第9話 関係権限
第9話です。
黒い獣の騒ぎが収まらない広場。セナとユイは、兄からの連絡を確かめたあと、もう一度あの森の脇道へ向かいます。
訓練場から戻ると、広場は、いつもと違う空気に包まれていた。
広場に立ち込める空気は、いつもの賑わいとは、明らかに違っていた。人々の会話には、興奮と、隠しきれない不安が入り混じっている。
「昨日の黒いやつ、結局何だったんだ」
「運営、公式発表まだかよ」
「バグなら早く直せって話だよな」
あちこちで、昨夜の一件についての話題が交わされている。俺は、その中を通り抜けながら、耳を澄ませた。誰も、正確なことは分かっていない。ただ、街中にモンスターが出現するという、これまでになかった異常事態が、確かに人々の記憶に刻まれていた。
「セナさん!」
声に振り向くと、ユイが小走りに駆けてきた。
「クロウさんとのお話、終わったんですね。大丈夫でしたか」
「ああ、問題ない。それより、昨日の獣の話、聞いたか」
「はい。掲示板、すごい騒ぎになってます。運営から、まだ何の説明もないみたいで」
ユイが、メニュー画面を開いて見せてくれた。攻略掲示板には、昨夜の出来事についてのスレッドが、いくつも立っている。目撃者の証言、動画のリンク、様々な憶測。だが、決定的な情報は、どこにもなかった。
スレッドの中には、動画のサムネイルが貼られたものもあった。俺は、それを開くことはしなかった。あの夜の光景は、もう十分に、この目に焼き付いている。
「セナさん、あの獣って、いつもの残響と、何か関係あるんでしょうか」
「分からない。ただ、質が違った。これまで見てきた残響は、大人しく過去を再生してるだけだった。あの獣は、違う。何かが、無理やり実体を保とうとしてるみたいだった」
俺は、白紙の書に手を置いた。あの夜の感覚が、まだ、指先に残っている気がした。
「お兄ちゃんから、何か新しいメッセージは……」
ユイの声が、少し小さくなった。俺は、彼女がそれを聞くまでに、どれだけの覚悟を積んでいるか、なんとなく分かった。
「まだ、確認してないのか」
「怖くて。もし、また変な感じだったら……」
俺は、その怯えを、頭ごなしに否定するつもりはなかった。誰かの生死に関わる通知を、平気な顔で開ける人間の方が、むしろ珍しい。
俺は、少し考えてから言った。
「一緒に確認するか」
ユイは、しばらく迷った後、小さく頷いた。震える指で、メニュー画面を開く。フレンドリストの中、蒼太の名前の横には、変わらず「オフライン」の表示があった。新しいメッセージは、届いていない。
「……何も、ないですね」
その声には、安堵と落胆が、同時に滲んでいた。俺は、それ以上、何も言わなかった。ただ、彼女の隣に、しばらく立っていた。
こういう瞬間、うまく言葉をかけられない自分が、少しもどかしかった。慰めの言葉なんて、いくらでも思いつく。だが、それを口にしたところで、彼女の抱えているものが、軽くなるとは思えなかった。だから、ただ、隣にいることしかできなかった。
---
「今日は、どうする」
俺が聞くと、ユイは、少し考えてから言った。
「あの森、もう一度行ってみたいです。獣が出た夜、白紙の書があんなに反応したのは、あの場所と関係あるんじゃないかって、ずっと思ってて」
俺も、同じことを考えていた。街中に出現した獣。あの場所で見た輪郭。二つの間に、何か繋がりがあるのかもしれない。
「行こう」
広場を出て、街道を歩く間、行き交うプレイヤーたちの表情にも、どこか落ち着かない空気が漂っていた。誰もが、昨夜の異常事態を、まだ消化しきれずにいるようだった。
森までの道すがら、ユイは、いつもより口数が少なかった。俺は、それを咎めることなく、彼女のペースに合わせて歩いた。
「セナさん」
しばらくして、ユイが、ぽつりと口を開いた。
「お兄ちゃんが、もし、もう元のお兄ちゃんじゃなかったら、私、どうすればいいんでしょうか」
その問いに、俺は、すぐには答えられなかった。想像したことがなかった問いじゃない。だが、答えを持っているわけでもなかった。
「分からない。だが」
俺は、言葉を選びながら、続けた。
「元の形じゃなくても、お前が大切に思う気持ちが本物なら、それは、無意味にはならない気がする。シオンが言ってたことも、多分、そういう話だ」
ユイは、俺の言葉を、しばらく噛み締めるように黙っていた。それから、小さく微笑んだ。
「セナさんは、時々、変に優しいこと言いますよね」
「褒めてるのか、それ」
「もちろんです」
その軽いやり取りに、俺は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。重い話ばかりでは、お互い、いつか潰れてしまう。こういう瞬間も、大切にしなければいけない気がした。
しばらく無言で歩いた後、ユイが、ふと足を止めて、道端に咲く名も知らない花を見つめた。
「セナさん、この花、綺麗ですね。ゲームの中なのに」
「開発の誰かが、丁寧に作ったんだろうな」
「私、こういう景色、お兄ちゃんにも見せたかったです。実際に隣で、一緒に」
その言葉には、後悔と、まだ諦めきれない願いが、同時に滲んでいた。俺は、何も言わず、ただ、彼女が花を見つめる横顔を、少しの間、見ていた。
---
森の入り口に着く頃には、日差しが、木々の隙間から柔らかく差し込んでいた。あの日、輪郭がこちらを振り向いた時の張りつめた暗さとは、まるで違う表情の森だった。
森に着くと、いつもの脇道へ向かった。だが、今日は、様子が違った。
脇道に踏み込んだ瞬間、白紙の書が、これまでにない強さで反応した。震えというより、脈打つような、はっきりとした振動だった。
「セナさん、これ……」
「今日は、いつもと違う」
俺たちは、慎重に、あの開けた場所へ向かった。
脇道の先、開けた場所に足を踏み入れると、空気の密度そのものが、これまでと違って感じられた。まるで、何かが、こちらの訪れを、待ち構えていたかのように。
そこには、輪郭が、待っていたかのように立っていた。だが、今日は、これまでで一番、はっきりとした形をしていた。若い男の輪郭。着ている服の質感、髪型、体格。俺は、その全てを、目に焼き付けようとした。
「見えるのか、今日は」
俺の問いに、ユイは、驚いた顔をした。
「え……はい、少しだけ、輪郭みたいなものが」
彼女の目にも、何かが映り始めている。これまでとは、明らかに違う変化だった。
ユイが、俺の腕を、無意識にそっと掴んだ。指先が、微かに震えている。それでも、彼女は、目を逸らさなかった。
輪郭が、ゆっくりと、こちらへ近づいてきた。今日は、怯えるような気配はなかった。俺は、白紙の書を握りしめた。この距離まで来ても、まだ、記録すべきか、迷いがあった。
「……教えてくれ」
俺は、静かに言った。
「お前は、誰だ」
輪郭は、答えなかった。ただ、その視線が、俺からユイへと、ゆっくり移っていくのが分かった。ユイが、息を呑んだ。
時間が、やけにゆっくり流れているように感じられた。木々のざわめきさえ、遠くに聞こえる。世界の中で、この一点だけが、静かに切り取られているような感覚だった。
「お兄……ちゃん?」
震える声だった。輪郭は、それに応えるように、微かに、頷いたように見えた。だが、確信は持てなかった。輪郭も、声も、まだ、はっきりとは伝わってこない。
その瞬間、白紙の書が、これまでにない光を放った。ページが、勝手に開き、文字が浮かび上がる。
『関係権限:更新中……』
観測権限の時と同じ、進捗を示す表示だった。だが、今回は、明確に「関係」という言葉が、そこにあった。
「セナさん、これ……」
「……お前が、ここにいるからだ」
俺は、その表示を見つめながら、シオンの言葉を思い出していた。誰かと、同じものを大切に思うこと。それが、権限を満たす条件の一つだと、彼女は言っていた。今、目の前で、それが、確かに形になろうとしている。
輪郭は、それ以上何も告げず、静かに、粒子となって消えていった。だが、今日の消え方は、これまでとは違った。慌ただしさも、拒絶するような気配もなかった。まるで、満足したかのような、穏やかな消え方だった。
「セナさん、今の、お兄ちゃんだったんでしょうか」
ユイの声は、震えていた。俺は、慎重に言葉を選んだ。
「断定はできない。だが、お前の存在が、何かに影響したのは、確かだ」
ユイは、しばらく、その場に立ち尽くしていた。それから、両手で顔を覆った。声を殺すように、肩が震えている。俺は、何も言わず、ただ、彼女の隣に立っていた。
木漏れ日が、彼女の震える肩に、まだらな影を落としていた。俺は、慰めの言葉を探したが、どんな言葉も、今の彼女には、軽すぎる気がした。だから、ただ、その場に留まることだけを選んだ。
しばらくして、ユイが、顔を上げた。目は赤かったが、その表情には、これまでにない強さが宿っていた。
「セナさん、私、決めました」
「何をだ」
「怖くても、逃げないで、ちゃんと最後まで確かめます。お兄ちゃんが、どんな形になっていても」
その言葉には、迷いがなかった。俺は、彼女のその覚悟に、何と応えればいいか、少し考えた。
「一人で背負う必要はない。俺も、一緒に確かめる」
ユイは、小さく頷いた。それから、いつもの明るい笑顔を、少し無理をして作った。
「ありがとうございます、セナさん」
森を出る前、ユイは、もう一度、あの開けた場所を振り返った。何も見えない、ただの木漏れ日の空間だ。それでも、彼女の表情には、確かな何かを掴んだ実感が浮かんでいた。
俺たちは、森を出た。日は、まだ高い位置にあった。白紙の書のページには、新しい表示が、静かに残っていた。
『観測権限:充足』
『関係権限:更新中……』
二つの権限が、同時に動き始めている。何が完了の条件なのか、まだ分からない。だが、確かに、俺たちは、少しずつ、前に進んでいた。
『まだ、間に合う』
あの言葉の意味に、今日、また一歩、近づいた気がした。
第9話を読んでいただき、ありがとうございました。
「お兄……ちゃん?」という問いに、輪郭は頷いたように見えました。答えはまだ出ていません。それでもユイは、最後まで確かめると決めました。
次話、セナとユイは、あの日開かなかった扉の前に、もう一度立ちます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




