第八話 霊的干渉者
ロエルヴェイトの異変が、単なる子どもの空想や一時の思い込みではないのだと、リージラリィ夫妻が確信するまでに、それほど時間はかからなかった。
週末、夫妻は双子を連れてロンドンへ向かった。表向きは「見えているものの正体を、ちゃんと知るため」である。ロエルヴェイトにもグリンゼニスにも、それ以上の不安を与えぬよう、あくまで穏やかな小旅行の延長のように振る舞ったが、リーアンもイヴリンも、その胸の内では固く身構えていた。
訪れたのは、Society of Spirit and Soul――精神と霊魂の学会。通称 S.S.S.。英国が誇る世界的な技能研究機関の一つであり、その名は学界だけでなく一般社会においても広く知られている。ここに籍を置くということは、俗な言い方をすれば、超一流企業に勤めるのとほとんど同義だった。人材の質、研究水準、社会的信用、そのどれを取っても群を抜いている。
当然ながら、そこへ入りたいと願う者は後を絶たない。中には、入所や庇護を得るため、あらかじめ技能を用い、「視えていないのに視えているように振る舞う」小細工を施す者までいるという。
だからこそ、S.S.S.の検査は厳密であり、容赦がなかった。
ロエルヴェイトは、いくつもの試験を受けた。
何も置かれていない空間へ向けて、何が見えるかを尋ねる設問。逆に、霊的な反応を誘うために特殊な環境を用意し、それに対する知覚の有無を測る試験。複数のダミーを混ぜ、どれが真でどれが偽かを見分けられるかを確かめる観察。
幼い子にとっては、どれも息が詰まるような内容だったろう。だがロエルヴェイトは、最初こそ緊張していたものの、試験が進むにつれて、むしろ落ち着きを取り戻していった。自分の見ているものを、そのまま答えればよいだけだと気づいたからかもしれない。
試験官たちは、意図的にブラフも交えた。
あるときは、霊的な反応を一切持たないただの作り物を提示しておき、さも「見える者」ならば何かしら答えられるだろうと誘うような空気を作る。
あるときは逆に、本物の霊的存在に近い痕跡を忍ばせながら、それを見落とす者がどのような言い訳をするかを観察する。
そして一度は、年配の試験官がわざと優しげな声で、こう誘導した。
「君には、こう視えているはずなんだけれどね」
それは明らかな誤答だった。
普通の子どもなら、そこまで断定的に言われれば、自分の感覚よりも大人の言葉を信じてしまうかもしれない。まして相手は、名高い研究機関の試験官である。
だが、ロエルヴェイトはその言葉を聞くと、少しだけ目を見開き、それからどこか安心したように笑った。
「じゃあ、僕は別のものが視えてるんだ」
そう言って、彼は自分の見ているものを、正確に言い当てた。
試験官たちは互いに顔を見合わせた。
そのとき、リーアンは部屋の外で待ちながら、子どもの頃のロエルヴェイトが、誰にも見えないものへそっと道を譲っていた姿を思い出していた。
あれは芝居ではない。
嘘でもない。
この子は本当に、別の何かを見ているのだ。
検査が終わった日の帰り道、ロエルヴェイトはひどく疲れていた。
だが怯えてはいなかった。むしろ、自分がおかしいのではなく、自分には本当に「見えている」のだと、少しだけ納得できたような顔をしていた。グリンゼニスはそんな兄にぴったり寄り添い、時折つまらない冗談を言って笑わせようとしていた。
その様子を見て、イヴリンは胸の奥で小さく祈った。
どうか、このまま家に帰れますように。
検査の結果がどうであれ、この子たちの日常が、壊されませんように、と。
その願いは、半ば叶い、半ば叶わなかった。
後日、S.S.S.から二人の男性がリージラリィ邸を訪れた。
双子の兄弟がまだ学校から戻る前の、午後の程よい時間である。宿泊客たちは各々、周辺の散策に出ているか、談話室で紅茶を飲みながら寛いでいる頃合いだった。外は穏やかな曇り空で、石造りの屋敷には、いかにも英国の午後らしい静けさが流れていた。
応接間へ通された来客は、どちらも仕立ての良いスーツを纏い、物腰も丁寧だった。名刺にはS.S.S.の肩書きが記されている。いずれも高い地位にある人物らしかった。
彼らは前置きを控えめに済ませると、すぐに本題へ入った。
「先日の検査結果ですが、ミスター・リージラリィ、ミセス・リージラリィ。ご子息ロエルヴェイト君には、ほぼ間違いなく霊的干渉者としての技能が備わっております」
覚悟はしていた。
それでも、その言葉を実際に聞かされた瞬間、夫妻は息を呑んだ。
霊的干渉者。
それは単に珍しい、という程度の話ではない。半世紀に一度、生まれるかどうかとまで言われるほどの稀少な資質である。物質界に生きながら、精神界の存在を知覚し、その境界へ触れ得る者。学問的にも、実務的にも、極めて価値が高い。
リーアンは膝の上で手を組み、イヴリンはカップの持ち手へ静かに指を掛けたまま、次の言葉を待った。
「S.S.S.としては、ぜひともロエルヴェイト君をお預かりしたいと考えております」
その一言で、室内の温度がわずかに下がった気がした。
来客はそれに気づかぬふりで、さらに続ける。
「もちろん、ただ引き離すという話ではありません。あの資質は、適切な環境で育てなければなりません。我が国のため、いえ、将来的には世界全体のためにも、大きな意味を持つ存在です。最高峰の教育、最高峰の生活、あらゆる面で不足のない待遇をお約束できます」
「……」
「無論、ただとは申しません。現在のご事情についても、我々はある程度把握しております。リージラリィ邸の借財については、S.S.S.側で全額負担することも可能です」
その瞬間だった。
リーアンは大きな音を立てて立ち上がった。
応接間の空気が一変する。
普段の彼を知る者ならば、信じられない光景だったろう。リーアンがその生涯で激昂した回数は、片手で足りるほどしかない。その数少ない一つが、まさにこの時だった。
「あの子を売るつもりはないっ」
声は低かった。
だが、その低さの奥に、抑えきれぬ怒りが煮え立っていた。
「いえ、ミスタ・リージラリィ、そのつもりでは――」
「同じことだ」
来客の言葉を、リーアンは一刀のもとに断ち切った。
「言葉を飾ったところで、本質は変わらない。君たちは、あの子の才と引き換えに、家の事情へ金を積むと言ったんだ」
「誤解です。我々はただ、最善の環境を――」
「最善を決めるのは、君たちじゃない」
その言い回しは、リーアン自身が最も嫌っていたはずの、旧い家の当主そのものだった。
だが、この時ばかりは抑えられなかった。
自分はヤゼードの子であり、リージラリィの末裔なのだと、嫌でも思い知らされる。守るべきものを前にしたとき、血は理屈を飛び越える。
「お引き取り願おう。それとも、我が剣の錆にしてくれようか。我が一族に対する無礼者を斬ったとあらば、箔も付くだろう」
殺気、と呼ぶほかなかった。
来客たちは一瞬、言葉を失った。
その間に、イヴリンがすっと立ち上がり、夫のそばへ寄った。
「あなた、落ち着いて」
声は穏やかだった。
だが彼女がリーアンの腕へそっと触れたその所作には、自分がここで支えなければ、この人は本当に剣を抜きかねないという覚悟が滲んでいた。
そしてイヴリンは、来客の方へ背を向けたまま、顔だけ静かに振り返った。
「申し訳ありませんけれど、お引き取りくださいませ」
その眼差しは冷たかった。
怒り狂う夫より、むしろその静かな妻の方が、よほど底知れぬ殺意を湛えているように見えた。
S.S.S.の二人はようやく自分たちの失言の重さを悟ったらしく、取り繕うように頭を下げ、足早に退いた。
玄関の扉が閉まったあとも、リーアンはしばらくその場から動けなかった。
肩がわずかに上下している。普段の彼からは想像もつかぬほど、感情が露わになっていた。
イヴリンは応接間の扉を閉め、使用人たちへ「少し席を外します」とだけ告げると、夫を居間へ連れて行った。暖炉にはまだ昼の火が残っている。
そこでようやく、リーアンは力を抜いたように椅子へ腰を下ろした。
「……見苦しいところを見せたね」
「いいえ」
イヴリンは即座に否定した。
「見苦しくなんてないわ。あれは当然よ」
「しかし、私は」
「あなたが怒るのは、守りたいものがある時だけでしょう」
リーアンは俯き、額に手を当てた。
イヴリンは少し待った。言葉を急かさなかった。
やがて彼は、火を見つめたまま口を開いた。
「実を言うとね」
声音は、先ほどの怒声とは別人のように静かだった。
「君が双子を宿していると知った時、私は少し怖かったんだ」
「怖かった?」
「ああ。ちゃんと育ててあげられるだろうか、と。家はまだ立て直しの途中だったし、借財もある。私一人でも精一杯なのに、その上二人の子どもだ。喜びより先に、そんなことを考えてしまった」
イヴリンは黙って聞いていた。
リーアンがこうして弱音に近い本音を口にするのは、決して多くない。
「でも、二人が育っていくのを見ているうちに、その不安は消えた。いや、消えたというより……別のものに変わったのかもしれない。私はあの子たちを、ちゃんと育ててやらなければならないと思うようになったんだ」
「ええ」
「ロエルは賢い子だ。もし手放せば、あの子はそのうち気づくだろう。自分は守られたんじゃない、売られたんだと」
その言葉は重かった。
リーアンは両手を組み、低く続けた。
「あの子も、グリンも、私たちの宝物なんだ。才能があるから価値があるんじゃない。あの子たちだから、大切なんだ。だから私は、この手で育てたい」
イヴリンはそっと頷いた。
そして彼の手に、自分の手を重ねた。
「私も同じ気持ちよ」
「……ありがとう」
「売るものですか。あの子たちは、私たちの息子だもの」
そのとき、玄関の方で賑やかな声がした。
学校帰りの双子が戻ってきたのだ。
実のところ、その少し前、二人の兄弟はスクールバスの中で並んで座っていた。
窓の外には見慣れたヨークシャーの道が流れ、低い空の下、牧草地と石垣が続いている。バスの中では同級生たちの話し声が飛び交っていたが、双子の間にはふと、会話の切れ目が訪れていた。
その静かな隙間に、ロエルヴェイトが口を開いた。
「グリン」
「なに、兄さん?」
「僕、もしかしたら家を出ないといけないかもしれない」
弟はきょとんとした顔で兄を見た。
ロエルヴェイトは年齢の割に妙に理屈っぽく、時折大人びた言い回しをする。
「この前、ロンドンへ検査に行っただろう? あの結果が、そろそろ出ると思うんだ。そして、もし僕が霊的干渉者っていう力を持っているのなら、ちゃんとした場所で教育を受けるべきだって言われたんだ」
グリンゼニスは事情を全部理解したわけではない。
だが、兄が不安になっていることだけはわかった。
だから、彼はいつものように笑って返した。
「大丈夫だよ、兄さん。そうだとしても、僕たちは一緒にいられると思うよ」
根拠はない。
だが、子どもの言う「大丈夫」には、大人が失ってしまう種類の強さがある。
ロエルヴェイトは少しだけ目を伏せ、それから、ほんの僅かに笑った。
「君は、そういうことを平気で言うね」
「だって本当にそう思うもん」
「……うん」
兄はそれ以上何も言わなかった。
バスはそのまま、リージラリィ邸の最寄り停留所へと向かっていった。
帰宅した二人を迎えたのは、いつもより少しだけ強い抱擁だった。
玄関へ入るなり、イヴリンが二人を引き寄せ、続いてリーアンもそっと肩を抱いた。
「どうしたの?」
グリンゼニスが不思議そうに笑う。
ロエルヴェイトはすぐには何も言わず、両親の腕の中で、そのぬくもりの意味を測るように目を瞬かせていた。
イヴリンは二人の頭を順に撫でた。
「これからも一緒よ」
「え?」
「何があっても、あなたたちは私たちの息子だから」
リーアンも静かに言った。
「君たちは、ここで育つんだ。私たちと一緒に」
ロエルヴェイトはそれを聞くと、ようやく表情を緩めた。
グリンゼニスはよくわからないまま、それでも嬉しそうに「うん」と頷いた。
そのときの双子の顔を、リーアンは生涯忘れなかった。
守ると決めた者の顔というものを、人は忘れない。




