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第七話 見えているもの

 ある時から、ロエルヴェイトに、少しずつ奇妙な振る舞いが目立ち始めた。

 最初は些細なものだった。

 廊下の扉を開けたまま、誰かがそこを通るのを待つように立ち尽くしている。客室へ向かう途中で不意に足を止め、空いた空間をやり過ごすように、じっと脇へ寄っている。庭の花壇の前で、植えられた花ではなく、その少し上あたりを見上げていることもあった。

 大人たちは当初、手伝いの真似事か何かだろうと思った。両親や従業員の動きを見て覚え、子どもなりに「誰かのために道を空ける」ような所作を真似しているのだと。

 イヴリンも、最初はそう受け取っていた。

 しかし、どうも様子が違う。

 ロエルヴェイトは遊び半分でやっているのではなく、本気でそこに何かがあると認識しているようだった。

 しかも、その行動は日に日に増えていった。

 異変に最初に強く気づいたのは、弟のグリンゼニスだった。

 ある午後、居間で編み物をしていたイヴリンのもとへ、グリンゼニスがやって来た。

 まだ幼いその足取りには、いつもの快活さよりもためらいが混じっている。何度も後ろを振り返り、誰にも聞かれていないことを確かめるように、母の膝元へ近づいてきた。

 イヴリンは編み棒を置き、すぐにその空気を察した。

 この子は今、兄のことを案じている。

「グリン、どうしたの?」

 できるだけやさしく問いかけると、グリンゼニスは小さな声で言った。

「うん。あのね、兄さんが変なの」

「変というと?」

 そこでグリンゼニスは、学校での出来事を辿々しく語った。

 教室の扉を開けたまま、誰かが入ってくるのを待つみたいに立っていたこと。

 スクールバスを降りた帰り道で、急に足を止めて、何かが通り過ぎるのを待つみたいに動かなかったこと。

 自分が尋ねても、兄はちゃんと答えてくれず、いつものように静かに笑って、話を逸らしてしまったこと。

「僕、兄さんに何をしているのって聞いてみたんだよ。でも、兄さん、ちゃんと答えてくれなくて。ほら、なんていったっけ……はぐらかす? うん、はぐらかすの。兄さんはすごく頭いいでしょ? それで聞けなくて……」

 言葉を探し探し、それでも必死に伝えようとする息子の様子に、イヴリンの胸は締めつけられた。

 グリンゼニスは、自分が怖いのではない。兄が何かを一人で抱えていることを怖がっているのだ。

 イヴリンはその頭をそっと撫でた。

「そう……わかったわ。お母さんに任せて」

「兄さん、怒られない?」

「怒られないわ。心配しているだけよ」

「うん。それならいいんだ」

 グリンゼニスは少しだけ安心したようだったが、完全には晴れない表情のまま、母に身を寄せた。

 イヴリンはその温もりを抱き寄せながら、自分の中に芽生えた不安を見ないふりはできなかった。

 気のせいではない。

 以前から、自分も気づいていたのだ。

 そして今、その違和感が、息子の口から具体的な形を取って自分の前へ現れた。

 その晩、夕食を終えたあとで、ロエルヴェイトは両親のもとへ呼ばれた。

 応接間の扉を開けて入ってきた彼は、落ち着いて見えるよう努めていたが、さすがに緊張しているのがわかった。普段はすました顔の双子の兄も、何を問われるのか不安なのだろう。

 リーアンはいつも以上に穏やかな声を心がけた。

 問い詰めるのではない。

 打ち明けても大丈夫だと、まず伝えなければならない。

「ロエル。少し聞きたいことがある」

「……うん」

「最近、君が時々、廊下や道の途中で立ち止まるって聞いた。誰かのために道を空けてるようにも見えるそうだ。何か理由があるのか」

 ロエルヴェイトはすぐには答えなかった。

 視線が足元へ落ち、指先がわずかに強ばる。

 イヴリンはその横顔を見つめ、胸の内で祈るように息を整えた。

 嘘をついてごまかす子ではない。

 だからこそ、言い出せずにいるのだ。

「怒らないわ」

 イヴリンが静かに言った。

 その一言が、最後の堰を外したらしかった。

「……僕」

 ロエルヴェイトの声は、かすかに震えていた。

「僕、皆が見えていないものが、見えるんだ」

 室内の空気が、しんと静まった。

 暖炉の薪が崩れる音だけが、小さく響く。

「何が見えているの?」

 今度はイヴリンが訊いた。

 可能な限りやわらかく、否定も驚きも混ぜない声で。

 ロエルヴェイトは母を見て、父を見て、それから言葉を探すように宙を見た。

「僕もよくわからない。動物みたいなものもあるし、人っぽいのもある。花壇に植えられてるヒマワリみたいなのもあるし、シャボン玉みたいなのもある。本当に色々ある。でも、皆には見えてないみたいなんだ」

 そこで彼は唇を噛みしめた。

 幼い理知は、もう十分に理解しているのだろう。自分の見ているものが、自分にしか見えていないことを。

 だからこそ、怖いのだ。

「学校でも、家でも、たまにいるんだ。ぶつかったらいけないと思って、待ってるだけなのに……誰も何も言わない。僕だけ、変なのかなって」

 その最後の一言に、イヴリンは堪えきれず、椅子から立って息子を抱きしめた。

 ロエルヴェイトの身体は小さく震えていた。泣き出してはいない。だが、今にも崩れそうなほど張り詰めている。

 この子はどれだけ長く、一人でそれを抱えていたのだろう。

 見えるものを見えると言えず、見えないふりをし、けれど危険だと思えば立ち止まらずにはいられず、そのたびに周囲の視線の意味を考えていたのだ。

 イヴリンは背を撫でながら、何度も大丈夫よ、と囁いた。

「大丈夫。あなたはおかしくなんてないわ」

「でも、皆には見えないんだ」

「それでもよ。見えるからって、悪いことじゃない」

「本当に?」

「本当に」

 ロエルヴェイトはようやく、子どもらしい弱さを少しだけ顔に浮かべた。

 イヴリンはそのまま息子を寝室へ連れて行き、今夜はもう何も考えなくていいと寝かしつけることにした。

 応接間に残されたリーアンは、暖炉の火を見つめながら、長いこと動かなかった。

 思うところが、あった。

 否、思い当たることが、あまりに明確だった。

 物質界と精神界。

 二つの世界は通常、互いに干渉しない。見ることも、触れることも、原則としてできない。だがごく稀に、その境界の向こうを知覚できる存在が生まれる。干渉能力者。

 十年に一体か二体いるかどうかというほどの希少な資質であり、まして民間で発見されることは多くない。

 だからこそ、軽々しく結びつけるべきではない。

 だが、動物のようなもの、人のようなもの、花の姿をしたもの、光の泡のようなもの。

 その語りはあまりにも、精神界の霊的存在の描写に似ていた。

 戻ってきたイヴリンも、夫の表情を見た瞬間に、その考えへ辿り着いたらしかった。

「あなたも、そう思ったのね」

「ああ。まだ決めつけるのは早いけど」

「干渉能力……?」

「その可能性はあると思う」

 イヴリンは椅子の背へ手を置き、深く息を吐いた。

 母としては、息子が狂気ではないとわかっただけで救われる。だが、もし本当に干渉能力であるなら、それはそれで穏やかな話ではない。理解できる者が少ないぶん、本人は孤独を抱えやすく、下手に放置すれば周囲から奇異の目で見られる危険もある。

 正しく調べ、正しく扱わなければならない。

「確かめる必要があるわね」

「ああ」

「ロエルが怖がらないようにしないと」

「そうだな。あの子が一人で抱え込まないようにしてやらないと」

「グリンにも、ちゃんと説明しないと」

「弟は弟で、不安を抱えてる」

 二人はしばらく、火のゆらぎを見つめた。

 夫婦となり、親となってから、こうして同じ不安を前に並んで立つことが増えた。

 嬉しいことも、怖いことも、一人では受け止めきれない。

 だが、二人でなら、少なくとも子どもの前で倒れずにはいられる。

 それが結婚というものなのだと、リーアンは静かに思った。

 翌朝、ロエルヴェイトは前夜ほど硬い表情ではなかった。

 イヴリンが付き添って朝食を取り、グリンゼニスも兄のそばを離れようとしない。弟のその態度を見て、ロエルヴェイトは少しだけ困ったように笑っていた。

 リーアンは二人を庭へ連れ出し、まだ朝露の残る芝の上を並んで歩いた。

「君が見ているもののこと、ちゃんと考えようと思う」

「僕、変だから?」

「違う」

 リーアンはきっぱりと言った。

「変だからじゃない。君が見ているものが何なのか、ちゃんと知るためだ。知らないまま一人で抱える方が、ずっとよくない」

「……」

「世の中には、珍しい力を持って生まれる人間もいる。もし君がそうなら、それは怖がることじゃない。ただ、正しく知る必要がある」

「お父さんたちは、嫌じゃない?」

「まさか」

 その言葉には、一点の偽りもなかった。

 ロエルヴェイトはその顔をしばらく見つめ、それから小さく頷いた。

 横で聞いていたグリンゼニスが、ほっとしたように兄の袖を掴む。

「兄さん、大丈夫だよ。僕もついてく」

「君は関係ないだろ」

「あるよ。兄さんのことだもん」

「……そういうところ、君は本当に変わらないね」

「変じゃないよ」

 むっとして言い返す弟に、兄はようやくいつもの調子で薄く笑った。

 それを見て、リーアンとイヴリンは目を合わせた。

 不安は消えていない。

 むしろ、ここからが本当の始まりなのだろう。

 けれど少なくとも、この子は一人ではない。

 その事実がある限り、どんな異質も、恐怖だけで終わらせはしない。

 ロエルヴェイトは、自分にしか見えない何かを見ていた。

 グリンゼニスは、そんな兄の異変をいち早く案じていた。

 そして両親は、ようやくそれを見過ごさずに受け止めた。

 双子の兄弟がただよく似た子どもたちではなく、それぞれに異なる運命の入口へ立っていることを、リージラリィ家はこのとき初めて知ったのである。

 ヨークシャーの夜は深く、石造りの屋敷はいつもと変わらず静かだった。

 だが、その静けさの奥では、まだ名も与えられていない運命が、確かに動き始めていた。

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