第21話:執念の逆転と、浮き彫りの限界
キュッ、キュッ、とフロアを擦るバッシュの甲高い音が、体育館の熱気をさらに押し上げていく。
スコアは『3対11』。
陣内誠の放った一本のスリーポイントシュートがネットを揺らしたことで、完全に沈みかけていた白チームのベンチに、ようやく小さな息吹が宿っていた。
「一本返したぞ! ディフェンス、声出していけ!」
俺――如月蓮がバックコートへ戻りながら叫ぶ。
「おうよォッ!」
鮫島豪が獰猛に咆哮し、すでに二つのファウルを抱えている自覚からか、拳を握りしめて自らを抑え込むようにゴール下へと陣取った。
だが、対する黒チーム――推薦組の精鋭たちも、そうやすやすと流れを渡すタマではなかった。
「おい、たかが一本決められただけだぞ!」
「相手の4番(鮫島)はもう2ファウルだ! インサイドへ突っ込んでファウルアウトに追い込め!」
黒チームの司令塔であるガードが、鋭い指示を飛ばしながらドリブルで間合いを詰めてくる。
黒木凌が再び腰を深く落とし、長い両腕を広げて立ちはだかる。
先ほどまでは完全に沈黙していた男が、荒い息を吐きながら、必死に喉の奥から声を絞り出した。
「……左、警戒……! ドライブ来る……!」
掠れた、しかし確かに味方の耳に届く声。
その警告通り、相手ガードが鋭いクロスオーバーから左サイドへ切れ込んできた。
黒木がヘソの中心軸を捉えたまま半歩スライドし、進路を完全に遮断する。
「チッ、しつこいな!」
相手ガードが強引にバックパスを逃がす。
受け取った相手フォワードが、ゴール下へ飛び込んできたセンターへバウンドパスを放り込んだ。
「オラァッ! 押し込んでやるぜ!」
黒チームの百八十八センチのセンターが、鮫島を背中で力任せに押し込もうとドスンと体重をぶつけてくる。
以前の鮫島なら、カッとなって腕を振り回し、相手を突き飛ばして3つ目のファウルを取られていた場面だ。
「ぐっ……おおぉぉッ!」
鮫島は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、相手の背中に手をかけず、両腕を垂直に天へ伸ばして胸板だけで衝撃を受け止めた。
蓮から叩き込まれた「反則を取られないためのポジショニング」。
力で押し出せないと焦った相手センターが、強引に反転してショートジャンパーを放つ。
ガガッ!
リングのバックリムを叩いてボールが跳ね上がった。
「リバウンドッ!」
鮫島は前へ飛び出さず、落ちてくるボールの落下点の真下に両足を踏み締め、その場から垂直に跳躍した。
空中で軸がブレない、美しい最高到達点。
バシィッ! と鈍い音を立ててボールをもぎ取る。
「走れ蓮ッ!!」
鮫島が叫び、着地と同時に前線へ鋭いアウトレットパスを放った。
俺はフロントコートへ疾走しながらボールをキャッチした。
背後から黒チームのガード二人が猛スピードで追いすがる。
俺自身の身体――まだ筋骨格が未完成な十五歳の肉体は、トップスピードを維持するだけで肺が軋み、足の筋肉に重い負荷がかかっていた。
前世のプロの肉体なら、そのまま相手を置き去りにして豪快なレイアップを沈められる場面だ。
だが、今の俺の肉体では、無理にスピードで勝負すれば接触でバランスを崩し、着地で足首を捻るリスクが高い。
(焦るな……知性で肉体の未熟さを補え)
俺はトップスピードのままペイントエリアの手前まで侵入すると、右足の母指球で急激にブレーキを踏んだ。
チェンジ・オブ・ペース。
追いつこうと必死になっていた相手ガード二人が、俺の急減速に対応できず、慣性力に引きずられて前方へ滑り抜けていく。
二人が通り過ぎたコンマ一秒の空白。
俺はシュートを打たず、後方から巨体を揺らして必死に走ってきた白石岳へ、床をバウンドさせる優しいパスを送った。
「白石、落ち着いて合わせろ!」
「は、はいっ!」
白石はすでに息を乱し、膝を震わせていたが、正面のガラ空きのスペースでボールをキャッチした。
中学時代に走ることを強要されて膝を壊した巨漢が、生まれて初めて「味方が作ってくれたスペース」に走り込んでいた。
百九十八センチの巨体が軽くステップを踏み、手首を柔らかく使ってゴール下へボールを沈める。
――バスッ!
『5対11』。
「入った……! 走ってシュート入ったよ、蓮くん!」
白石が汗みずくの顔で歓声を上げる。
「ナイスランだ白石! だが戻れ、相手が速攻を狙ってくるぞ!」
コート上の空気が、確実に変わり始めていた。
バラバラだった五人が、それぞれの未熟さを自覚しながらも、必死に泥臭く噛み合い出していた。
しかし――試合はそう簡単にひっくり返せるものではなかった。
推薦組の黒チームも、他校でエースを張ってきた猛者たちだ。
個々のフィジカルとスタミナ、試合慣れした状況判断では、まだ開明のスタメン5人を一枚上回っていた。
前半の残り三分。
白石のスタミナが限界を迎え始めていた。
百十キロの体重を支える下半身が悲鳴を上げ、ディフェンスの戻りが明らかに遅れる。
そこを突かれ、黒チームの速攻から立て続けにレイアップを許す。
さらに、陣内誠。
相手ディフェンスが陣内のスリーポイントを徹底して警戒し、露骨に身体を寄せてフェイスガードを仕掛けてきた。
「打たせるかよ!」
激しい接触。陣内は脱力してパスを逃がそうとするが、相手の肘が右膝の近くをかすめた瞬間、中学時代の激痛の記憶がよみがえり、思わずキャッチミスを犯してしまう。
ピピーーーッ!
「前半終了! 12対19!」
前半の十分間を終えた時点で、点差は7点。
ベンチに戻ってきた白チームの面々は、まるで激戦のフルゲームを終えたかのように肩で激しく息をしていた。
「ハァ……ハァ……っ! 足が……鉛みたいに重いよ……」
白石はベンチに倒れ込み、氷嚢を太ももに当てて荒い呼吸を繰り返している。
鮫島も肩を大きく上下させ、陣内はベンチの端で唇を噛み締めながら震える右手をじっと見つめていた。
「神崎先生。後半、俺の出場時間はどうしますか」
俺は心拍数計の画面を見せながら尋ねた。
神崎コーチは眼鏡の奥の瞳を険しく細め、バインダーにペンを走らせた。
「君の心拍数は百三十台を保っているが、成長期の腱の微小断裂を防ぐため、今日の君のプレイタイムは残り『五分』が限度だ。後半の頭から五分間出て、そこで交代だ」
「五分……!?」
鮫島が血相を変えて顔を跳ね上げた。
「おい神崎先生! 蓮が下がったら、誰がボール運ぶんだよ! 7点負けてんだぞ!」
「騒ぐな、鮫島」
俺は冷たいスポーツドリンクを鮫島に差し出した。
「最初から言ったはずだ。俺の身体もまだ発展途上だ。俺が四十分フルで出ずっぱりにならなければ勝てないようなチームなら、全国大会なんて最初から夢のまた夢だぞ」
鮫島は喉を鳴らし、悔しそうにボトルを握り潰すように掴んだ。
「いいか、後半の作戦だ」
俺はホワイトボードを取り出し、全員を集めた。
「後半の最初の五分間で、俺が全力でゲームをコントロールして同点まで追いつく。陣内、相手がお前のスリーを警戒して前に詰めてくるなら、裏が必ず空く。バックカットでゴール下へダイブしろ。白石、お前は動かなくていい。ハイポストで相手を背負い、陣内へタップパスを落とすだけでいい」
「……うん、それならやれる」
白石が頷く。
「そして――俺がベンチに下がった後の残り五分間。司令塔は黒木、お前だ」
黒木がハッと切れ長の瞳を見開いた。
「……俺が……?」
「そうだ。お前はただのストッパーで終わる器じゃない。長いリーチと広い視野を持っている。お前がトップからボールをプッシュし、味方に声をかけてディフェンスの網を張れ。お前ならできる」
黒木は自分の両手を見つめ、それから力強く頷いた。
「……やる。やってみる」
ピーーーーーッ!
後半開始のブザーが鳴り響いた。
後半の立ち上がり、俺は前世のヘッドコーチとしての戦術眼をフル回転させた。
相手ディフェンスの重心の逆を突き、チェンジ・オブ・ペースで切り裂いては白石へ。
白石からバックカットした陣内へ完璧なパスが通り、レイアップが決まる。
鮫島が泥臭くオフェンスリバウンドに食らいつき、タップシュートをねじ込む。
開始四分半、スコアは『18対19』。
ついに1点差まで詰め寄った。
ピピーーーッ!
「メンバーチェンジ、白チーム!」
神崎コーチの声が響いた。
後半五分経過。約束のタイムリミットだった。
「蓮、本当に行っちまうのかよ……」
鮫島が汗を滴らせながら俺を見る。
「あとは頼んだぞ、鮫島。黒木、声を出し続けろ。陣内、最後の一本をお前が決めろ」
俺は4人の背中を押し、ベンチへと退いた。
ここからが、開明高校の本当の試練だった。
絶対的な司令塔を欠いた白チームに対し、黒チームの推薦組が猛然と牙を剥く。
プレッシャーに押され、ターンオーバーから失点。
残り一分で『18対22』。4点差。
「落ち着け! まだ終わってねえ!」
黒木がコート上で喉が裂けんばかりに叫んだ。
孤高だった男が、チームのために全力で声を張り上げている。
「スイッチ! 鮫島、リバウンド頼む!」
「おうらぁぁッ!!」
相手の放ったシュートを、鮫島が鬼気迫る形相で掴み取った。
残り三十秒。
黒木が自らボールを運び、相手ガードを長いステップで抜き去ってゴール下へ切り込む。
相手センターがブロックに跳び上がった瞬間、黒木は空中で身体を捻り、右コーナーへキックアウトパスを放った。
そこには――肩で激しく息をしながら、両足を揃えて待っていた陣内誠がいた。
残り十秒。
相手フォワードが死に物狂いでクローズアウトに跳び込んでくる。
膝の痛み、過去の恐怖、重圧。
そのすべてが陣内の脳裏を駆け巡った。
(怖がらねえ……! 蓮が、みんなが繋いでくれたボールだ……!)
陣内は膝を深く曲げなかった。
足首のバネ、骨盤の回転、そして広背筋の波。
脱力から解き放たれたボールが、美しい放物線を描いて宙を舞った。
――スパァァァンッ!!
『21対22』! 1点差!
残り三秒!
「ファウル! ファウルに行け!」
ベンチから俺が叫ぶ。
相手のスローインの瞬間、黒木と鮫島が死に物狂いでダブルチームを仕掛けた。
焦った相手ガードの手元からボールがこぼれ落ちる。
ルーズボール!
フロアへ最初に飛び込んだのは――体力の限界を超えていたはずの巨漢、白石岳だった。
「うおおおおっ!!」
百十キロの身体をフロアへ投げ出し、長い腕でボールを前線へ叩き出す。
転がったボールを拾ったのは、走っていた陣内誠。
残り一秒。
ペイントエリア手前、陣内はバランスを崩しながらも、脱力の感覚だけを指先に残してストップジャンプシュートを放った。
ブォォォォォッ!!
試合終了のブザーが体育館に鳴り響く。
宙を舞うボール。
バックボードに当たり、リングの縁を二度、三度と跳ねて――ネットの中へと吸い込まれた。
――バシュッ!!
『23対22』。
静寂。
そして――体育館が割れんばかりの歓声とどよめきに包まれた。
「逆転……サヨナラだぁぁぁッ!!」
陣内がフロアに倒れ込み、鮫島がその上に覆いかぶさって吠えた。
「勝ったぞコラァッ! ざまあ見やがれ推薦組ぃぃッ!!」
白石はフロアに大の字になって天井を見上げ、黒木は両膝に手をつきながら、生まれて初めて見るような清々しい笑みを浮かべていた。
ベンチから駆け寄った俺は、倒れ込む仲間たちを見下ろした。
38対6のような華々しい無双劇ではない。
ミスを重ね、課題を露呈し、息も絶え絶えになりながら、泥を啜るようにして掴み取った『たった1点差の勝利』。
「蓮……勝ったぞ……」
陣内が涙でぐしゃぐしゃの顔で右手を伸ばしてきた。
俺はその手を強く握り返した。
「ああ。泥臭い、最高の初陣だったよ」
二階ギャラリーから見下ろす神崎拓也が、バインダーのページをめくりながら深く息を吐いた。
「課題だらけだ。スタミナも、ファウル管理も、声かけも、シュートの安定性も、全国レベルには程遠い。……だが、これほど伸び代のある未完成なチームを、俺は他に見たことがないぞ」
ボロボロの身体で、互いの健闘を称え合う5人。
黎明高校男子バスケットボール部。
不揃いな原石たちが、それぞれの壁を一つずつ打ち破りながら登りつめる3年間の長い階段。
その最初の、泥まみれの一歩が、確かに踏み出された瞬間だった。
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