締め切られた部屋の中央に、二十一インチのブラウン管テレビと家庭用VHSビデオデッキが置かれていた。
ガチャリ、とデッキにテープが吸い込まれ、砂嵐のようなノイズの後にざらついた練習試合の映像が映し出された。神崎コーチが脚立を持ち込み、他校のギャラリーからハンディカムで隠し撮りしてきた貴重なスカウティング映像だ。
「……うわぁ……」
画面を見上げた瞬間、白石岳が情けない声を漏らし、百九十八センチの巨体を小さく丸めた。
画面の中で暴れ回っているのは、臙脂色のユニフォームを着た県立北嶺高校の選手たちだった。
全員が青々と剃り上げた丸刈り。ベンチプレスで徹底的に鍛え上げられた分厚い胸板、丸太のような太もも、盛り上がった僧帽筋。
そして――相手チームの選手をゴール下で力任せに押し込み、露骨な肘打ちやすれ違いざまの衝突で相手をコート外へ吹き飛ばしては、強引にボールをゴールへねじ込んでいる。
ベンチのパイプ椅子には、腕組みをして竹刀を足元に立てかけた初老の男――権藤鉄蔵がふんぞり返り、激しい怒号を飛ばしていた。
「な、なんだよあいつら……高校生っていうか、プロレスラーじゃねえか……!」
鮫島豪が唾を呑み込み、顔を引きつらせた。普段は誰に対しても噛みつく狂犬が、画面から漂う上級生の暴力的な威圧感に気圧されている。
「あれが、高校バスケの伝統校と呼ばれるチームの現実だ」
俺――如月蓮は、ビデオのリモコンを手に取り、一時停止ボタンを押した。
静止画の中に映し出されたのは、北嶺高校の二年と三年のインサイド陣。
「彼らの平均体重は八十五キロ。体脂肪率は十五パーセント前後まで絞り込まれ、筋肉の鎧を纏っている。骨格の成長がほぼ完了した上級生たちだ。対して、俺たち開明高校の一年生は、まだ第二次成長期を経て筋膜も骨端線も柔らかい。正面からぶつかり合えば、骨折や靭帯断裂を起こすのは間違いなく俺たちのほうだ」
「俺……中学の練習試合で、北嶺の連中と当たったことがあるんだ」
陣内誠が右膝をさすりながら、青ざめた顔で絞り出すように言った。
「あいつら、スクリーンをかけるフリをして露骨に膝や腰へ体当たりしてくるんだよ。相手のエースを肉体的に削って、後半に走れなくさせるのが権藤のやり口だ。……あんな突進を食らったら、俺のこの足、一発でお釈迦になっちまう……」
「だからこそ、頭脳と物理法則を使うんだ」
俺は部屋の明かりをつけ、ホワイトボードの前に立った。
「北嶺高校のオフェンスパターンは極めてシンプルだ。百八十五センチを超える屈強なフォワード二人が、交互に強烈なダウンスクリーンをかけてゴール下へ突進する『パワー・ハイロー』。力で押し返そうとすれば、鮫島も白石も一瞬で弾き飛ばされる。だが――相手の体重と突進するスピードが大きければ大きいほど、『その力を空振りさせた時の反動』は致命的なダメージになる」
俺はペンを走らせ、作用・反作用のベクトル図を描いた。
「相手が全体重を背中や胸で預けてきた瞬間、こちらは絶対に押し返さない。骨盤を立てたまま、半歩だけ後ろへ引いて相手の前に『空間』を作る。いわゆる『椅子引き(チェア・プル)』だ。相手は自分の突進力で前のめりにフロアへ転がり、自滅する」
「……転がす、のか」
黒木凌が切れ長の瞳を細め、低く呟いた。
「そうだ。そして鮫島。お前は空中で競り合うな。相手の上級生はジャンプ力はないが、空中で身体をぶつけてこちらのバランスを崩すのが得意だ。相手が踏み切る前の地上で、骨盤を落として相手の太ももを外側へ押し出せ。跳ばせなければ、どんな巨漢もリバウンドは取れない」
「地上で……押し出す……」
鮫島が自らの太い腕を見つめた。
「練習するぞ。頭で理解しただけでは、実戦の恐怖の前では身体が勝手に力む。無意識に身体が脱力できるようになるまで、血反吐を吐く思いで反復するんだ」
◇
体育館へ移動し、推薦組の控え部員たちに協力してもらい、実戦形式の対策練習が始まった。
だが――現実は、理論通りにはいかなかった。
「オラァッ! 北嶺のセンターだと思って受け止めろ!」
推薦組の百八十八センチの屈強なセンターが、ダッシュをつけて白石岳の懐へドスンと体当たりを仕掛けてきた。
「ひぃっ……!」
恐怖に怯えた白石は、蓮から教わった「半歩引く」タイミングを完全に見失い、無意識に両手で相手を押し返そうとしてしまった。
ドガァンッ!
鈍い衝突音とともに、百十キロの白石の巨体が無残に吹き飛ばされ、フロアをゴロゴロと転がった。
「ぐわっ……! い、痛ぇぇぇ……!」
腰を強打した白石が、フロアに突っ伏して涙目で呻く。
「違う、白石!」
俺の声が体育館に響いた。
「相手を見てから引くんじゃない! 相手が最も強く体重を預けてくる『二歩目の踏み込み』の瞬間に、みぞおちを脱力させて骨盤を引くんだ! 腕で押し返そうとするから衝撃を全部食らうんだぞ!」
「だ、だって……あんな勢いで突っ込んでこられたら、怖くて身体が固まっちゃうよぉ……!」
白石は脂汗を流し、息を切らしながら訴えた。
隣のコートでは、鮫島が推薦組のフォワードとリバウンドのポジション争いを繰り広げていた。
「おらぁぁッ! そこをどけぇッ!」
相手の激しい肘打ちにカッとなった鮫島が、思わず両手で相手の肩を突き飛ばしてしまった。
ピピーーーッ!
神崎コーチのホイッスルが鳴る。
「鮫島! プッシングファウル! また手を使ったな!」
「チクショウッ! あいつが先に肘張ってきたんだろうが!」
鮫島が床を激しく蹴りつけ、怒りに肩を震わせる。
「相手はわざと手を出させてファウルを誘っているんだ!」
俺は鮫島の前に詰め寄った。
「感情的になった時点で負けだ! 手を使うな、下半身の面で押せ! お前のその短気は、チームを殺す猛毒だぞ!」
「ぐっ……!」
鮫島は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、悔し涙を滲ませながら拳を握りしめた。
そして、黒木と陣内の連携。
推薦組のフォワードが強烈なダウンスクリーンを仕掛けてくる。
「……スクリーン、右!」
黒木が声を絞り出す。だが、声のトーンが低く、足音が激しい体育館では陣内の耳に届くのが一瞬遅れた。
ドスンッ!
スクリーナーの硬い肩が陣内の胸元を直撃し、陣内の身体がくの字に折れ曲がった。
「うぐっ……!」
「陣内!」
黒木が思わず手を伸ばす。
陣内は息を詰まらせ、右膝をかばいながらフロアに膝をついた。激しい接触の恐怖で、全身の筋肉が小刻みに震えている。
誰もが、高校生の上級生という「圧倒的な圧力」の前に、手も足も出ずに打ちのめされていた。
初陣の校内戦を1点差で制した高揚感など、木っ端微塵に吹き飛んでいた。
フロアに転がるボール。荒い息遣いと、重苦しい沈黙。
「……無理だよ……」
白石が膝を抱え、床を見つめたままポツリと呟いた。
「こんなの、一週間やそこら練習したって……相手は二年も三年も筋トレしてきた先輩たちなんだよ……? 僕たち一年生が敵うわけないよ……」
体育館の空気が、凍りついた。
鮫島も、陣内も、黒木も、反論の言葉を見つけられずに俯いていた。
それが、あまりにも残酷で、あまりにも動かしがたい現実だったからだ。
「敵わないなら、何もしないで負けるのか?」
俺の静かな声が、体育館の静寂に染み渡った。
全員がハッと顔を上げる。
俺は一歩前へ進み出た。
「俺自身の肉体を見てみろ。身長百七十八センチ、体重六十四キロ。筋肉量も骨密度も、お前たちより遥かに劣る、ただの未熟な十五歳の身体だ」
俺は自らの細い前腕を見つめた。
「俺だって怖いさ。北嶺の八十キロのセンターにフルスピードで激突されたら、肋骨が折れるかもしれない。……もし俺がプロのような完成された肉体を持っていれば、一人で四十点取って勝たせてやれる。だが、今の俺はみんなと同じ、まだ発展途上の十五歳の身体だ。一人で試合を支配し続けることなんてできない。だからこそ、チーム全員でペースを守り、助け合わなければ、四十分間を戦い抜くことすらできないんだ」
俺は視線を上げ、白石、鮫島、黒木、陣内の目を一つずつ見据えた。
「俺には、お前たちの力が必要なんだ。鮫島のバネが、白石の視野が、黒木のリーチが、陣内のシュートがなければ、俺は高校バスケの壁を越えられない。……未熟だから負けるんじゃない。未熟さを言い訳にして、自分の役割から逃げ出すから負けるんだ」
四人の胸の奥に、蓮の言葉が突き刺さった。
自分たちを「天才」としてではなく、「同じように未熟な身体と戦う仲間」として信頼し、背中を預けてくれている少年の覚悟。
「……逃げてねえよ」
鮫島が床に手をつき、ギシギシと音を立てて立ち上がった。
「誰が逃げるかよ……! 手を出さなきゃいいんだろ! 地上でケツ使って相手を押し出せばいいんだろ! もう一本だ、持ってこい!」
「僕も……」
白石が乱暴に涙を拭い、巨大な身体を起こした。
「痛いけど……骨が折れるよりはマシだよ。もう一回、突っ込んできてください……今度は絶対に引いてみせますから!」
「……もっと、大きい声を出す」
黒木が鋭い瞳で陣内を見た。
「陣内、すまない。次は絶対に、お前の耳に届く声で叫ぶ」
「おう……任せろ、黒木」
陣内が胸を押さえながら立ち上がり、力なく笑った。
「痛てえのは生きてる証拠だ。蓮のパス、絶対に無駄にしねえ」
折れかけた心が、泥の中から再び立ち上がった。
そこからの練習は、鬼気迫るものだった。
白石は相手の突進を十本受けて九本吹き飛ばされながらも、最後の十本目でついに完璧な脱力とステップバックを成功させ、相手センターを無様に床へ転がしてみせた。
「で、できた……! 本当に転がったよ、蓮くん!」
鮫島は自らの感情を押し殺し、地上で骨盤を低く落として相手の跳躍の支点を奪うボックスアウトを身体に刻み込んだ。
黒木の声は体育館の端まで響き渡るようになり、陣内は迫るブロックの手を恐れず、足首と背筋の連動だけで美しい高弾道スリーをネットに突き刺し続けた。
二階ギャラリーから見守る神崎拓也は、バインダーを握りしめ、熱い吐息を漏らした。
「泥だらけの原石たちが、互いの傷を舐め合うのではなく、互いの身体をぶつけ合って研ぎ澄まされていく。……如月蓮、君が作ろうとしているのは、ただの勝てるチームじゃない。互いの命を預け合える、本物のチームだ」
時計の針が夜の八時を回った頃。
フロアに大の字になって倒れ込む五人の身体は、汗と打撲の青あざでボロボロだった。
だが、その瞳の奥に宿っていたのは、怯えでも絶望でもない。
巨大な壁を前にして、泥を啜りながらも一歩前へ進んだ者だけが手にする、静かで強固な自信だった。
「よし、今日はここまでだ」
俺は冷たい電解質ドリンクを四人に手渡し、自らも床に腰を下ろした。
「明日はいよいよインターハイ県予選だ。一回戦、二回戦を確実に勝ち上がり、三回戦であの昭和の亡霊を迎え撃つぞ」
「「オオォッッ!!」」
体育館の窓の外には、初夏の夜空が広がっていた。
未完成な少年たちの、最初の大勝負が、いよいよ幕を開けようとしていた。
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