第3話 記録庫の扉
第3話です。
白紙の書に表示された「権限不足」。その意味を確かめるため、セナとユイは図書館の司書・シオンを訪ねます。
森を歩きながら、俺たちはしばらく無言だった。
腰の白紙の書は、まだ震えている。ページの表示も、さっきから変わらないままだ。
『記録ページ:3/3』
『次段階《再生》解放条件:確認中……権限不足』
権限不足。何の権限だ。誰が判定している。俺は、歩きながらその文字を睨み、頭の中で情報を整理しようとした。うまくいかない。整理する材料が、そもそも足りない。
考えてみれば、この世界に来てから、俺は「足りない」という表示ばかり見せられている気がする。攻撃力ゼロ。記録ページ不足。権限不足。まるで、この世界そのものが、俺に何かを試しているみたいだ。
「セナさん」
ユイが、俺の裾を軽く引いた。振り向くと、彼女はまだ、兄からのメッセージが残った画面を見つめていた。
「その本、権限が足りないって言ってますよね。それって、どうしたら足りるようになるんですか?」
「……分からない」
正直に答えるしかなかった。俺は、白紙の書を開発した人間じゃない。ただ、たまたまこのクラスを選んだだけの、一プレイヤーだ。もっとも、この職を選んだ理由は、たまたまでは片付けられないんだが。
「調べる」とは言ったものの、当てがあったわけじゃない。俺は頭の中に、一つの顔を思い浮かべていた。
「一つだけ、心当たりがある」
「え?」
「中央図書館の司書だ。あいつは、普通のNPCにしては、色々見えすぎてる。……行ってみる価値はある」
シオン。あの、妙に生きているNPC。「ここに、ありましたよ」と言った時の、あの言い方。あれは、ただの案内AIの反応じゃない。俺はそう確信していた。根拠はない。ただの勘だ。だが、今の俺には、それしか手がかりがなかった。
「私も行きます」
ユイが、迷いなく言った。
「無理はするなって言ったばかりだろ」
「図書館に行くだけなら、無理じゃないです。お兄ちゃんのことなんです。私も、知りたいんです」
その目には、もう怯えはなかった。俺は、少しの間、彼女を見つめた。それから、小さく息を吐いた。
「……分かった。ただし、シオンの前では、俺が話す。お前は、黙って聞いてろ」
「分かりました」
俺たちは、森を出て、広場に戻った。夜の広場は、静かだった。時計塔の下を、酔っ払ったパーティーが一組、笑いながら通り過ぎていく。何も知らない顔だ。羨ましいとは、もう思わなかった。今の俺には、そんな余裕はない。
歩きながら、俺はさっきの記憶を反芻していた。あの兄のメッセージが届いた瞬間、白紙の書はまるで意志を持っているかのように、勝手にページを埋めていった。俺の指が止まっても、文字は止まらなかった。あれは、俺の能力じゃない。何か別のものが、俺を通して動いた感触だった。
そういえば、と俺は思い出す。昨日、シオンの前で白紙の書のページが増えた時、あいつはそれに気づいていた。まるで、白紙の書の状態を、直接見ているかのように。案内NPCが、そんなことをできるはずがない。
だとしたら、シオンは何者だ。
俺は、その問いを、今はまだ保留にした。答えを急いで、間違った方向に踏み込むのは、一番危険だ。それも、俺が昔、自分の仕事で学んだことの一つだった。
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中央図書館は、夜でも開いていた。
石造りの巨大な建物。無数の窓から漏れる灯りが、外壁に不規則な模様を描いている。俺は、その入り口に向かって歩きながら、腰の白紙の書に手をやった。震えは、まだ続いている。
図書館の中に入ると、いつもと違う静けさがあった。昼間は多少の人の気配があるが、夜のこの時間は、司書のシオン以外、誰もいない。無数の本棚が、天井まで届くほど高く積み上がっている。ろうそくの光が、微かに揺れている。この世界の照明は、内部的にはどれも同じ光源処理のはずなのに、ここだけ、わざわざ炎の揺らぎを演出している。細かいところに、無駄なこだわりがある。
扉を潜ると、シオンが、いつもの場所に立っていた。
「あ、今日は二人で。……珍しいですね」
シオンが、ユイを見て、目を細めた。
「初めまして。あなたは……」
「あ、ユイです! よろしくお願いします!」
「ユイさん、ですね。ここに、来られたのは」
シオンは、そこで一度言葉を切った。ほんの一瞬、視線が宙を泳いだ。あの、遠くを見るような目。俺には、覚えがあった。
「……何かを、探しに」
断定形じゃなかった。確認するような言い方だった。俺は、それを聞き逃さなかった。
「シオン」
俺は、単刀直入に切り出した。
「白紙の書に、権限不足って表示が出た。何の権限のことか、分かるか」
シオンは、俺の顔を、しばらく見つめていた。長い沈黙だった。図書館の奥から、紙の擦れる音だけが微かに聞こえてくる。
「……権限、というのは」
シオンが、ゆっくりと口を開いた。
「誰かに、認められること、です」
「誰かに?」
「はい。記録は、誰にでもできます。でも、記録したものを、もう一度この世界に呼び戻すには、その記録に……いいえ」
シオンは、そこで急に言葉を止めた。まるで、自分でも予期していなかった言葉が出かけて、慌てて飲み込んだような、そんな止め方だった。
「……すみません。うまく、言えません」
「言えない、じゃなくて、言わない、だろ」
俺は、思わず言葉を強めていた。シオンは、否定しなかった。ただ、困ったように微笑んだだけだった。その微笑みは、案内NPCの愛想笑いにしては、あまりに人間らしかった。
「セナさん。あなたは、まだ、知らなくていいことがあります。今は」
「今は?」
「はい。今は」
その言い方が、余計に俺の胸をざわつかせた。今は知らなくていい。つまり、いつかは知ることになる、ということだ。それも、シオンにとっては、既に決まっていることのように聞こえた。
ユイが、俺の背中から、おずおずと口を挟んだ。
「あの……。お兄ちゃんが、行方不明なんです。今日、メッセージが来て。『ユイ、大丈夫か』って。それって……」
シオンの表情が、一瞬だけ、動いた。俺は、それを見逃さなかった。ほんの一瞬。眉が、微かに寄った。悲しみに似た何か。だが、それはすぐに、いつもの穏やかな笑みの下に隠れてしまった。
「……お兄さんの、お名前は」
「蒼太、です」
シオンは、答えなかった。ただ、静かに目を伏せただけだった。その沈黙が、下手な言葉より、よほど雄弁だった。
「……知ってるのか」
俺は、低い声で聞いた。
「知って、いるかもしれません。でも、それを今、お伝えすることはできません」
「なんでだ」
「まだ、記録が、足りていないからです」
記録が、足りていない。俺は、腰の白紙の書を見下ろした。三枚のページは、既に埋まっている。それでも、足りないと言うのか。
「じゃあ、どうすれば足りる」
シオンは、俺の目を、まっすぐに見た。それまでの、どこか焦点の合わない目つきとは違う、はっきりとした目だった。
「あなた自身が、まだ、何も記録していないからです」
「……どういう意味だ」
「あなたは、これまで、他人の記録ばかりを見てきました。誰かが全滅した瞬間。誰かが消えた瞬間。でも、あなた自身の記録は、まだ一つも、この本に刻まれていません」
俺は、言葉を失った。
自分自身の記録。考えたこともなかった。俺はただ、削除されたものを見て、記録して、それを他人のために使ってきただけだ。自分のことなんて、記録する対象だと思ったことすらなかった。
シオンは、俺たちの前で、手元の分厚い本のページをゆっくりとめくった。その指先が紙をなぞる時、微かに、聞き取れない言葉が漏れた。人の言語のようでいて、俺の知るどの言語とも違う響きだった。彼女は、それに気づいていないみたいだった。
「……図書館の奥に、記録庫があります」
シオンが、静かに続けた。
「そこに行けば、あなたが何を記録すべきか、少しは分かるかもしれません。ただし」
「ただし?」
「その扉は、誰にでも開くわけではありません。開かなければ、それも一つの答えです」
シオンは、それだけ言うと、いつもの穏やかな笑顔に戻った。まるで、さっきまでの会話が、なかったことのように。
「……案内するのか、しないのか、どっちだ」
「案内は、できません。ただ、道は知っています」
シオンは、図書館の奥、螺旋階段の下を指差した。あそこは、以前は「立ち入り禁止」の表示が出ていた場所だ。誰も気にも留めない、ただの装飾の一部だと思っていた。
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螺旋階段を降りると、空気がまた変わった。残響の回廊に似た、湿った重さ。だが、あそこよりも、もっと静かだった。息を潜めているような、そんな静けさ。
階段を降りるごとに、腰の白紙の書の震えが、少しずつ強くなっていくのが分かった。さっきユイの傍で感じた震え方とは、微妙にリズムが違う。もっと重く、もっとゆっくりしている。まるで、場所そのものに固有の脈があって、白紙の書がそれに合わせているみたいだった。気のせいかもしれない。だが、俺は、その違いを、なぜか無視できなかった。
階段の先に、大きな扉があった。石造りで、表面には無数の文字が刻まれている。読めない。どこの国の文字でもない。俺の知る限りでは。
「……何なんだ、これ」
ユイが、扉を見上げて呟いた。俺も、同じ疑問を抱いていた。この世界の技術水準からすれば、明らかに浮いている造形だ。装飾にしては、精緻すぎる。まるで、本物の古代文明の遺跡みたいに。
俺は、扉に手を伸ばした。
触れた瞬間、腰の白紙の書が、激しく震えた。扉の表面の文字が、一瞬、青白く発光する。だが、それだけだった。扉は、開かなかった。
『権限不足:管理権限 未確認』
そんな文字が、扉の中央に、うっすらと浮かび上がって、すぐに消えた。
管理権限。さっき見たのと、また違う言葉だ。俺は、その文字を頭の中に刻み込んだ。忘れないように。いずれ、意味が分かる時が来るはずだ。
「……やっぱりか」
俺は、扉から手を離した。ユイが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「セナさん、大丈夫ですか」
「ああ。……予想はしてた」
嘘だった。少しは、開くかもしれないと思っていた。だが、それでいい。今は、まだ届かない。それが分かっただけでも、収穫だ。俺は、そう自分に言い聞かせた。
その時だった。
扉の向こう側、閉じたままの隙間の奥に、何かが動いた気がした。
俺は目を凝らした。見える。薄く、青白い光。人の形をした、残響。だが、ボスの残響とも、あの少年の残響とも違う。もっと、輪郭がはっきりしている。まるで、意志を持って、そこに立っているかのような。
その残響は、扉の向こうから、じっと俺を見ていた。
声は、聞こえなかった。だが、感じた。何かを、伝えようとしている。警告のような、あるいは、忠告のような、そんな気配。
「セナさん、あそこ、何か……」
ユイの声で、俺は我に返った。
「……何か、見えるのか、お前にも」
「いえ、何も……。でも、セナさんが、そっちをずっと見てるから」
見えていない。ユイには、見えていない。新世代機のユーザーには、見えないはずだ。だが、ユイは端末が旧世代機だ。それでも、見えていない。差があるということだ。俺と、あの「もう一人の記録者」の噂と、この残響の間に、何か繋がりがあるのかもしれない。
俺が、もう一度扉の向こうを見た時には、その姿は、もう消えていた。何も、残っていなかった。
「……戻るぞ」
俺は、白紙の書を閉じた。震えは、まだ完全には収まっていない。
「今日のところは、ここまでだ。扉は開かなかった。だが、開かないことも、シオンの言った通り、一つの答えだ」
「……お兄ちゃんのことは」
「まだ分からない。でも、シオンは何か知ってる。それだけは、確かだ」
ユイは、扉をもう一度、名残惜しそうに見上げた。それから、小さく頷いた。
「……はい。今日は、戻ります」
俺たちは、螺旋階段を上った。図書館の入り口で、シオンが、変わらない笑顔で俺たちを見送った。
「また、いらしてくださいね」
その言葉には、いつもと違う響きがあった。まるで、俺たちが戻ってくることを、最初から知っているかのような。
俺は、答えずに、図書館を後にした。
広場に出ると、夜風が頬を撫でた。時計塔が、静かに時を刻んでいる。俺は、腰の白紙の書に手を置いた。まだ、微かに、震えている。
「セナさん、今日は、ありがとうございました」
隣を歩くユイが、ぽつりと言った。
「お礼を言われるようなことは、してない」
「してます。私、一人だったら、あの図書館の奥になんて、絶対に行けませんでした。……セナさんが一緒にいてくれて、良かったです」
俺は、何と答えていいか分からず、黙っていた。放っておけない、という理由だけで、ここまで首を突っ込んでいる自覚はある。だが、それが正しいことなのか、俺自身、まだ分かっていない。
「明日も、来ますか。図書館」
「……分からない。だが、少なくとも、あの扉のことは、頭から離れそうにない」
ユイは、小さく笑った。
「私も、一緒に考えます。お兄ちゃんのことだから」
俺たちは、しばらく無言のまま、広場を歩いた。時計塔の下を通り過ぎる時、ユイが、ふと足を止めて振り返った。
「セナさん。……この世界、本当は何なんでしょうね」
その問いに、俺は答えられなかった。答えを持っていないからだ。ただ、確かなことが一つだけある。
権限が足りない、と、この世界は俺に言った。それはつまり、俺には、まだ足りていない何かがある、ということだ。何が足りないのか。誰が、それを判定しているのか。
シオンの言葉を、頭の中で反芻する。
「あなた自身が、まだ、何も記録していないからです」
自分自身を記録する、というのが、どういうことなのか。俺には、まだ分からない。ただ、そのために何かを差し出さなければならない予感だけが、はっきりとあった。
俺は、広場の空を見上げた。星が多すぎる、作り物の夜空。
この世界は、まだ、何も教えてくれない。
だが、俺は、もう止まらない。
第3話を読んでいただき、ありがとうございました。
「あなた自身が、まだ、何も記録していない」というシオンの言葉。そして、開かなかった扉の向こうに立っていた誰か。少しずつ明かしていきます。
次話、セナは手がかりを求めて、かつての職場の先輩に会いに行きます。
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