第18話:重い巨躯、迷走のハイポスト
第18話:重い巨躯、迷走のハイポスト
「走らなくていいバスケ、ね」
俺――如月蓮は、目の前に突っ立っている百九十八センチ、百十キロの超巨漢・白石岳を見上げながら、その全身のラインを静かに観察した。
新調されたばかりの黎明高校の練習着。
XXLサイズのシャツの裾から覗く腕は丸太のように太いが、筋張った硬さはなく、どこかポテリとした脂肪の柔らかさを残している。足元を見れば、バッシュの踵を少し引きずるように歩く癖がある。
だが、脱力した肩の落ち方、ボールを拾い上げたときの手首のしなやかさ、そして何より指先がボールの革を捉える繊細な感覚は、間違いなく天性のものだった。
「おい岳! テメエ、入部初日からそんなナメ腐ったこと言ってんじゃねえぞ!」
先ほど俺のリバウンド予測に自分の悪癖を暴かれ、プライドを打ち砕かれたばかりの鮫島豪が、苛立ちを隠そうともせずに噛みついた。
「バスケっつったら走り込みとインサイドの肉弾戦だろうが! そのデケえ図体で何が『走るの嫌い』だ! ふざけんのも大概にしろ!」
「だって……本当に無理なんだもん……」
白石は面倒くさそうに首を竦め、ぼさぼさの髪をポリポリと掻いた。
「僕、中学の時にさ……顧問の先生から毎日『お前はデカいんだから往復ダッシュ百本走れ』『ゴール下で相手をぶっ飛ばしてリバウンド取れ』って怒鳴られ続けてたんだよね。走るのも跳ぶのも重くて息が切れるし、無理やり走らされたせいで両膝が悲鳴を上げてさ。病院に行ったら『成長期のオスグッドと膝蓋腱炎だ』って言われて……。最後は部活に行くのも嫌になって、半年以上ずっと幽霊部員だったんだ」
白石の垂れ下がった瞳の奥に、かつて大人たちの無知な指導によって植え付けられた深い苦痛と、諦めの色が滲んでいた。
体育館のフロアに、気まずい静寂が広がる。
昭和から平成初期の日本のスポーツ界において、大型選手に課される役割は極めて暴力的で画一的だった。
「デカい奴は走れ」「ゴール下の肉壁になれ」「痛くても根性で跳べ」。
成長期における骨と筋肉のアンバランス、過度な自重負荷による関節の悲鳴など一切考慮されず、ただ「体格があるから」という理由だけで使い潰されて消えていった原石たちが、この国には山ほどいたのだ。
「神崎先生がさ、『うちに来れば走らなくていい。君の頭脳と手首の柔らかさを生かせるバスケをやらせてやる』って言ってくれたから、僕、高校でもう一回やってみようと思ったんだよ。……でも、やっぱり走らなきゃいけないなら、僕、今すぐ帰るけど」
自嘲気味に呟く白石。
鮫島が「この野郎……!」と胸ぐらを掴みかかろうとしたが、俺は静かにその腕を制した。
「白石。お前は無理に走り回る必要はない」
「おい如月! 甘やかすなって言ってんだろ!」
「黙って見ていろ、鮫島」
俺は転がってきたボールを片手ですくい上げ、白石の胸元へチェストパスを送った。
バシッ、ではなく――フワリ。
白石は飛んできたボールを、まるで羽毛を受け止めるかのように、両手の手首を柔らかくクッションさせて無音でキャッチした。
手首のスナップ、脱力した肘の使い方。やはり素晴らしい。
「白石。お前が中学で膝を壊したのは、お前が怠け者だったからじゃない。百十キロの自重を支える体幹の筋膜が未完成な状態で、ただアスファルトや硬い床を力任せに走らされたからだ。運動生理学的に言えば、指導者の完全な過失だ」
俺の言葉に、白石がピクリと垂れ目を持ち上げた。
「だが――『走らなくていい』というのは、『立っているだけで勝てる』という意味じゃないぞ」
「……え?」
「お前のその広い視野と手首の柔らかさは、間違いなく一級品の武器だ。だからお前には、フリースローラインの中央――ハイポストに立ってもらう。お前自身がコート上のハブ(中継点)となり、チェスの駒を動かすようにパスを配給するんだ」
「ハイポスト……? ゴール下じゃなくて、外寄りのあそこに立ってていいの?」
「ああ。オフェンスの時間は、一歩もゴール下へ走らなくていい。ボールを持ったら、左右に走り込む俺や鮫島、外で待つシューターへ、相手ディフェンスが一番嫌がる隙間へパスを通すだけでいい」
「立ってパス出すだけなら……僕でもやれるかも」
白石の表情に、微かな安堵が浮かんだ。
だが、俺の目は笑っていなかった。
「神崎先生。推薦組の控えメンバーで、ハーフコートの5対5をお願いします」
「よし、やろうか!」
二階ギャラリーから見守っていた神崎コーチがホイッスルを鳴らし、推薦入試で集まった体格のいい一年生たちをディフェンスに配置した。
「5対5、ハーフコートスクリメージ! オフェンスは白石を中心にボールを回せ!」
「白石、行け」
俺の声に促され、白石はフリースローラインの中央へ移動し、どっしりと腰を落とした。
百九十八センチの巨体がハイポストに居座るだけで、フロアには確かに視覚的な圧迫感がある。
だが――問題はここからだった。
ピーーーーーッ!
開始の笛とともに、トップの位置から俺が白石の胸元へパスを入れた。
白石がボールを両手でキャッチした、まさにその瞬間だった。
「オラァッ! 前向かせねえぞ!」
ディフェンス役のセンター――百八十八センチの屈強な推薦組の選手が、激しいプレッシャーとともに白石の懐へ突進してきた。
ドガァンッ! と鈍い肉体衝突の音が響く。
「うわっ……!?」
白石の口から情けない悲鳴が漏れた。
体幹を支える脊柱起立筋とインナーマッスルが眠っている白石は、相手の激しい胸と腰への当たりに耐えきれず、あっけなく腰が浮き、両足の重心が踵へと流れて後方へよろめいた。
「岳! 何やってんだ、早くボール離せ!」
ゴール下へバックカットを仕掛けていた鮫島が怒鳴る。
だが、相手の激しいコンタクトによって上体が仰け反った白石の視界は、完全に狭窄していた。
相手の伸ばした長い腕と、目の前のプレッシャーにパニックを起こし、フロア全体の味方の位置が見えなくなっている。
「あ、危ない……!」
白石はバランスを崩したまま、苦し紛れに手首だけで鮫島へボールを放り投げようとした。
下半身の土台が崩れた状態から放たれたパス。
手元が狂い、回転の抜けたボールは鮫島の頭上を大きく越え、カバーに入っていた相手フォワードの腕にすっぽりと収まった。
パシィッ!
ターンオーバー。
「ちくしょう、どこに投げてんだ岳!」
鮫島が床を激しく踏み鳴らして悔しがる。
白石はその場に両手を膝につき、肩を大きく上下させながら荒い息を吐いていた。
わずか一本の攻防。それだけで、白石の額からは脂汗が噴き出し、太ももは小刻みに震えていた。
「ハァ……ハァ……っ! だ、ダメだよやっぱり……! 相手がぶつかってくると……身体が痛くて、息が詰まって……どこにパス出せばいいのか全然見えないよ……!」
白石の声は涙声に近かった。
周囲の推薦組の部員たちから、「なんだあいつ、デカいだけで全然踏ん張れねえじゃん」「当たられただけでビビってパスミスかよ」と失笑が漏れる。
「最初からできるわけがないだろ」
俺は転がったボールを拾い上げ、肩で息をする白石の前に静かに歩み寄った。
「白石。お前は手の先の器用さだけでバスケをやろうとしている。下半身で床を踏み締め、骨盤を前傾させて相手の当たりを股関節で受け止める体幹がないから、正面から胸に衝撃を食らって息が止まるんだ。衝撃で頸椎が揺れれば、人間の視野は強制的に半分以下まで狭まる。パスコースが見えなくなるのは当たり前の物理現象だ」
白石は唇を強く噛み締め、フロアを見つめたまま俯いた。
「……だったら、やっぱり僕には無理だよ。筋トレも走るのも嫌いだし、痛いのも嫌なんだ……」
「逃げるな」
俺の低く、しかし芯の通った声が体育館の空気を引き締めた。
「お前が中学で走るのを嫌がったのは正解だ。壊れるだけの練習に意味はない。だが――『当たりに負けない正しい身体の使い方』を学ぶことすら拒絶するなら、お前のその天性の視野と手首の柔らかさは、一生日の目を見ずに錆びついて終わるぞ」
白石がハッと顔を跳ね上げた。
俺はボールを白石の足元へ転がし、自らの腰を落としてディフェンスの姿勢を取ってみせた。
「見ろ、白石。相手がぶつかってきた時、胸を張って受けるんじゃない。みぞおちをわずかに引き、骨盤を立てて、相手の運動エネルギーを床へ逃がすんだ。そうすれば、百二十キロの相手が突進してきても頭部は一切揺れない。視界は静止画のようにクリアなまま、コート上の十人全員が視界に収まり続ける」
俺は白石の巨大な手を取った。
「お前が動く必要はない。だが、その場所に『不動の塔』として君臨するための体幹と、最低限のスタミナだけは、泥臭く鍛え上げてもらう。……俺の教えるトレーニングをやり抜く覚悟はあるか、白石」
体育館が静まり返る。
鮫島も、二階の神崎コーチも、固唾を呑んで白石の返答を待っていた。
中学時代、走ることを強要されて逃げ出し、自らの大きな身体を呪っていた少年。
だが、その瞳の奥底で燻っていた「本当は誰よりもバスケットボールが好きだ」という小さな火種が、いま確かに熱を帯びて揺らめいていた。
白石は袖で額の汗を乱暴に拭い、大きな手をギュッと握りしめた。
「……走らされるだけの無駄な練習じゃないなら……やってみたい。僕、パスで相手を完璧に崩してみたいよ……蓮くん」
弱音を吐き続けた巨漢が、初めて自らの意志で顔を上げた瞬間だった。
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