第四話 海外からの賓客
マナーハウス・リージラリィ邸がヨークシャーの名所として定着しはじめて、十年余りが過ぎていた。
十年という歳月は、長いようでいて短い。
当初は屋敷を宿泊施設にするなど酔狂だと陰口を叩いていた近隣の者たちも、今では週末になると表玄関へ並ぶ馬車や自動車を見て、それをこの土地の新しい日常として受け入れている。広間は食堂として賑わい、荒れていた庭園は四季折々の草花で彩られ、かつて閉ざされていた書庫には土地の歴史を調べる者たちが訪れるようになった。
経営は決して盤石ではなく、借財も未だ消えてはいない。それでも、少なくともリージラリィ邸はもう、滅びを待つだけの家ではなかった。
その年の初夏、リーアン・リージラリィは一通の手紙を受け取った。
見慣れぬ外国切手の貼られた封筒で、差出人の名はイヴリン・カーティス。アメリカ合衆国、ニューヨーク州イサカ所在、コーネル大学在籍とある。
リーアンはその名に覚えがなかったが、整った筆記体で宛名を書いた丁寧な封筒に、自然と指先の力を緩めた。
封を切ると、中には便箋が三枚。すべて手書きだった。
そこには、自身がホテル経営学を専攻する学生であり、古い地方邸宅を再生して宿泊事業へ転用した事例としてリージラリィ邸に強い関心を持ったこと、できるなら卒業研究の一環として現地に滞在し、運営方針や地域連携、施設設計の変遷などを取材させてほしいことが、誠実な文体で綴られていた。
文章は若々しいが、軽薄ではない。質問の一つひとつも具体的で、単に古い屋敷に憧れているのではなく、本気で学問として調べようとしているのが伝わってきた。
リーアンは二度読み返し、三度目には思わず微笑していた。
「手書きの手紙なんて、ずいぶん久しぶりだ」
独り言のように呟き、彼は窓辺に目をやった。
今どき、こうした依頼なら電子端末で済ませる者が多い。だが、あえて便箋を選び、海を越えて時間をかけて届く方法を取った。その手間そのものに、相手の人柄が滲んでいるように思えた。
リーアンはその日のうちに返事を書いた。
歓迎します。
滞在の希望日程、研究に必要な設備、面談を希望する職員の範囲などを知らせてください。こちらでできる限り協力しましょう、と。
それから二か月後、イヴリン・カーティスはリージラリィ邸を訪れた。
アメリカからの賓客、と聞いて、リーアンは勝手にもっと華やかな人物を想像していた。大柄で快活で、いかにも異国から来た才女という風情の女性を。
だが、玄関先に立っていた若い女学生は、思っていたよりずっと静かな印象だった。
栗色の髪を後ろでまとめ、旅装は機能的だが品がある。余計な装飾はなく、立ち居振る舞いには学生らしい初々しさと、場に応じて身を整える習慣の良さとが同居していた。瞳は澄んだ青灰色で、相手の顔をまっすぐに見て話す。その眼差しには気後れも媚びもなく、けれど不思議なほど柔らかさがあった。
「はじめまして、ミスター・リージラリィ。お目にかかれて光栄です。イヴリン・カーティスです」
「ようこそ、リージラリィ邸へ。長旅でお疲れでしょう」
握手を交わした、その瞬間だった。
リーアンは、まるで自分の内側のどこかを、まっすぐに射抜かれたような気がした。
後から考えれば、それは一目惚れと呼ぶしかなかった。
だが、当の本人はその場でそんな言葉に思い至るほど若くも無邪気でもない。
ただ、困ったことになった、と思っただけだった。
イヴリンは滞在初日から、驚くほど熱心だった。
朝は早く、食堂の仕込みが始まる前に厨房へ顔を出し、食材の搬入経路や地元農家との契約内容を尋ねる。昼には客室の管理台帳や改装前後の図面を見せてほしいと頼み、夕刻には給仕の動線や予約管理の実務についてメモを取る。夜は書庫に籠もって、リージラリィ邸が地域の歴史資源としてどう機能してきたかを古い資料と照らし合わせていた。
わからぬ点はそのままにせず、だが無遠慮でもない。質問はよく考えられており、単なる知識欲ではなく、「なぜこの屋敷は生き延びたのか」という核心を掴もうとしているのがよくわかった。
「あなたは、古いものを保存したのではなく、役目を与え直したんですね」
書庫の窓際で、彼女はノートを閉じながらそう言った。
夏の陽が斜めに差し込み、机に置かれたインク壺の縁を光らせている。
「そう言えるかもしれません。保存だけでは、結局、死蔵になってしまいますから」
「でも、それが一番難しいんです。ただ商業施設にしてしまえば、歴史は装飾になる。逆に保存を優先しすぎれば、客は不便さだけを持ち帰ることになる。その均衡を取るのは、とても高度な判断だと思います」
「買いかぶりです。必要に迫られてやっただけですよ」
「必要に迫られても、できない人の方が多いです」
彼女はさらりと言った。
褒め言葉を飾り立てないところに、かえって真実味があった。
リーアンは返答に困り、資料を揃えるふりをして視線を逸らした。
イヴリンは聡明だった。
しかも、その聡明さを誇示しない。こちらの説明を真剣に聞き、理解した上でさらに一段深く問うてくる。思いつきで話を飛ばすことはなく、相手の仕事や土地の事情に敬意を払っていた。
何より、彼女はリージラリィ邸そのものではなく、そこに関わる人々を見ていた。
料理長、庭師、客室係、近隣農園の主人、修復工房の職人、町の案内役を務める老婦人。彼女は誰と話すときも態度を変えず、相手の仕事を面白がるように耳を傾けた。その様子を見て、リーアンは彼女がただ良い大学に通う優秀な学生なのではなく、人の営みそのものに誠実な人間なのだと知った。
だからこそ、惹かれた。
そして、だからこそ、踏み込めなかった。
年齢差がある。
自分はもう若くない。リージラリィ邸の経営は軌道に乗ったとはいえ、なお借財を抱え、明日何が起きても不思議ではない綱渡りの上にある。大学で学んだとはいっても名門ではなく、彼女のようにホテル経営学を体系的に修めたわけでもない。
この聡明なアメリカ娘にとって、自分は調査対象の管理人以上の何者でもないのではないか。そう考えるたび、胸の奥が静かに痛んだ。
そんな折、リーアンは一つ気になることを覚えた。
イヴリンの腰元である。
初めて会った日から、彼女のベルトの下に革製のガンホルスターが装着されているのを、彼は見逃していなかった。上着やスカートに隠れるよう配慮されてはいるものの、長く人を見てきた彼の目は誤魔化せない。
イングランド本土では、拳銃の携帯は厳しく制限されている。まして宿泊施設に滞在する若い女学生が、護身用とはいえ実銃を帯びているなど、通常ならあり得ない。
だが、例外があった。
それがメドルである。
一定の資格と登録を有し、技能研究機関において力量が認められた技能者は、条件を満たすことで携行型メドルの国際携帯を許可される。技能研究機関と一口に言っても、その性格はさまざまだ。純粋に技能理論の研究や発展を目指す学術組織もあれば、世界共通語の整備を進める言語機関もある。自然環境保護を掲げる団体や、宗教を母体とした修道会のような組織まで含めれば、その裾野は広い。
いずれにせよ、イヴリンがその携帯を許されているのだとすれば、彼女はどこかしらの技能研究機関に属し、公式に認められた「技能者」であるということになる。
だが、あまりにも個人的なことを詮索するようで、リーアンは尋ねあぐねていた。
その日の午後、二人は裏庭に面した東棟の回廊で話していた。
調査の合間、紅茶を飲みながら、アメリカと英国の宿泊業の違いについて語り合っていたときのことである。
イヴリンがふと、こちらの視線の動きに気づいたらしい。くすりと笑って、腰に手を添えた。
「この拳銃が気になりますか?」
「……はい、実は。失礼かと思って、聞けずにいました」
「失礼ではありませんよ。気になりますよね、ここでは特に」
彼女はそう言うと、驚くほど自然な所作でホルスターから拳銃を抜いた。
銃口は決してこちらへ向けない。だが、抜き動作そのものは一瞬だった。素人の遊びではない。慣れている。
鈍い光沢を放つその拳銃は、実銃の構造を模しながらも、細部の意匠がどこか異質だった。銃身の脇に刻まれた細い溝、引き金の根元に埋め込まれた石片めいた部位、握りの裏面に施された複雑な紋様。メドルだとわかる者には、一目でわかる造りだった。
「それは……やはりメドルですか」
「ええ、そうです。私、こう見えて射撃が得意なんですよ」
からりとした口調だった。
だが、その明るさには、ことさらに軽く言おうとする響きがあった。
「本当は武器なんて持たない方がいいんですけど、本国は物騒なものですから」
「確か、お生まれはミシシッピ州でしたね」
「ええ。田舎町です。今でこそ少しは落ち着きましたけど、私が子どもの頃は、あまり治安のいい場所じゃありませんでした」
イヴリンは拳銃を膝の上に置き、しばらくそれを眺めていた。
窓の外では、初夏の風が芝を渡っている。
リーアンは急かさず、ただ彼女の次の言葉を待った。
「私、労働階級の生まれなんです」
彼女は静かに語り始めた。
父も母も、街道沿いの小さなモーテルで住み込みで働いていたこと。帳場も掃除も、ベッドメイクも、厨房の手伝いも、繁忙期には何でもしたこと。イヴリン自身も幼いころから仕事を手伝い、学校へ通いながら、疲れた両親の背中を見て育ったこと。
だからこそ、大人になったら両親にもっと楽をさせてあげたいと思った。
そのために、ホテル経営学を学ぼうと決めた。
貧しい家の娘が、アイビーリーグに名を連ねるコーネル大学を目指すなど無謀だと何度も言われたけれど、どうしても諦めきれなかったこと。
努力の末に進学が叶い、ようやく夢の入口に立った、その半年後だった。
「モーテルで、ギャング同士の銃撃がありました」
彼女の声には、もはや説明のための抑揚しかなかった。
感情を挟めば、それだけで言葉が壊れてしまうのかもしれなかった。
「流れ弾でした。父も母も、その場で」
リーアンは息を呑んだ。
返す言葉が見つからないまま、彼女の横顔を見ることしかできない。
「それで私は、大学を休学して、しばらく何もできなくなりました。部屋と射撃場を往復して、ただ銃を撃っていました。何かを撃っていないと、自分まで空っぽになってしまいそうで」
「……」
「でも、ある日ふと思ったんです。私は何のためにそこまでして大学へ入ったんだろうって。両親に楽をさせてあげたかったからでしょう。だったら、もう誰もいないからって、その夢まで捨てたら、きっと二人がかわいそうだって」
そこで初めて、彼女は少しだけ笑った。
その笑顔は、先ほどまでの説明口調よりも痛々しかった。
「ごめんなさい。身の上話なんて」
リーアンは口を開き、そして閉じた。
慰めの言葉は安すぎる気がした。わかったような顔をするのも違うと思った。
結局、彼はひどく不器用な返事しかできなかった。
「……話してくれて、ありがとうございます」
それだけだった。
だが、イヴリンは責めるような顔をせず、小さく頷いた。
「こちらこそ。聞いてくださって」
その日以降、リーアンの心は一層深く乱された。
彼女に惹かれている。
もう、その自覚から目を逸らすことはできなかった。
だが、彼女の過去を聞けば聞くほど、自分が軽々しく想いを告げることが卑しく思えた。彼女は努力の果てに学び、喪失の中から立ち上がり、自分の足で未来を掴み直そうとしている。そんな彼女の前に、借財を抱えた地方マナーハウスの経営者が立って、愛だの結婚だのと口にしてよいものか。
まして、自分は彼女よりずっと年上だ。
もし断られれば、それは仕方がない。
だが、研究対象の管理人からそう告げられること自体が、彼女を困らせるのではないかと思うと、足が竦んだ。
リージラリィ家では、嫡男が成人すると、父の名を冠した長剣を贈られるのが古い慣例だった。
リーアンが受け継いだ剣は、ヤゼードソードと呼ばれている。父ヤゼードの名を負ったその剣は、過剰な装飾こそないものの、古い鋼の気品と、実用のために鍛えられた重みとを併せ持つ名剣だった。
リーアンは温厚な人柄からは意外がられることも多いが、剣術の腕は一級品である。幼いころから歴代当主として必要な技を叩き込まれ、その基礎は大学時代も、屋敷再建の多忙の中でも錆びることはなかった。
その夏の夜ごと、彼は裏庭でその剣を振った。
月明かりの下、白い息の代わりに草の匂いを吸い込みながら、一人で型をなぞる。
袈裟、胴、払い、返し。
踏み込み、捌き、退き、また斬る。
剣を振るうことは、彼にとって怒りを放つ行為ではない。むしろ、乱れた心を一本の線に戻していくための営みだった。だが、その夜ばかりは違った。
彼は迷いを断ち切りたかった。
剣先に宿る風の震えと、足裏に伝わる土の感触だけを信じて、自分の中に渦巻く臆病さと向き合おうとしていた。
「名を汚すな。リージラリィの栄光を取り戻すのだ」
不意に、父の最期の言葉が脳裏を過った。
あれほど反発した言葉が、今は別の意味を帯びて迫ってくる。
栄光とは何か。
家を守るとは、どういうことか。
名に恥じぬ生き方とは、過去に縛られることではなく、自分にとって大切なものを恐れず選び取ることではないのか。
リーアンは剣を振り下ろし、静かに息を吐いた。
そうだ。
臆病でいることが誠実なのではない。
本当に誠実でありたいなら、相手を困らせぬ形で、しかし自分の想いから逃げてはならないのだと。




