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『削除世界の記録者 〜最弱職《レコーダー》は見えない過去を再生する〜』  作者: 黒豚
第1章 削除された残響

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第6話 まだ、間に合う

第6話です。

白紙の書に浮かんだ、短い一文。その意味を確かめるため、セナとユイはもう一度、あの森の脇道へ向かいます。


昨日、白紙の書の光の中で最後まで見た文字は、今も頭に焼き付いている。


『まだ、間に合う』


それだけだった。書き終わった瞬間、光はすっと弱まり、ページはいつもの静けさに戻った。俺は、しばらく動けなかった。間に合う、とは何にだ。誰に対してだ。答えは、まだ何一つ出ていない。それでも、あの短い一文を見た瞬間の感覚だけは、はっきりと体に残っていた。


夜通し目を閉じても、頭の芯だけは覚めたままだった。眠りは浅く、何度も同じ夢を見た気がする。誰かの後ろ姿が、森の奥へ向かって歩いていく夢だった。追いかけても、追いつけない。声をかけても、振り返らない。


翌朝、俺はオルタ・アーカイブにログインした。白紙の書を開くと、文字は、変わらずそこにあった。消えても、書き換わってもいない。ただ、静かに、そこに在り続けている。それが、かえって重く感じられた。


「セナさん、おはようございます」


広場に降りると、ユイが、いつもの場所で待っていた。俺の顔を見るなり、少し緊張した様子で駆け寄ってくる。


「昨日のあの文字、私も、ずっと考えてました。『まだ、間に合う』って、やっぱり、お兄ちゃんのことなんでしょうか」


「断定はできない。だが、可能性はある」


「今日、どうしますか」


俺は、少し考えた。昨日の森で見た、あの後ろ姿の残響。あの場所と、白紙の書が反応したタイミングは、無関係だとは思えなかった。


俺は、腰の白紙の書に、そっと手を置いた。まだ、微かに熱を持っている気がした。昨日の反応の余韻が、まだ完全には消えていないのかもしれない。


「もう一度、あの森に行く。同じ場所を、もう一度確かめたい」


「あの脇道、ですね」


「ああ。昨日は、後ろ姿しか見えなかった。だが、あの文字が浮かんだタイミングを考えると、今日は、また何か違う反応があるかもしれない」


---


広場から森までの道すがら、俺たちは、あまり多くを話さなかった。だが、沈黙は気まずいものじゃなかった。互いに、頭の中で昨日の出来事を、もう一度整理し直しているような、そんな静かな時間だった。


途中、露店で軽く水分を補給した。ユイは、果実水の入った小瓶を、大事そうに両手で持っていた。


「セナさん、緊張してます?」


「……少しはな。お前は」


「私も。でも、今日は、ちゃんと自分の目で確かめたいです。セナさんに見えるものが、私には見えなくても」


その言葉に、俺は少しだけ、安心した自分に気づいた。


森に着く頃には、日はまだ高かった。俺たちは、迷わず、あの脇道へ向かった。


脇道に踏み込むと、白紙の書が、すぐに震え始めた。昨日感じた「疼き」より、はっきりとした反応だった。


「昨日より、強い気がします」


ユイが、俺の少し後ろで、盾を構えながら言った。


「ああ。昨日、記録したせいかもしれない。一度観測したものは、次に近づいた時、反応しやすくなるのかもしれない」


脇道の奥へ進むにつれて、木々の間から差し込む光が、少しずつ薄れていった。昼間だというのに、この一帯だけ、時間の流れが違うような感覚がある。


脇道の先、あの開けた場所に着くと、俺は足を止めた。


そこに、また、あの人影が立っていた。だが、昨日とは違う。今日は、こちらを向いている。輪郭ははっきりしないが、視線だけは、確かに俺を捉えているのが分かった。


「セナさん、あれ……」


「ああ。今日は、こっちを向いてる」


ユイが、俺の背後で、息を呑む気配がした。彼女には、輪郭は見えていないはずだ。それでも、この場の空気の変化は、はっきりと感じ取っているらしい。


俺は、白紙の書に手をかけた。だが、記録するべきか、少し迷った。昨日は、気づかれる前に距離があった。今日は、明らかに、向こうも俺たちの存在に気づいている。


一歩、俺は前に出た。輪郭は、逃げるでも、近づくでもなく、その場に留まったままだった。


「……何が言いたい」


俺は、小さく呟いた。答える声は、聞こえなかった。だが、輪郭の口が、微かに動いた気がした。声にならない言葉。それでも、頭の中に、意味だけが、確かに届いた。


『まだ、間に合う』


昨日、白紙の書に浮かんだのと、同じ言葉だった。


俺は、息を呑んだ。ページに浮かんだ文字と、目の前の輪郭が発した言葉が一致するというのは、偶然とは思えなかった。この輪郭こそが、あの文字の出所なのか。それとも、二つとも、もっと別の何かから発せられているのか。


「セナさん、今、何か言いましたか」


ユイの声で、俺は我に返った。彼女には、輪郭の言葉は、当然届いていない。


「……いや。何でもない。ただ、確かめたかっただけだ」


輪郭は、それだけ告げると、音もなく、粒子となって崩れていった。


俺は、白紙の書を開いた。ページの表示が、変わっていた。


『観測権限:更新中……』


これまで一度も見たことのない表示だった。記録ページの数値でも、権限不足の表示でもない。何かが、確実に、少しずつ動き始めている。


「これ……」


「進んでる。何かが、少しずつだが、確実に」


俺は、その表示を見つめながら、これまでのことを、頭の中で整理し直していた。情報屋の噂。昨日見た後ろ姿。今日、向き合った輪郭。全部が、バラバラの点だったはずのものが、今、初めて、一本の線として繋がろうとしている気がした。


輪郭が消えた後の静寂の中、俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。今の言葉が、誰から、何のために発せられたのか。答えは、まだ何一つ出ていない。


「セナさん、私にも、何か見えたらいいのに」


ユイが、悔しそうに呟いた。俺は、その言葉に、少し引っかかりを覚えた。


「……見えない、ってことにも、意味があるのかもしれない」


「どういうことですか」


「分からない。ただ、シオンが言ってた。一人で見た記録は、半分しか記録されていない、って。お前が見えなくても、お前がここにいることに、意味があるのかもしれない」


ユイは、少し驚いた顔をした。それから、はにかむように笑った。


「……そう言ってもらえると、少し安心します」


俺たちは、しばらくその場に留まり、周囲の様子を確かめた。あの輪郭は、二度と現れなかった。だが、白紙の書の脈動は、しばらくの間、収まらなかった。


「セナさん、明日も、ここに来ますか」


「……分からない。だが、この場所のことは、頭から離れそうにない」


ユイは、小さく頷いた。それから、少し真剣な顔で言った。


「セナさん。私、思うんですけど、この場所、お兄ちゃんと、何か関係があるんじゃないでしょうか。証拠はないんですけど……なんとなく」


俺は、彼女の言葉を、すぐには否定しなかった。憶測に過ぎない。だが、憶測を頭ごなしに切り捨てるのも、また違う気がした。


「可能性としては、頭の隅に置いておく。だが、断定はしない」


「はい。……それでいいです」


森を出る前、俺は、もう一度、あの開けた場所を振り返った。何も見えない、ただの木漏れ日の空間だ。だが、そこに確かに何かがいたことを、俺たちは知っている。


日が傾き始めた頃、俺たちは、森を後にした。今日、決定的な答えが出たわけじゃない。だが、確かな手応えは、少しずつ積み上がっていた。輪郭が告げた同じ言葉。新しい表示。そして、隣にいる誰かの存在。


広場に戻ると、時計塔の下で、俺たちは、しばらく並んで立っていた。


「セナさん」


ユイが、隣で、ぽつりと言った。


「私、今日みたいな日が続いても、大丈夫です。怖いこともあるけど、セナさんと一緒なら」


俺は、その言葉に、何と答えればいいか、少し迷った。


「……無理はするな。それだけは、忘れるな」


「はい」


ユイは、小さく笑った。それから、ふと、思い出したように言った。


「セナさん。『観測権限:更新中……』って表示、シオンさんに見せてみませんか。あの人なら、何か分かるかもしれません」


悪くない提案だった。俺は、白紙の書を見下ろした。表示は、まだそこにあった。更新中、という文字が、いやに落ち着かない。


「行くか」


「はい!」


俺たちは、時計塔の下を離れ、中央図書館へと向かった。日はまだ完全には落ちていない。この時間の図書館は、いつもより人の気配が薄い。


図書館の扉を潜ると、シオンが、いつもの場所で本を整理していた。俺たちの姿を見つけると、少し驚いたように顔を上げる。


「今日は、随分と長く外にいらしたんですね」


「見てほしいものがある」


俺は、白紙の書を開いて、その表示をシオンに見せた。彼女は、しばらく黙って、ページを見つめていた。


「……『観測権限:更新中……』」


シオンは、その文字を、まるで初めて見る単語のように、丁寧になぞった。


「これは、良い兆候です。少なくとも、悪いものではありません」


「どういう意味だ」


「権限というのは、一度に全部が満たされるものじゃありません。少しずつ、積み重なっていくものなんです。今のあなたは、その途中にいる」


「積み重なる、っていうのは、具体的にはどういうことだ」


シオンは、少し考えるように、視線を落とした。


「観測すること。誰かと共に、それを大切に思うこと。そして、この世界の側から、認められること。三つが、少しずつ揃っていく必要があります」


その言い方は、以前、ここで聞いた『一人で見た記録は、半分』という言葉の続きのようだった。だが、シオンの口から直接聞くと、より重みを持って響いた。


「認められる、っていうのは、誰にだ」


シオンは、その質問には、答えなかった。ただ、静かに微笑んだだけだった。


「それは、まだ、あなたが知る時ではありません」


「またそれか」


俺は、小さく息を吐いた。もう、慣れた。この世界は、いつも、必要なことだけを、必要な分だけしか教えてくれない。


「セナさん、焦らないでください」


ユイが、俺の袖を軽く引いた。


「シオンさんも、意地悪で言ってるわけじゃないと思います。多分、まだ、教えられない理由が、ちゃんとあるんだと思います」


その言葉に、俺は、少し肩の力を抜いた。彼女の言う通りかもしれない。この世界のルールに、俺一人で腹を立てても、何も変わらない。


「……そうだな」


シオンは、俺たちのやり取りを、優しい目で見ていた。それから、ふと、真剣な表情になって言った。


「セナさん。一つだけ、言えることがあります」


「何だ」


「観測権限が満ちれば、あなたは、次の段階に手が届くかもしれません。ただし」


シオンは、一度言葉を切った。


「満ちるということは、それだけ、多くのものを見てしまう、ということでもあります。見たくないものも、含めて」


その言葉には、はっきりとした重みがあった。俺は、その意味を、すぐには飲み込めなかった。だが、警告であることだけは、確かに伝わってきた。


「覚悟しとく」


「はい。……そう言えるあなたなら、大丈夫だと思います」


シオンは、いつもの穏やかな笑顔に戻った。俺たちは、しばらく他愛のない言葉を交わした後、図書館を後にした。


外に出ると、広場はすっかり夜の色に染まっていた。時計塔の明かりが、石畳に長い影を落としている。


「次は、どうしますか」


ユイが、期待と不安が半々に混じった目で、俺を見た。俺は、少し考えてから、答えた。


「シオンが言ってた、『共に思うこと』。それが、権限の一部になるなら、俺たちは、もう、その条件の一つを満たしてるのかもしれない」


「私が、ここにいることが、ですか」


「ああ」


ユイの顔が、ぱっと明るくなった。


「じゃあ、私、もっと頑張ります。セナさんの力になれるように」


「無理はするな、が条件だ」


「分かってます!」


俺たちは、夜の広場を、並んで歩き続けた。答えには、まだ遠い。だが、一歩ずつ、確かに前へ進んでいる。その実感だけは、今夜、はっきりと胸の中にあった。


『まだ、間に合う』


その言葉の意味には、まだ届いていない。だが、間に合わせるための手がかりは、少しずつ、俺たちの手の中に増え始めていた。


第6話を読んでいただき、ありがとうございました。

森の輪郭が告げた『まだ、間に合う』。シオンが語った三つの条件と、「見たくないものも、含めて」という警告。手がかりは増えても、その意味にはまだ届きません。

次話、夜の広場に、見たことのない異変が現れます。

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