第7話 仮許可
第7話です。
図書館からの帰り道、夜の広場に、街中には現れるはずのないモンスターが出現します。久々の戦闘回です。
夜の広場を歩き続けていた時だった。
前方から、悲鳴のような声が上がった。何人かのプレイヤーが、慌てた様子で走ってくる。
「なんだ?」
喧騒は、みるみる大きくなっていった。露店の商人たちが、慌てて品物を片付け始めている。何人かのプレイヤーが、武器を構えたまま、後退してくる。
俺は、足を止めた。ユイも、俺の隣で身構える。
「モンスターだ! 街中に出た!」
「初めて見る個体だ、気をつけろ!」
走ってくるプレイヤーたちの声が、次々と耳に飛び込んでくる。街中にモンスターが出現するのは、通常ではあり得ない。何らかのバグか、あるいは、もっと別の理由か。
俺は、白紙の書に手をかけた。震えは、まだ収まっていない。むしろ、さっきよりも強くなっている気がした。
「セナさん、行くんですか」
「様子だけ見る。危なそうなら、すぐ退く」
俺たちは、悲鳴の方向へ、慎重に近づいた。
広場の外れ、露店の並びが途切れる辺りに、それはいた。
黒く歪んだ、獣とも呼べない何か。輪郭が、絶えず揺らめいている。プレイヤーの攻撃が当たっても、まともにダメージが通っている様子がない。周囲には、腰を抜かした低レベルプレイヤーが数人、逃げ遅れていた。
トップランカーらしき数人が、遠巻きに武器を構えているが、誰も決定打を打てずにいた。攻撃が当たっているように見えても、その瞬間、獣の輪郭がノイズのように歪み、ダメージそのものが「なかったこと」にされているように見える。まるで、通常の物理法則が、この一体だけ通用していないかのようだった。
「あれは……」
俺は、目を凝らした。輪郭の揺らぎ方に、見覚えがあった。残響と、同じ質感だ。だが、これまで見てきたどの残響とも違う。もっと、剥き出しで、荒々しい。まるで、削除されかけたデータが、無理やり実体を保とうとしているような、不安定な存在感だった。
「セナさん、これも、残響なんですか」
「多分な。ただ、これまで見た中で、一番、状態が悪い」
俺は、白紙の書を開いた。ページに残った、これまでの記録の断片。だが、目の前の存在は、既存のどんな敵の動きとも一致しなかった。予測不能。今までのやり方が、通用しない相手だった。
心臓が、いつもより速く脈打っている。攻撃力ゼロの自分が、この場で何をできるのか。答えのないまま、体だけが先に動こうとしていた。
低レベルプレイヤーの一人が、腰を抜かしたまま、後ずさりできずにいた。黒い獣が、その方向へ、ゆっくりと体を向ける。
考える間はなかった。
「退げ!」
俺は叫びながら、走り出していた。攻撃力ゼロの体で、何ができるわけでもない。それでも、足が止まらなかった。
周囲のプレイヤーたちが、俺の動きに気づいて、驚いたような視線を寄越した。攻撃力ゼロの記録者が、なぜこんな時に前へ出るのか。誰もが、そう言いたげな顔をしていた。だが、今は、それに構っている余裕はなかった。
獣が、腕のようなものを振り上げる。俺は、その動きに、ふと既視感を覚えた。振り上げの角度。溜めの長さ。それは、初日にクロウたちと挑んだ、あのボスの一撃と、驚くほど似ていた。
まさか、と思う暇もなかった。
俺は、白紙の書を開き、あの日、記録したページに触れた。指先が、震える。これまでとは違う。断片を覗くだけの、あの感触じゃない。もっと深く、記録そのものに、体ごと引きずり込まれるような感覚だった。
視界の端で、光の粒子が舞うのが見えた。白紙の書のページが、まるで意志を持って自らめくれていくように、次々と過去の記録を映し出しては消えていく。俺の記憶の中の断片と、目の前の現実が、少しずつ、重なり合っていく感覚があった。
腰の白紙の書が、これまでにない強さで発光した。ページの表示が、目まぐるしく切り替わる。
『観測権限:充足』
『関係権限:一部充足』
『次段階《再生》解放条件:確認中……仮許可』
仮許可。
その文字を見た瞬間、俺の体は、勝手に動いていた。
記録した軌道が、頭の中で完全な形を結ぶ。断片じゃない。過去の記憶そのものが、俺の体を通して、もう一度、確かな形で走り出す感覚。
「まだ動くな!」
俺は、腰を抜かしたプレイヤーに向かって叫んだ。同時に、白紙の書を掲げる。
俺の目の前に、あの日見た即死ギミックの軌道が、青白い光の線となって、完全な形で浮かび上がった。断片の時とは、密度が違う。線と線が繋がり、まるでもう一度その瞬間が、この場所で再現されているかのようだった。
獣の腕が振り下ろされる。だが、その軌道は、俺が展開した光の線と、寸分違わず重なっていた。
「今だ、右へ!」
俺の声に、プレイヤーが弾かれたように動く。獣の一撃は、彼女がいた場所を、わずかに逸れて突き抜けた。
静寂が落ちた。誰も、声を出せずにいた。周囲のプレイヤーたちの視線が、俺の白紙の書に集まっているのが分かった。
獣は、標的を外したことに戸惑うように、一瞬、動きを止めた。その隙を、俺は見逃さなかった。
「今のうちに、離脱を!」
俺の声で、周囲のプレイヤーたちが動き出す。腰を抜かしていた女性が、仲間に支えられながら、その場を離れていった。
俺は、白紙の書を握りしめたまま、獣を見据えていた。攻撃する力は、まだない。だが、動きを読むことなら、今の俺にはできる。それだけで、十分だった。
「セナさん!」
ユイの声が響いた。彼女は、盾を構えたまま、俺の隣に並んでいた。
「私も、何かできることは」
「時間を稼げ。あいつの動きは、俺が読む」
「はい!」
ユイが、前に出た。獣が、彼女に狙いを定める。俺は、記録の中から、似た動きのパターンを、必死に探した。
「左に、回り込め!」
ユイが、俺の指示通りに動く。獣の攻撃が、空を切った。俺の白紙の書は、まだ発光を続けている。まるで、俺自身が、もう一つ上の段階に踏み込んだことを、確かめるように。
だが、それも長くは続かなかった。
獣の輪郭が、不意に、大きく揺らいだ。まるで、限界に達したかのように。次の瞬間、それは、音もなく、粒子となって崩れ落ちた。
戦いは、終わった。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
「……勝った、んですか」
ユイが、恐る恐る聞いた。
「多分な。あいつが、勝手に崩れた。俺たちが倒したわけじゃない」
俺は、白紙の書を見下ろした。ページの表示は、まだそこにあった。
『次段階《再生》解放条件:確認中……仮許可』
仮許可。完全な解放ではない。だが、確かに、何かが一段階、進んだ。俺は、今、初めて、断片じゃない、本物に近い何かに触れた気がした。
「セナさん、今の、すごかったです。あんな光、初めて見ました」
「俺も、初めてだ」
正直な答えだった。あれが何だったのか、俺自身、まだ完全には理解できていない。ただ、体の奥に、確かな手応えが残っている。
周囲のプレイヤーたちが、遠巻きに、俺たちを見ていた。何人かが、ひそひそと言葉を交わしている。「今の、記録者だよな」「攻撃力ゼロのはずじゃ」。噂は、また少し、広がるだろう。
俺の胸の奥に、初めて味わう種類の熱があった。あの日、全滅したパーティーの記録。なかったことにされかけていたその記録が、今、生きている誰かを守った。自分自身の観測と、隣にいる誰かとの繋がり。それが、この技を成立させた気がした。
その視線の中に、見覚えのある赤いコートがあった。
クロウだった。彼は、遠くから、じっとこちらを見ていた。何か言いたそうな顔をしていたが、結局、何も言わず、踵を返して人混みに消えていった。
「セナさん、今の人……」
「知り合いだ。前に、世話になった」
ユイは、それ以上聞かず、小さく頷いた。
俺は、白紙の書を、そっと閉じた。震えは、ようやく収まりつつあった。だが、体の奥に残る熱のようなものは、まだ消えていない。
『まだ、間に合う』
あの言葉の意味には、まだ届いていない。だが、今夜、確かに一歩、前に進んだ。仮許可という言葉が、これから先、どんな意味を持つのか。それを確かめるのが、次の課題だった。
「セナさん」
ユイが、隣で、静かに言った。
「私、今日という日を、一生忘れないと思います」
俺は、その言葉に、小さく頷いた。忘れない、という言葉が、この世界では、いつもより重い意味を持つ気がした。それでも、今は、素直にその気持ちを受け取ることにした。
周囲の喧騒は、少しずつ収まりつつあった。助けられたプレイヤーたちの何人かが、俺たちの方へ、小さく頭を下げて去っていく。誰も、大げさに礼を言うことはなかったが、その控えめな仕草だけで、十分だった。
夜の広場に、時計塔の音が、静かに響いていた。俺たちは、その音を聞きながら、しばらく、並んで立ち続けていた。
第7話を読んでいただき、ありがとうございました。
攻撃力ゼロの記録者が、あの日の全滅の記録で、目の前の誰かを守りました。《再生》は「仮許可」へ。まだ完全な解放ではありません。
次話、遠くから見ていたクロウから、一通のメッセージが届きます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




