第九話 空間を読む者
それからしばらくして、今度はグリンゼニスにも、別種の特異性が見出された。
きっかけは、サー・ギメリオ・サマビルだった。
生ける伝説とまで呼ばれるその人物は、長い年月を生きながら、なお第一線で研究と実践を続ける技能者であり、Area Control Research Institute――通称 ACRI の主催者でもある。
彼が開拓した技能の一つに、Area Control、和訳して「領域制御」があった。一般には「結界」と意訳されることもあるが、両者は似て非なるものだ。結界が遮断や区切りの概念へ重きを置くのに対し、エリアコントロールは「指定した領域に、特定の現象や効果を発生させる」技能体系そのものを指す。
使いこなせれば極めて便利で、かつ強力である。
しかし難度は、最高峰に属する。
使用者は展開した領域を維持する間、常時精神力を消耗し続ける。領域から遠く離れることもできず、内部に与える効果が強ければ強いほど消費は激増し、持続時間は短くなる。
加えて、その前提として必要になるのが、Space Grasp――「空間把握」である。
空間把握は、風水における巒頭と理気の思想を基礎に、サー・ギメリオが研究と独自体系化を経て作り上げた技能だった。特定の空間に存在する多様な力の流れ、偏り、方向性を三次元的に把握する技法である。
エリアコントロールにおいては、方角の東西南北と、力場の上下左右は別個の概念として扱われる。例えば、方角が北、力場が下に偏った場では、形成した領域は維持できず自壊する。良質で安定した領域を展開するには、場の状態を極めて精密に読まなければならない。
ゆえに空間把握は、単なる補助ではない。エリアコントロールに不可欠な基盤技能なのである。
その空間把握を、グリンゼニスは自然に身につけていた。
ある日、リージラリィ邸へ滞在していたサー・ギメリオが、興味本位に近い軽い気持ちで、庭の一角に小さな即興のエリアコントロールを組み上げたことがあった。子どもたちが見ても何が起きているかわからない程度の、ごく簡単な試作である。領域の中では風の流れが少しだけ偏り、葉の揺れ方と光の落ち方が微妙に変わる程度のものだった。
双子はそれを眺めていたが、ロエルヴェイトが「なんだか変な感じがする」と首を傾げたのに対し、グリンゼニスは、もっと直截に反応した。
「そこ、ちょっと歪んでます」
サー・ギメリオの眉が、ぴくりと動いた。
「歪んでいる?」
「こっちとこっちは合ってるけど、あっちの下の方が、少し嫌な感じです」
まだ十年も生きていない子どもが、方角と力場の食い違いを、感覚として言い当てていた。
サー・ギメリオは黙って領域を組み替え、今度は逆に、より安定するよう調整してみせた。
するとグリンゼニスはすぐに顔を上げた。
「わあ。今のはさっきよりきれい」
「わかるのかね」
五百年を超える歳月を生きた理事長は、静かに問いかけた。
その眼差しには、珍しいものを見つけた驚きと、思索が同時に宿っていた。
「はい。なんとなくですけど」
グリンゼニスは悪びれずに答えた。
彼にとっては、それは見ようとして見えるものではない。空気の流れや人の気配を読むのと同じように、そこにあるものがただ自然にわかるだけなのだ。
サー・ギメリオは、しばらく少年を見つめていた。
やがて小さく笑った。
「君はずいぶんと厄介なものを、生まれながらに持っているようだ」
その言葉は恐ろしい宣告ではなかった。
むしろ、優れた職人が上質な原石を見つけたときの、喜びに近いものだった。
当然、ACRIとしては、グリンゼニスを引き入れたいと思ったはずである。
空間把握を自然に行える者など、こちらも滅多にいない。
だがサー・ギメリオは、S.S.S.の担当者たちとは決定的に違っていた。
彼はリージラリィ夫妻へ、子どもを「預かりたい」とは言わなかった。
借財の話も、待遇の話も持ち出さなかった。
ただ、静かにこう告げた。
「この子は、いずれ必要な時が来るだろう。だが、それは今ではない。大人になって、自分の意志でACRIへ来たいと願う日が来たら、その時はいつでも扉を開けておこう」
そして彼は、その約束だけを残して去るのではなく、時折リージラリィ邸へ宿泊しては、グリンゼニスへ新しいエリアコントロールを見せ、遊びの延長のような形で基礎を教えた。
押しつけではない。
才能を囲い込むのでもない。
あくまで「道はある」と示すだけで、選ぶのは本人に委ねたのだ。
グリンゼニスはそうして、新しい現象を見るたび目を輝かせた。
だが彼の興味は、力そのものを誇ることには向かなかった。どうしてそうなるのか、何が噛み合うと場が整うのか、人がそこにいると何が変わるのか。彼は現象の構造よりも、その場全体の呼吸のようなものへ敏感だった。
ロエルヴェイトが「見える」ことで世界の境界へ近づいていくのに対し、グリンゼニスは「わかる」ことで場そのものと馴染んでいく。
双子は似た顔をしていながら、向いている世界が少しずつ違っていた。
それでも、兄弟であることは変わらなかった。
ロエルヴェイトは時折、弟があまりにも自然に空間を読む様子を見て、呆れたように言う。
「君は、本当に変なところで勘が鋭いね」
「兄さんにだけは言われたくないよ」
すると二人で顔を見合わせ、どちらからともなく笑う。
その笑い声が屋敷に響くたび、イヴリンは安堵し、リーアンは胸の奥で静かに感謝した。
このまま、どうか。
このまま、二人が二人のままで育ってくれますように、と。
ロエルヴェイトは精神界へ向いた資質を育み、グリンゼニスは領域制御の基盤となる感覚を自然に深めていった。
それぞれの個性はますます明瞭になり、それぞれの特性は周囲の大人たちを驚かせた。
けれど、あの子たちは何より先に、リージラリィ家の息子たちだった。夕食の席で今日の出来事を語り合い、庭を駆け、時に宿泊客へ挨拶し、時に兄弟だけの秘密めいた会話を交わす。
異能は彼らの一部であって、すべてではない。
夫妻はそのことを、何より大切にした。
そうして双子は、それぞれの個性と特性を育まれながら成長していった。
ロエルヴェイトはますます沈着に、グリンゼニスはますます柔らかく。
片や見えざるものに触れ、片や目に見える場の調和を直感する。
その違いはやがて、彼らが歩む道の違いへと繋がっていくのだろう。だが、この頃の二人にとっては、まだそれは「兄さんは少し変わっていて」「弟は少し不思議なくらい勘がいい」という程度の話でしかなかった。
十歳になったとき、双子はもう子どもでありながら、子どもであるだけでは済まされぬところまで来ていた。
特性は隠しようがないほど育ち、周囲の大人たちも、その意味を無視できなくなりつつある。
それでも彼らの日々は、表面上は幸福だった。
家族は揃い、リージラリィ邸には客が訪れ、兄弟は並んで学校へ通い、夕食の席には笑いがあった。
だからこそ、その幸福が永遠ではないことを、誰もまだ本気では信じていなかった。
転換期は、いつも唐突に訪れる。
長く穏やかに続いた日々ほど、その終わりは前触れなく見えるものだ。
双子が十歳になったその年、リージラリィ家の静かな幸福にも、ついに大きな曲がり角が近づきつつあった。
まだ誰も、それが一家の運命をどこまで変える出来事になるのか、知る由もなかったのである。




