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『削除世界の記録者 〜最弱職《レコーダー》は見えない過去を再生する〜』  作者: 黒豚
第1章 削除された残響

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第5話 噂の値段

第5話です。

ノースリーチで目撃された「記録者らしき人影」。セナとユイは、噂の出どころを探して情報屋を訪ねます。


ヨハと別れた翌日は、急ぎの仕事が入っていなかった。朝からログインした俺は、広場で足を止めた。


噴水の縁に、見覚えのある人影があった。ユイだ。俺の姿を見つけると、ぱっと立ち上がって、こちらに駆け寄ってくる。


「セナさん! おはようございます!」


「……おはよう。何かあったのか」


「あの、お兄ちゃんに、また何回かメッセージ送ったんですけど、返事がなくて」


ユイの声のトーンが、少し落ちた。胸の前で、両手の指を組んだり離したりしている。不安を誤魔化す時の、彼女の癖らしかった。だが、すぐに持ち直したように、俺の顔を覗き込んでくる。


「それで、あの、思ったんです。前に見た書き込み、覚えてますか。ノースリーチで、記録者らしき人を見た、っていう」


俺は、少し驚いた。あの掲示板の書き込みは、俺が個人的にブックマークしただけのはずだ。


「……なんでそれを知ってる」


「セナさんが、独り言みたいに言ってたじゃないですか。図書館に行く途中で」


言われてみれば、そうだったかもしれない。俺は、自分で思っている以上に、独り言が多いのかもしれなかった。


「あの書き込み、続きとかないんでしょうか。もっと詳しく知ってる人、いるかもしれません」


ユイの発想は、単純だが、的を射ていた。俺は、その可能性を、正直、あまり真剣に考えていなかった。記録者は不人気職だが、選ぶ人間が皆無というわけじゃない。俺以外にも、当然いる。だから、書き込みそのものは、それほど珍しい話じゃないはずだった。


ただ、一つだけ引っかかっていたことがある。書き込みにあった「エフェクトなしで消えた」という一文だ。あれだけは、普通のプレイヤーのログアウトとは、明らかに違う。


「……確かに、噂の出どころが知りたいな。ノースリーチまでは、まだ足を延ばす段階じゃない気がする。まずは、情報を集める方が先だ」


「情報を集める、ってどこで?」


「情報屋。オルタ・アーカイブには、噂話を商品として扱う奴らがいる。金かアイテムを対価に、知ってることを話してくれる」


「そんな人がいるんですか」


「攻略サイトに載らない情報を欲しがるプレイヤーは、一定数いる。需要があれば、商売は生まれる」


広場を横切りながら、ふと、掲示板の隅に貼られた告知が目に入った。《秩序の盾》の名前と、クロウのハンドルネーム。新しいレイドへの参加募集らしい。あいつも、あいつなりに前に進んでいるらしかった。あの日、レイドの帰り際に見せた、何か言いたそうな顔を思い出す。いずれ、また話す機会もあるだろう。今は、目の前のことに集中する方が先だった。


道すがら、俺は昨夜のことを思い返していた。ヨハの言葉。仕様じゃない、設計だ。誰かが最初から決めて作ったものは、途中でどうこうできない。あの言い方には、単なる比喩以上の実感がこもっていた気がする。まるで、実際に「設計された何か」に触れたことがある人間の言い方だった。


俺たちは、広場から少し外れた裏通りへ向かった。


---


情報屋は、裏通りの入り口、露店の並びが途切れるあたりにひっそりと店を構えていた。「なんでも屋・耳」と書かれた木札が、風もないのに、かたかたと揺れている。露店というより、木箱を積み上げただけの、間に合わせの店構えだ。周囲の露店主たちが、通りすがりに愛想笑いを振りまく中、その店だけが、誰の視線も引かないよう、わざと地味に佇んでいる気がした。


カウンターの奥に座っていたのは、フードを目深に被った小柄な男だった。顔はほとんど見えない。


「いらっしゃい。何を知りたい?」


声は、案外若かった。


「ノースリーチの噂について。記録者らしき人物を見た、っていう書き込み。あれの詳しい話が欲しい」


「ああ、あれね」


情報屋は、カウンターに肘をついた。


「対価は?」


俺は、アイテムポーチから、いくつかの素材アイテムを取り出した。レイドで手に入れた、使い道のない魔石の欠片だ。情報屋は、それを一瞥して、露骨に顔をしかめた。


「うーん、その等級だと、ちょっと安いなあ。もう一声、欲しいところ」


「これ以上、出せるものはない」


「じゃあ、話半分でいいなら」


「話半分で構わない。判断は、こっちでする」


情報屋は、しばらく黙って俺を見ていた。値踏みするような沈黙だった。それから、小さく肩をすくめて、諦めたように口を開いた。


「まあいいや。あんた、記録者だろ。その職の話なら、俺も昔から気になってたクラスだしな。サービスしとくよ」


情報屋は、声を落とした。


「あの書き込みをしたのは、俺の顧客の一人だ。ノースリーチで氷漬けの遺跡を見に行くのが趣味の変わり者でね。そいつが言うには、遠くに人影を見て、声をかけようとしたらしい。だが、近づく前に、その人影は消えた」


「消えた、というのは」


「普通のログアウトとは違ったらしい。光もなく、間もなく。まるで、最初から映像の中にしかいなかったみたいに、ふっと」


俺は、その言い方に、体の奥がざわつくのを感じた。掲示板の書き込み以上の、新しい情報はほとんどない。だが、掲示板と同じことを、別の人間の口から聞いた。それだけで、話の重さが少し変わる。


「それだけか」


「もう一つ。そいつが言うには、その人影、腰のあたりに、白っぽい本みたいなものを提げてたらしい」


俺は、無意識に、自分の腰の白紙の書に触れていた。


「……本当か、それ」


「保証はしない。噂は所詮、噂だ。ただ、複数の客から似た話が来てる。話す度に少しずつ詳しくなってるあたり、尾ひれがついてる可能性もあるけどな」


「他の客っていうのは、何人くらいだ」


「三人。全員、別々のタイミングで、別々のルートで俺のところに来た。示し合わせて嘘をつく理由はない連中だ」


「情報屋としての見立ては?」


情報屋は、少し考えるように顎に手をやった。


「俺は、噂を右から左に流すだけの商売人だ。見立てなんて大層なものはないが……強いて言うなら、ここまで独立した証言が揃うと、単なる都市伝説とは思えないな。あんたも、記録者なんだろ。他人事じゃないんじゃないか」


その一言は、思ったより深く刺さった。俺は、それを顔に出さないよう努めた。


「もう一つだけ、聞いていいか。この商売、長いのか」


「まあまあだな。何でだ」


「昔、記録者について、何か特別な話を聞いたことは」


情報屋は、しばらく黙っていた。それから、少し声のトーンを変えて言った。


「一つだけ、ある。もう随分前の話だが。記録者ってクラスは、最初から『特別枠』だったって噂だ。運営が意図的に一人か二人にしか回さない、隠しクラスだったんじゃないか、ってな。今は普通に選べるクラスになってるが、初期の頃は違ったんじゃないかって話だ」


「その話、どこから聞いた」


「忘れた。もう、五年近く前の話だからな。ソースも辿れない、ただの又聞きだ。話半分にしとけよ」


情報屋は、それだけ言うと、興味なさそうに視線を逸らした。この手の商売人は、これ以上の深追いには応じない、という空気を出していた。


俺たちは、店を出た。


「セナさん、どう思いますか」


ユイが、心配そうに俺の顔を覗き込む。


「分からない。だが、少なくとも、複数の人間が似た話をしてる。作り話にしては、細部が揃いすぎてる気がする」


「その人、記録者なんですよね。会えたら、権限のこと、知ってるかもしれないですよね」


「かもしれない。だが、今すぐノースリーチまで行くのは、正直、乗り気じゃない」


「どうしてですか?」


「あそこは、俺たちのレベルじゃ、まだ厳しい狩場だ。噂を追うためだけに、無理する場所じゃない。それに」


俺は、少し言葉を切った。


「情報が中途半端なまま突っ込んで、痛い目を見るのは、昔からよくやる失敗だ。もう少し、材料を集めてからの方がいい」


「……じゃあ、ギルガメシュも……」


ユイが、小さな声で言いかけた。兄の、1ヶ月ぶりのログインが記録されていた場所。彼女が本当に行きたいのがどこなのか、俺には分かっていた。


「あそこは、ノースリーチよりもっと無理だ」


ユイは、少し不満そうな顔をしたが、すぐに頷いた。


「……分かりました。じゃあ、今日はどうしますか?」


「レベル上げでもするか。お前もまだ、装備が心もとない。噂を追うにしても、力がなきゃ話にならない」


---


俺たちは、初心者エリアより一段階レベルの高い、中級者向けの森へ向かった。ここなら、俺たちの現在のレベルでも、無理なく経験値を稼げるはずだった。


森の入り口に着くと、湿った土の匂いが濃くなった。木々の背が高く、日差しが葉の隙間からまだらに差し込んでいる。初心者エリアの明るい森とは、空気の重さが違う。


森の奥、開けた場所で、最初の敵に出会った。緑色の甲殻を持つ、大型の昆虫型モンスター。ギルド名鑑には「鎧蟲(よろいむし)」と載っていた種類だ。


「あれ、結構大きいですね……」


ユイが、盾を構えながら、少し身構える。鎧蟲は、体長二メートル近くある。前脚の鋏が、開閉するたびに、鈍い金属音を立てていた。


俺は、白紙の書を開いた。ページの隅に残った、これまでの記録の断片。鎧蟲との遭遇は初めてだが、似た関節構造の敵の動きなら、何度か見てきた。


「鋏が開いた後、閉じる動作に、ワンテンポ隙がある。盾で受けるより、閉じた瞬間を狙って側面に回れ」


「側面……はい!」


ユイが、鎧蟲の正面から、素早く横に回り込んだ。鋏が空を切って閉じる。その一瞬の硬直に、ユイの盾が、甲殻の継ぎ目を強かに打ち据えた。硬い音とともに、鎧蟲がのけぞる。


「よし……効いてます!」


ユイの声に、初めての手応えが混じっていた。彼女の動きは、以前に比べて、確実に良くなっている。俺の指示を待つだけでなく、指示の意図を理解した上で、自分なりの間合いを掴み始めていた。


鎧蟲が体勢を立て直し、今度は横薙ぎに前脚を振るってきた。俺は、その軌道を目で追った。今までの敵とは違う、円を描くような動き。だが、根本にある「重心移動の型」は、これまで見てきたどの敵とも、根っこの部分でよく似ていた。生物である以上、動きには物理的な制約がある。俺の記録は、その制約のパターンを、少しずつ蓄積させてきたんだと思う。


「今度は下に沈め。薙ぎ払いは、高い位置を通る」


「はい!」


ユイが、膝を軽く落として、姿勢を低くする。前脚が、彼女の頭上を通り過ぎた。がら空きになった鎧蟲の腹部に、ユイの盾の縁が突き刺さる。


甲高い悲鳴のような音を上げて、鎧蟲が、光の粒になって崩れていった。


「やった……! やりました、セナさん!」


ユイが、盾を掲げて振り返った。額に汗が滲んでいる。息は少し上がっているが、目には達成感が輝いていた。


「悪くない」


「悪くないどころか、私、一人でも戦えそうな気がしてきました!」


「まだ早い。今のは、俺の指示があったからだ」


「でも、次からは、動きの意味、なんとなく分かる気がします。鋏の隙とか、薙ぎ払いの高さとか」


ユイの言葉に、俺は少し驚いた。ただ言われた通りに動くだけじゃなく、動きの意味を自分の言葉で咀嚼し始めている。この短期間で、彼女は確実に、前より強くなっていた。守られるだけの存在から、少しずつ、抜け出しつつある。


奥から、もう一体、鎧蟲が姿を現した。今度は、先程より一回り大きい。甲殻の色も、心なしか濃い。


「二体目、来ますよ」


「今度は、自分で見てみろ」


「え?」


「指示は最小限にする。動きをよく見て、自分で判断しろ。俺は、危なくなったら止める」


ユイは、一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに、盾を構え直した。真剣な目で、鎧蟲の動きを追っている。


鋏が開く。彼女の体が、僅かに緊張した。俺は口を挟まなかった。鋏が閉じる瞬間、ユイは、教わった通りに、自分の判断で横に回り込んだ。動きは、まだ少しぎこちなかったが、確かに、自分の意志で選んだ動きだった。


打ち据えた一撃は、先程より浅かったが、確実に鎧蟲の体力を削っていた。二度、三度と、同じ攻防を繰り返すうちに、ユイの動きは、少しずつ滑らかになっていった。


最後の一撃で、二体目の鎧蟲も、光の粒になって消える。


「……できました。今の、ほとんど自分で考えて動けた気がします」


「悪くない。筋は良い」


「セナさんに褒められると、なんか変な感じです」


ユイが、照れたように笑った。俺は、その表情から、目を逸らした。褒めるのは、慣れないことをしている自覚があった。


森をさらに奥へ進むと、今度は三匹の毒草の魔物が、円になって群れていた。動く植物型の敵で、触手のような蔦を伸ばして攻撃してくる。数が多い分、厄介な相手だった。


「三体同時か」


「セナさん、これは……」


「囲まれるな。一体ずつ、順番に引き付けろ」


俺は、記録ページを素早くめくった。植物型の魔物は、これまで戦った敵とは、動きの質が根本的に違う。関節も骨格もない、ただ蔦が意志を持って動いているような、予測しにくい軌道。だが、注意深く見ると、どの個体も、蔦を伸ばす直前に、根元がわずかに膨らむ癖があった。


「蔦を伸ばす前、根元が膨らむ。それを見てから避ければ、間に合う」


「分かりました」


ユイは、一体の蔦を盾で受け流しながら、後退した。俺は、残りの二体の位置を、視界の端で捉え続けた。三体同時に相手取るのは、彼女にはまだ荷が重い。俺は、白紙の書のページを使って、一体の攻撃軌道を空中に一瞬だけ映し出した。ユイの目には見えないはずだが、俺自身がその軌道を追うことで、次の指示のタイミングを、より正確に取ることができた。


「右の一体が、先に伸ばしてくる。かわしたら、そのまま距離を詰めて叩け」


戦闘は、少し長引いた。だが、ユイは着実に、一体ずつ盾で叩き伏せていった。最後の一体が崩れ落ちた時には、彼女の息は上がっていたが、表情には、これまでで一番はっきりとした自信が浮かんでいた。


「三体、いけました……! 前だったら、絶対無理でした」


「上出来だ。かなり、動けるようになってきたな」


「セナさんのおかげです」


「お前が、指示についてこれるようになったからだ。俺が教えることも、そろそろ限界が近い気がする」


その言葉に、ユイは少し驚いた顔をした。


「そんな、まだまだ教わりたいです!」


「技術的な話じゃない。お前が、自分で考えて動けるようになってきてる、って話だ。良いことだろ」


「……そう言われると、悪い気はしないですけど、なんか、卒業させられるみたいで、ちょっと寂しいです」


その言い方に、俺は少し戸惑った。何と返せばいいか、うまく言葉が見つからなかった。


---


森の中程、普段は通らない脇道に入ったところで、俺は足を止めた。


道の先、木々の隙間から差し込む光の中に、空気の揺らぎのようなものが見えた。


「……何だ、これ」


俺は目を凝らした。人の姿ではない。もっと漠然とした、輪郭のはっきりしない歪みだ。まるで、その場所だけ空間が薄く伸びているような、奇妙な感覚。


「セナさん、何か見えますか」


「ああ。……多分、残響だ。だが、これまで見たものとは、少し質が違う」


俺は、慎重に近づいた。歪みの中心に、白紙の書のページに残った、微かな熱の感触が反応する。震えというより、疼きに近い。


歪みが、ゆっくりと像を結び始めた。誰かの後ろ姿。若い男。この森を、迷うことなく、慣れた足取りで歩いている。振り返ることなく、道の先へと消えていく。


俺は、白紙の書を開いた。記録ページは、3/3。もう、空きはないはずだった。


だが、俺が手をかざすより先に、書が小さく震えた。ページの束の最後に、まっさらな一枚が、音もなく増えている。


『記録ページ:4/4』


増えた。理由は、分からない。俺は、その新しいページに、後ろ姿を記録した。


「今の、誰かの姿でしたか」


「多分な。だが、顔は見えなかった」


俺は、記録したページを見返した。歩き方の癖、体格、着ていた服の質感。断片的な情報だが、何かが引っかかる。この森は、初心者エリアからそう離れていない。この人物が、以前ここを通ったプレイヤーの残響だとすれば、何か理由があってここを歩いていたはずだ。


「セナさん、その人、もしかして……」


ユイの声が、震えていた。俺は、彼女が何を言おうとしているか、察しがついた。だが、確証はない。憶測で希望を持たせるのは、一番残酷なことだと思った。


「分からない。断定できるほどの情報はない。ただ……この場所を、記憶に留めておく価値はある」


「……はい」


ユイは、それ以上言葉を続けなかった。ただ、じっと、歪みが消えた場所を見つめていた。俺は、その横顔に、これ以上何も言わない方がいいと判断した。


俺たちは、しばらく無言のまま、その場に立っていた。森のざわめきだけが、周囲を満たしている。


「セナさんは」ユイが、ぽつりと切り出した。「怖くないんですか。こういうの、見るの」


「怖い、というより……気になる、が近いな。見過ごせない」


「私は、正直、ちょっと怖いです。でも、セナさんが隣にいると、大丈夫な気がします」


その言葉に、俺は何と返せばいいか分からず、しばらく黙っていた。頼られることに、まだ慣れていない自分がいる。誰かに必要とされることは、悪い気はしない。だが同時に、その期待に応え続けられるのか、確信も持てずにいた。


やがて、ユイが小さく息を吐いて、いつもの表情に戻った。


「……行きましょうか。今日は、収穫、多かったですね」


「ああ」


---


日が傾き始めた頃、俺たちは中央図書館に立ち寄った。特に用事があったわけじゃない。ただ、今日見たものについて、シオンなら何か知っているかもしれないと思ったからだ。


図書館の中は、いつも通り静かだった。差し込む夕日が、本棚の間に長い影を落としている。カウンターの向こうで、シオンが本を整理していた。


「あ、お二人揃って。今日は、また何か見つけましたね」


シオンは、俺の顔を見ただけで、そう言った。何を根拠に、といつも通り不思議に思ったが、今更聞いても、はぐらかされるだけだと分かっている。


「森で、変わった残響を見た。誰かの後ろ姿だった」


「……そうですか」


シオンは、それ以上深くは踏み込まなかった。ただ、少しの間を置いて、静かに言った。


「一人で見た記録は、半分しか記録されていないものですよ」


「……どういう意味だ」


「見た人が一人だと、記録は、その人の記憶の中にしか残りません。誰かと、同じものを見て、同じように大切に思う人がもう一人いれば、記録は、もう少し確かなものになる気がします」


俺は、その言葉を、頭の中で反芻した。観測すること。それに加えて、誰かとの関係。まるで、権限というものの正体に、また少しだけ近づいたような感触があった。だが、まだ、はっきりとした形にはならない。


「それだけか」


「はい。今日は、それだけです」


シオンは、いつもの穏やかな笑顔に戻った。俺は、それ以上聞くのをやめた。ユイが、俺の隣で、何か考え込むような顔をしていた。


「シオンさん、それって、私にも関係ある話ですか」


ユイが、おずおずと尋ねた。シオンは、優しく微笑んだ。


「あなたが、お兄さんのことを、大切に思い続けている限り。ええ、関係のある話だと思いますよ」


その言葉に、ユイの表情が、少しだけ和らいだ。


「……セナさん、その本、また……」


ユイの声で、俺は視線を落とした。


腰の白紙の書が、これまでとは違う光り方をしていた。淡い光じゃない。もっと強い、内側から滲み出るような明滅。ページが、独りでに開いていく。


「……何だ」


俺は、慌てて手を伸ばした。だが、ページは俺の指を待たずに、勝手にめくれていく。今日記録したばかりの、あの後ろ姿の断片。それが、何かに引っ張られるように、光を強めていく。


シオンが、初めて見せる表情で、その光を見つめていた。困惑でも、驚きでもない。もっと別の、何かを覚悟したような顔だった。


「シオン、これは」


「……分かりません。私にも、時々、あなたの本の中で何が起きているか、全部は見えないんです」


その返答は、初めて聞く種類のものだった。いつもは、多くを語らないだけで、知らないふりをしているようにさえ見えたのに。今回は、本当に戸惑っているように見えた。


ページの上に、文字が浮かび始めた。俺の書いた覚えのない、あの独特な筆致で。


一文字目が、形になろうとしていた。


「セナさん……」


ユイが、俺の袖を、そっと掴んだ。俺は、その手の温度を感じながら、白紙の書の光を、ただ見つめ続けるしかなかった。


---


その日の夜、現実に戻ってからも、俺はしばらく寝付けなかった。朝から潜りっぱなしだったせいか、目の奥が鈍く重い。天井の染みを見つめながら、頭の中で、今日一日の出来事を順番に並べ直していた。情報屋の話。ノースリーチの噂。森で見た後ろ姿。シオンの一言。そして、最後に見た、白紙の書の異常な反応。あの時ページに浮かんだ一文のことは、まだ、考えたくなかった。


一つ一つは、まだ点でしかない。だが、点と点の間に、薄い糸のようなものが張られ始めている気がした。まだ、その糸をたどりきれるだけの材料は揃っていない。それでも、少しずつ、輪郭が濃くなっているのは確かだった。


俺は、スマホを手に取って、攻略掲示板をもう一度開いた。ノースリーチのスレッドは、今日も静かに、誰にも気づかれないまま、下の方に沈んでいた。俺は、そこに新しい書き込みが増えていないか、確かめた。何もない。当たり前だ。世界のほとんどの人間にとって、これはただの都市伝説でしかないのだから。


だが、俺とユイにとっては、もう、そうじゃなくなりつつあった。


第5話を読んでいただき、ありがとうございました。

噂の人影、森で見た後ろ姿、勝手に増えたページ。そして、白紙の書に浮かび始めた文字。そこに何が書かれたのかは、次話で明かします。

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