第19話:孤高の影と、揺らぐピュアシューター
白石岳が自らの未熟さを認め、泥臭く体幹トレーニングに取り組むことを決意した直後。
体育館の片隅、メインコートの喧騒から完全に隔絶されたサブコートで、一人黙々とバッシュを滑らせている男がいた。
キュッ、キュッ、キュッ――。
無機質で、寸分の狂いもない規則正しい足音。
身長百七十九センチ。余分な贅肉を削ぎ落としたしなやかな筋肉のラインに、リーチの長い両腕。
研ぎ澄まされた顎の線に、感情の起伏を一切見せない切れ長の瞳。
スモールフォワード――黒木凌。
黒木は誰とも言葉を交わさず、ただ一人でクローズアウトとサイドステップの反復練習を続けていた。
息の乱れはほとんどない。その動きの精度は、高校一年生としては明らかに異質だった。
「あいつ、中学時代は県選抜で『相手のエースを完全に窒息させる影のストッパー』って呼ばれてたらしいぜ」
ベンチでスポーツドリンクを口に含んでいた鮫島豪が、バンダナで額の汗を乱暴に拭いながら言った。
「けどよ、ウチの中学とやった時もあいつ、試合中に一言も喋らねえんだよ。パス要求もしねえ、味方に指示も出さねえ。何考えてんのかサッパリ分からねえ不気味な奴だった」
「言葉を失っていたんじゃない。周囲に伝えることを諦めていたんだよ」
俺――如月蓮は、黒木の足の運びと重心の移動を観察しながら静かに呟いた。
俺はボールを一個抱え、サブコートへと歩み寄った。
「黒木。少し5対5のディフェンスに混ざってくれないか」
黒木はピタリと足を止め、無言で俺の顔を見つめた。
反論も同意もない。ただ、冷たく澄み切った瞳で小さく顎を引くだけだった。
ハーフコートのスクリメージ。
黒木をディフェンスの要に据え、推薦組の控え部員たちと組ませた5対5が始まった。
黒木の個人の対人守備力は、前世の俺の基準から見ても見事なものだった。
マッチアップする相手フォワードのドライブに対し、長いウイングスパンでコースを完璧に限定し、ヘソの中心軸を捉えて一歩も前へ進ませない。相手はタフな体勢でパスを逃がすのがやっとだった。
だが――問題は、相手がスクリーン(壁)を使った瞬間に起きた。
相手ガードが駆け上がり、黒木の背後へブラインドスクリーンをセットした。
「黒木、後ろだ!」
俺がベンチから叫んだが、黒木は気づくのがコンマ数秒遅れ、スクリーナーの肩に激しく接触して進路を断たれた。
そこまではいい。問題は、黒木が味方に対して『声』を一切出さなかったことだ。
普通なら「スクリーン!」「スイッチ!」と大声で叫び、味方のセンターにマークの受け渡しを指示しなければならない。だが、黒木は完全に無言のまま、強引に自分の腕力だけで相手の壁をすり抜けようとした。
結果はどうなったか。
マークの受け渡しが伝わっていない味方のセンターと、強引に追おうとした黒木が正面から激突したのだ。
ドガァンッ!
「うわっ!? 黒木、危ねえだろ!」
「……っ!」
味方同士でフロアに転倒する無様な光景。
その間に、フリーになった相手フォワードが易々とペイントエリアへ侵入し、レイアップを沈めた。
――バスッ!
「おい黒木! スクリーン来てるなら『スイッチ』の一言くらい言えよ!」
突き飛ばされる形になったセンターが、怒気を含んだ声で詰め寄る。
だが、黒木はフロアから立ち上がると、ユニフォームについた埃を払い、何も言わずに視線を逸らした。
「……チッ、何なんだよあいつ!」
「そこまでだ」
俺が割って入ると、険悪になりかけた空気がわずかに静まった。
俺は黒木の正面に立ち、その冷え切った瞳を真っ直ぐに見据えた。
「黒木。お前の個人のステップワークとリーチは一級品だ。だが、お前がコートにいる限り、このチームのディフェンスは絶対に完成しない」
黒木の眉が、ピクリと微かに動いた。
「……俺は、自分のマークを一度も抜かれていない」
低く、掠れたような声。初めて黒木が発した言葉だった。
「バスケットボールは1対1の格闘技じゃない。5人が一つの神経系で繋がる連動の競技だ」
俺は戦術ボードを取り出し、フロアの線を指差した。
「お前がいくら相手のエースを抑えても、声を出さずに味方と衝突していれば、失点は増える一方だ。お前は中学時代、周りのレベルが低くて指示を出しても無駄だと諦めていたんじゃないか?」
黒木は息を呑み、わずかに視線を泳がせた。
図星だった。
身体能力が高すぎるがゆえに、中学時代はチームメイトと呼吸が合わず、「あいつは独りよがりだ」「何を考えているか分からない」と孤立し、最後は口を閉ざして自分の殻に閉じこもっていたのだ。
「諦めるな、黒木。ここはお前が一人で戦う場所じゃない。味方の動きを信じ、味方に危険を知らせる『声』を出せ。それができないなら、どんなに長い腕を持っていても、お前はただの穴だ」
黒木は唇を強く噛み締め、両の拳を震わせた。
傷口を正確にえぐられたような屈辱。だが、その瞳の奥には、反発とは違う、初めて自分を正当に評価された者特有の動揺が滲んでいた。
「……練習、させてくれ。声の、出し方を」
絞り出すように放たれた一言。孤高のストッパーが、初めて他者との繋がりを求めた瞬間だった。
◇
だが――開明高校男子バスケ部の抱える闇は、それだけでは終わらなかった。
体育館の最も薄暗いベンチの端。
分厚いテーピングが何重にも巻かれた右膝を抱え、冷え切った目でフロアを見つめている少年がいた。
身長百七十八センチ。精悍な顔立ちに、どこか自暴自棄な影を落とした眼差し。
シューティングガード――陣内誠。
中学時代、県内ナンバーワンのピュアシューターとして名を轟かせながら、度重なる酷使によって膝蓋靭帯を痛め、強豪校からの推薦をすべて棒に振って開明高校へ流れてきた男だ。
「陣内くん、膝の調子はどうだい?」
神崎コーチが優しく声をかけるが、陣内は自嘲気味に鼻を鳴らすだけだった。
「どうもこうもねえよ、先生。病院じゃ『軟骨がすり減って炎症が慢性化してる。もう以前のような高いジャンプシュートは無理だ』って言われたよ。高校でバスケを続けるなんて、ただの未練だ。……シュートを打とうと踏み込むだけで、膝に針を刺されたような激痛が走るんだからな」
自らの選手生命が終わったことを受け入れようと、無理に冷笑を貼り付けている陣内。
俺はその前まで歩み寄り、陣内の右膝のテーピングを見下ろした。
「陣内。そのテーピングをすべて外せ」
「あァ……?」
陣内が苛立ちを露わにして顔を跳ね上げた。
「ガキが知った風な口利いてんじゃねえぞ! 固定しなきゃ痛くて歩けねえんだよ!」
「その分厚い固定が足首のクッション機能を完全に殺し、歩くたびに衝撃をすべて膝の靭帯へダイレクトに伝えているんだ」
俺は迷いなく言い放った。
「お前がシュートを打てないのは、膝の怪我そのもの以上に、『痛みを恐れるあまりフォームが完全に崩壊している』ことが原因だ」
「何だと……!?」
「お前は中学時代、高く跳び上がって最高到達点でボールを放すジャンプシュートを打っていたはずだ。だが、その打ち方は大腿四頭筋に莫大なブレーキ負荷をかけ、膝蓋骨をすり減らす。……膝を深く曲げて高く跳ぶ必要なんて、最初からどこにもないんだ」
俺はボールを拾い上げ、スリーポイントラインの頂点に立った。
「見ろ、陣内。膝をほとんど曲げず、足首の反発力と骨盤の前傾、そして広背筋の連動だけで打つ『ワンモーション・セットシュート』だ」
トンッ。
俺が軽く床を踏み、脱力した状態から放ったシュートは、一切の力みを感じさせずに滑らかな弧を描き、ネットの中央を射抜いた。
――スパァァンッ!
「な……!?」
陣内の目が大きく見開かれた。
「膝を……ほとんど曲げてねえのに、あんな軽々とスリーが届くのか……?」
「母指球から骨盤、そして背筋へエネルギーを波のように通せば、腕力も跳躍力もいらない。膝にかかる負担は従来の十分の一以下だ。……立て、陣内。テーピングを外して、打ってみろ」
陣内はゴクリと喉を鳴らした。
震える手で、何ヶ月も自分を縛り付けていた右膝のテーピングを引きちぎっていく。
露わになった青白い膝。陣内は恐る恐るスリーポイントラインの外側に立ち、ボールを構えた。
「爪先をわずかにリングの左十度へ逃がせ。右肩の引っ掛かりを消すためだ。膝で沈み込むな、足首のバネだけでリズムを作れ」
俺の指示に従い、陣内はおっかなびっくり身体を引き上げた。
――トン。
膝に無理な負荷をかけない、流れるようなリリース。
放たれたボールは、放物線の頂点を描いてリングへと落ちていく。
――スパァァァンッ!!
乾いたネットの音が体育館に響き渡った。
「あ……」
着地した陣内は、自分の右足を恐る恐る見下ろした。
「痛く……ねえ……? 本当に、膝がズキッとこねえぞ……!」
陣内の瞳に、失われていた熱い光が一瞬で灯った。
「すげえ……! これなら打てる! 俺、まだシュートが打てるぞ蓮!」
だが――現実は、そんな甘い奇跡を許さなかった。
「神崎先生。黒木をディフェンスにつけて、実戦形式で陣内に打たせてみてください」
俺の言葉に、神崎コーチが頷き、黒木を陣内の前へ配置した。
「チェックに行け、黒木!」
「……っ!」
黒木が長い両腕を広げ、猛然と陣内の懐へクローズアウトを仕掛けてきた。
長いウイングスパンが、視界のリングを完全に覆い隠す。
その瞬間だった。
「っ……!?」
目の前に迫る激しいプレッシャーとブロックの影を見た瞬間、陣内の脳裏に「ブロックされる」「高く跳ばなければ届かない」という中学時代の恐怖がフラッシュバックした。
反射的に、陣内は先ほど教わった脱力のフォームを忘れ、無意識に右膝を深く沈み込ませて力任せに高く跳び上がろうとしてしまった。
「ぐっ……あァッ!!」
踏み切りの瞬間、右膝に激痛が走り、陣内の顔が苦悶に歪んだ。
無理な跳躍。空中で体幹が激しくブレ、苦し紛れに腕の力だけで押し出されたボールは、放物線すら描けずにバックボードの角を虚しく叩いた。
ガガッ!
無残なミスショット。
「うわぁっ!」
バランスを崩した陣内は、右膝を押さえてフロアへ転がり、苦痛に激しく喘いだ。
「ハァ……ハァ……っ! クソッ……! 痛え……っ!!」
「陣内!」
駆け寄ろうとする鮫島を、俺は片手で制した。
「触るな。腱の断裂じゃない、痛みの記憶による筋肉の急激な痙攣だ」
陣内は床を拳で激しく叩きつけ、ボロボロと大粒の悔し涙をこぼした。
「……ダメだ……ッ! フリーなら打てても……相手が目の前に突っ込んできたら……身体が勝手に昔の打ち方に戻っちまうんだよ……! 怖えんだよ……ブロックされるのも、膝が壊れるのもよぉッ……!」
体育館が、重苦しい静寂に包まれた。
フリーの練習で一度入ったからといって、何年間も染み付いた身体の癖と心の恐怖が消えるわけがない。
実戦の極限のプレッシャーの中で、痛みに逃げず、新しい連動を信じ切ることの難しさ。
それが、怪我からの再生というものが持つ、あまりにも高くて険しい壁だった。
「当たり前だ」
俺は転がったボールを拾い上げ、床に倒れ伏す陣内の前に膝をついた。
「何年もかけて刻み込んだ恐怖が、たった数本で消えるわけがない。お前の戦いは、膝の痛みだけじゃない。その恐怖と、過去の自分の癖に打ち勝つことだ」
陣内は涙で濡れた顔を跳ね上げ、歯を食いしばって俺を睨み返した。
「……できるわけねえだろ……! こんなボロボロの足で……!」
「できるさ」
俺は陣内の肩を強く掴んだ。
「お前が諦めない限り、俺が何千本でも、何万本でもパスを出す。プレッシャーの中でも体が勝手に脱力できるようになるまで、徹底的に反復するんだ。……お前のその指先の感覚は、絶対に死んじゃいない」
陣内は荒い息を吐きながら、自らの震える右手をじっと見つめた。
悔しさと、情けなさと、そして心の奥底で消えずに燻り続けるバスケへの執着。
陣内は袖で乱暴に涙を拭い、黒木の差し出してきた手を払いのけることなく掴んで、痛む足でよろめきながら立ち上がった。
跳び方を忘れた猛獣・鮫島。
当たりに怯えて息を切らす巨漢・白石。
声を出すことを恐れる孤高のストッパー・黒木。
そして、怪我の恐怖と過去の亡霊に縛られるシューター・陣内。
誰もが致命的な欠陥を抱え、誰もが過去の痛みに足を取られている。
だが――全員がそれぞれの弱さと泥臭く向き合い、前を向いた。
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