第十話 旅の終わり
双子が十歳になった年、リージラリィ家には一つの大きな約束があった。
家族で海を越えること。
イヴリンの生まれ故郷、アメリカ合衆国を訪れること。
それは夫婦が結婚した当初から、いつか必ず果たそうと語り合ってきた願いでもあった。リーアンにとっては、妻が育った土地を自分の目で見ること。双子にとっては、母がどのような空気の中で育ち、どのような街道を見て、どのような人々の言葉に囲まれていたのかを知ること。
家族旅行というには、少しだけ意味の重い旅だった。
出発前夜、リージラリィ邸の食堂はいつもより落ち着かぬ空気に満ちていた。
双子は明らかに浮き立っていたし、使用人たちもまた、主一家が揃って長旅に出るという珍しさにどこかそわそわしていた。厨房では保存の利く軽食が用意され、荷造りを確認する家政婦の声が廊下に響く。談話室には、しばらく不在にする際の細かな引き継ぎ事項が積み上がり、リーアンは最後まで帳簿や連絡表に目を通していた。
それでも、その夜の中心にいたのは、やはりイヴリンだった。
夕食を終えた後、彼女は双子を居間へ呼んだ。
暖炉の火が落ち着き、窓の外ではヨークシャーの夜気が石壁を撫でている。二人の息子は並んでソファへ座り、母の顔を見上げた。明日への期待に目を輝かせているが、母が真面目な話をしようとしているのもわかっている。
イヴリンは二人を見比べ、静かに言った。
「二人とも、これから向かう国は、私が生まれ育った国です」
その声には、普段のやわらかさと、母として譲れぬことを伝える時の強さが同居していた。
「アメリカは、色々な人が集まって作った国なの。色々な文化があって、色々な風習があって、色々な言葉や考え方があるわ」
「うん」
「でもね、決してそれを否定したり、馬鹿にしたりしてはいけません。他人様のお宅に上がっておいて、自分の家とは違うからと文句を言うのは、無礼そのものでしょう?」
「はい、その通りです」
ロエルヴェイトが先に答え、グリンゼニスもそれに続いた。
「人には、人それぞれの物の考え方や生き方があるの。あなたたちには、それを知ってほしい。自分と違うものを見て、すぐに怖がったり見下したりしないで、まずはそういうものもあるんだって受け止めてほしいの」
「「はい、お母さん」」
示し合わせたように二人の声が重なった。
イヴリンは微笑み、それから二人の頭を順に撫でた。
リーアンはその光景を暖炉のそばから眺めていた。妻の言葉は、単なる旅行前の心得ではない。彼女自身の人生から滲み出た信念だった。貧しい労働階級の家庭に生まれ、さまざまな人間を見、喪失を経験し、それでも他者への敬意を失わなかったからこそ言える言葉だ。
双子がそれをどこまで理解したかはわからない。
だが、少なくともその夜の二人は、真剣に母の言葉を受け取っていた。
翌日、空は上々だった。
ヨークシャーを発つ頃には薄い雲が広がっていたが、空港へ着く頃には陽が差し、旅立ちにふさわしい明るさを見せていた。双子は初めての大きな空港に目を丸くし、ロエルヴェイトは整然と並ぶ案内板や人々の流れに見入っていたし、グリンゼニスは窓越しに見える機体の大きさへ素直に感嘆の声を上げていた。
イヴリンはそんな息子たちを見て、時折懐かしそうに笑った。
自分もかつて、この国を出るときは若かった。両親を失い、大学へ戻り、やがて海を越えてイングランドへ渡った。あの時は、未来が希望なのか不安なのかもわからぬまま、とにかく前へ進むしかなかった。
だが今日は違う。
今日は、自分が大切な家族を連れて、かつての故郷へ帰るのだ。
機内では、双子は窓際を交代しながら外を見ていた。
離陸の瞬間、グリンゼニスは思わずリーアンの袖を掴み、ロエルヴェイトはその様子を見て小さく笑ったものの、実のところ自分も座席の肘掛けへ僅かに力を込めていた。高度が安定すれば、あとは長い旅路である。乗客たちはそれぞれ本を開き、新聞を読み、眠り、時折飲み物を口にした。
イヴリンは双子に、アメリカで見せたいものをいくつも語った。
広い道路。街道沿いのモーテル。大きな空。人種も言葉も違う人々が、それでも一つの国の中でせわしなく暮らしている様子。
グリンゼニスは楽しそうに頷き、ロエルヴェイトは質問を挟みながら静かに聞いていた。
そのひとときは、平穏そのものだった。
異変が起きたのは、海上へ出てしばらくしてからだった。
最初は、小さな揺れだった。
乗客の何人かが顔を上げる程度の、どこにでもある揺れ。客室乗務員も落ち着いた声で安全確認を促し、機内はまだ、さほど緊張していなかった。
だが、揺れはやまなかった。
むしろ、じわじわと深く、重くなっていく。
窓の外は灰色の雲に閉ざされ、機体がその中へ飲み込まれるように入っていくと、急に視界が白く濁った。
ロエルヴェイトが、ふと顔を上げた。
見えない何かが、機体の外側をざわつかせている。そんな感覚があったのかもしれない。だが彼が言葉にするより早く、機体は大きく沈み込んだ。
悲鳴が上がる。
荷物棚が震え、何かが床へ落ちる。
グリンゼニスは反射的に兄の手を掴み、イヴリンは二人へ覆いかぶさるように身を寄せた。リーアンはすぐさま片腕で双子を引き寄せ、もう片方でイヴリンを支えようとした。
「大丈夫だ」
そう言ったのが誰だったのか、後になって双子には判然としなかった。父だったのか、母だったのか。あるいは二人とも、同じ意味のことを叫んでいたのかもしれない。
だが、声があった。
恐怖のただ中で、確かに家族の声があった。
次の瞬間、機体は乱気流に翻弄されるように激しく揺れた。
上へ跳ね、横へ振られ、そして、何かが決定的に壊れるような音がした。
世界がひっくり返る。
金属が軋み、誰かの泣き声と祈りの声が混ざり合う。
そして最後に、耳を塞ぎたくなるほどの衝撃が来た。
――海だった。
生存者は、数えるほどしかいなかった。
海上へ墜落した機体は原形を留めず、救助隊が到着したとき、そこに残されていたのは破片と油の匂いと、ひどく静まり返った残骸だけだった。
その中に、双子の兄弟はいた。
決定的な瞬間、リーアンとイヴリンは身を挺して、息子たちを死の衝撃から守ったのである。
それがわかったのは、後の検分によってだった。
父と母の身体は、最後まで子どもたちを庇うように重なっていた。
双子が生き残ったのは、偶然ではない。
両親が命を使って、守り切った結果だった。
ロエルヴェイトが先に目を覚ました。
どれほど時間が経っていたのかはわからない。冷たい匂い、濡れた布の感触、遠くで飛び交う怒号と足音。目を開けても、しばらくは何が起きたのか理解できなかった。
次に、隣でグリンゼニスが身じろぎした。弟はまだ意識が朦朧としていたが、兄の顔を見つけると、か細い声で言った。
「兄さん……」
「グリン」
「お父さんはどこ? お母さんに会いたい……」
その問いに、ロエルヴェイトはすぐには答えられなかった。
見ればわかる。感じればわかる。両親の気配はもう、この場所にはない。だが、それを口に出すことは、自分で現実へ名前を与えることと同じだった。
けれど、その時ロエルヴェイトは覚悟を決めた。
今は自分がしっかりしなければならない。
この前、自分が家を出ることになるかもしれなかった時、家族は自分を手放さなかった。あれがどれほどの救いだったか。自分はここにいていいのだと、家族がいるのだと、はっきり知ることができた。
ならば今度は、自分が弟を一人きりにしない番だ。
彼は唇を震わせながらも、グリンゼニスの手を強く握った。
「グリン、泣かないで。僕がいるよ」
弟の瞳が揺れる。
ロエルヴェイトは続けた。
「家族がいる。僕がいる。お父さんとお母さんが、僕たちを守ってくれたんだ」
その言葉を口にした瞬間、彼自身の中で何かが音を立てて崩れた。
両親はもういない。
だが、その不在を認めることは、同時に、守られた自分たちが生きなければならないことを意味していた。




