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第五話 約束の帰還

 イヴリンの滞在期間は、驚くほどあっという間に過ぎた。

 研究は順調に進み、彼女は必要な資料を集め、職員たちからの聞き取りも終えた。最終日には、食堂の隅でささやかな送別の夕食が開かれ、料理長が腕によりをかけたローストと、庭園のハーブを使ったスープが振る舞われた。職員たちも彼女の人柄を気に入り、別れを惜しんでいた。

 イヴリンは最後まで朗らかに振る舞っていたが、どこか寂しそうでもあった。

 それが単なる旅の終わりへの感傷なのか、リーアンにはわからない。

 だが、明日になれば彼女はここを去る。

 もう二度と同じ時間は戻らない。

 そう思ったとき、彼はようやく腹を括った。

 出立の朝は、薄曇りだった。

 荷造りを終えた鞄が玄関脇に置かれ、迎えの車が来るまで、あとわずかという時間。

 イヴリンは広間を見渡しながら、名残惜しそうに笑った。

「本当に、素敵なお屋敷でした。研究対象としてだけじゃなくて……私、ここが好きです」

「ありがとうございます。あなたにそう言ってもらえると、報われます」

「帰ったら、論文を仕上げます。きっと良いものにします」

「楽しみにしています」

 それで終わるはずだった。

 礼儀正しく見送り、彼女が去ったあとで、一人きりの廊下に立ち尽くせばよかった。

 そうすれば、誰も傷つかない。

 だが、リーアンはもう一歩だけ前へ出た。

「イヴリン」

「はい?」

 振り向いた彼女の目を、今度は逸らさなかった。

 胸の鼓動は、青年のころよりよほど大人びたはずの身体に不釣り合いなくらい速い。

 それでも言葉は、思いのほか静かに出てきた。

「あなたがここへ来てから、私は毎日、あなたのことばかり考えていました」

 イヴリンの表情が、わずかに変わった。

 驚きだろうか。緊張だろうか。

 リーアンは続けた。

「最初は、聡明な学生だと思いました。次に、仕事に誠実な人だと思った。そして、もっと知りたいと思うようになりました。あなたの言葉も、考え方も、笑い方も……この家で過ごすあなたの姿も。私は、あなたに惹かれています」

 言ってしまえば、もう後戻りはできない。

 彼は一息置き、あえて最も言いにくいことを口にした。

「私はあなたより年上ですし、立派な身分でもありません。経営だって、順調に見えるだけで危ういところがあります。だから、あなたを困らせるだけではないかと、ずっと迷っていました。ですが、黙ったまま見送る方が、私にはもっと不誠実に思えた」

 広間は静まり返っていた。

 外で風が木々を鳴らす音だけが聞こえる。

「返事を急がせるつもりはありません。ただ、知っていてほしかった。私は、あなたを愛しています」

 最後の一言を言い終えた瞬間、リーアンは自分がどれほど長く息を止めていたかに気づいた。

 イヴリンはしばらく黙っていた。

 その沈黙は永遠のようにも、ほんの一瞬のようにも感じられた。

 やがて彼女は、ゆっくりと歩み寄った。

 その瞳には涙はなく、代わりに澄んだ強さが宿っていた。

「私、ずっと思っていました」

 声は静かで、だが震えてはいなかった。

「あなたはきっと、何かを言おうとして、でも言わない人なんだろうって」

「……」

「だから、今、言ってくださって嬉しいです。とても」

 リーアンは息を呑んだ。

 イヴリンは少しだけ照れたように笑った。

「私も、あなたが好きです。最初は研究対象として尊敬していました。でも、それだけじゃなくなった。ここにいると、安心したんです。あなたがいるから」

「イヴリン……」

「でも、まだ私は学生です。卒業を中途半端にしたくありません。ここへ戻るなら、胸を張って戻りたい」

 そこで彼女は、真っ直ぐに言った。

「卒業したら、リーアンと、このリージラリィ邸のもとへ戻ってきます。約束します」

 その約束は、軽い恋の言葉ではなかった。

 未来を、互いに引き受けるための宣言だった。

 リーアンは頷いた。

 声にすれば、何かが壊れてしまいそうだったから、ただ、深く。

 それからの半年は、長かった。

 リーアンはいつも通り働いた。朝には仕入れを確認し、昼には宿泊客と挨拶を交わし、夜には帳簿に向かった。庭の管理、職員の配置、新しい季節企画の準備、修繕の打ち合わせ。日々は絶えず続く。

 だが、その日々の底に、確かな待機があった。

 彼女は本当に戻ってくるだろうか。

 約束を守らせる義理など、自分にはない。若い彼女には、これからいくらでも別の人生があり得る。もっと華やかな就職口も、もっと相応しい相手も、いくらでもいるだろう。

 そう考えるたび、期待する自分を戒めた。

 けれど、期待を捨てることもできなかった。

 半年後の午後。

 冬の名残がまだ空気に残るころ、玄関先に一台の車が止まった。

 扉が開き、一人の女性が降り立つ。

 以前より少しだけ大人びた面差し。旅装は変わらず実用的だが、立ち姿には迷いがなかった。手には小さな荷物と、厚みのある封筒。

 イヴリン・カーティスだった。

 彼女は玄関前の石段を上り、扉を開けたリーアンを見ると、晴れやかに笑った。

「ただいま戻りました、ミスター・リージラリィ」

「……お帰りなさい、ミス・カーティス」

 そう返した直後、二人とも少しだけ笑ってしまった。

 よそよそしい。

 半年越しの再会にしては、あまりにも。

 イヴリンは封筒を差し出した。

 中には卒業証明と、製本された論文の写しが入っていた。表紙には、流麗な文字で題名が記されている。

 Regilary Manor House: Adaptive Heritage Hospitality in Yorkshire

 その下には、Evelyn Curtis の名。

「約束を果たしに来ました」

「ええ」

「ここで働かせていただけますか。できれば、長く」

「こちらこそ、お願いします」

 リーアンがそう言うと、イヴリンは安堵したように目を細めた。

 その瞬間、リージラリィ邸の古い玄関広間に差し込む午後の光が、ひどく明るく感じられた。

 遠いアメリカからの賓客は、もはや一時の客ではなかった。

 この家に新しい風を運び、その未来へ自らの足で入ってくる人だった。

 没落から立ち直ったリージラリィ家は、この日、また一つ新しい意味で再生したのである。

 それは単に経営が軌道に乗ったという話ではない。

 過去を守るためだけに残っていた家が、誰かの未来を迎え入れる場所になった、ということだ。

 ヨークシャーの空は相変わらず曇りがちで、風も冷たい。

 だが、その石造りの屋敷の中には、確かに新しい春が訪れていた。

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