第2話 旧世代機の少女
第2話です。
今回は、主人公と同じ旧世代機を使う少女・ユイが登場します。
見ることしかできない最弱職が、初めて「誰かを守る」ためにその力を使う話です。
ログアウトの衝撃は、いつ来ても慣れない。
視界が白く弾けた瞬間、世界の重さが指先から戻ってくる。いや、正確には戻ってくるんじゃない。押し付けられる。重力が、空気の重さが、皮膚の下の肉が、全部いっぺんに存在を主張してくる。VRの中では意識しなかったものが、現実に戻ると急にわっと主張を始める。耳の奥でキーンという耳鳴り。首の後ろの、鈍い痛み。OD-1特有の、長時間ダイブの代償だ。
俺はヘルメットを外して、天井の染みを見つめた。見慣れた染みだ。ここに越してきた時からずっとある。形が、少しだけ人の顔に見える。今日はやけにそう見えた。
六畳一間。家賃安めのアパート。窓の外はもう夜で、街灯の光が薄いカーテン越しに滲んでいる。時計を見る。午前0時を少し回ったところだった。ダイブに入ったのが夜の8時。4時間。決して長くない。それなのに、体は鉛みたいに重い。
バグだな、と思う。仕様じゃなくて、バグだ。
椅子から立ち上がると、膝がポキリと鳴った。キッチンの小さなテーブルに置いたままのコーヒーカップを手に取る。もう冷めている。一口だけ飲んで、顔をしかめた。苦い。苦いだけで、味の輪郭がない。オルタ・アーカイブの中で飲んだ水の方が、まだ味がした。逆だ。普通は現実の方が味が濃いはずだ。なのに、俺の感覚は、ここ数日、ずっと逆になっている。
俺はカップを流しに置いて、窓に寄った。
外は静かだ。平日の深夜の住宅街は、どこも灯りが消えている。遠くの大通りを、たまにタクシーが流していく赤いテールランプだけが見える。平和な夜だ。何も起きていない夜。オルタ・アーカイブの中で見た、削除されかけの少年の顔も、白紙の書に浮かんだ文字も、この静けさの中ではどこか現実感を失っていく。
頭の中に蘇るのは、昨日、最後に見たあの一文だった。
『君は、まだ思い出していない』
誰の言葉だったのか。俺が書いたんじゃない。あのページに、俺は何も書いていない。それなのに、文字はそこにあった。淡く、青白く。まるで、俺が書くのを待っていたかのように。
思い出す、って何だ。
俺は、何を思い出していない。
耳の奥で、もう一つの記憶が再生される。
『この世界は、もう一度やり直せるの?』
少年の声が、耳の奥で再生される。声じゃない。声は出ていなかった。それなのに、意味だけが頭の中に直接届いた。あの言い方。あの、諦めと、微かな期待が半々に混じった言い方。あれは、プログラムされたNPCのセリフじゃない。あれは、本物の誰かの声だった気がする。
いや、やめよう。
俺は頭を振った。深夜に、一人で、VRの中の幻覚を掘り返しても仕方がない。明日も仕事だ。いや、仕事と言っても、今はもうフリーの小さな仕事しか受けていない。昔みたいに、大手のシステム開発の下請けなんてしていない。あの仕事は、もう辞めた。理由は、思い出したくない。
これも、やめよう。
俺は窓から離れて、スマホを手に取った。通知がいくつか溜まっている。ニュースアプリのプッシュ通知が一つ。「ダイブ中の意識不明、今月3件目。厚労省が注意喚起」という見出し。
指が止まった。
意識不明。ダイブ中に。
俺は通知をタップした。短い記事が出てきた。「ニューラルダイブ中に意識が戻らなくなる事例が、今月で3件目。いずれも20代から30代の若年層。厚生労働省は『ダイブ不適合による医療事故の可能性』として調査中。VR機器メーカー側は『機器の異常は確認されておらず、個人の体質との関連を疑う』とコメント」。
医療事故。
俺はその文字をしばらく見つめていた。医療事故、という言葉の、なんと軽いことか。たった4文字で、誰かの人生が途切れたことを片付けてしまう。意識が戻らない、ということが、どれだけの重さを持つのか。戻らない先で、その人は、今どこにいるのか。
いない、はずだ。戻らないなら、いないはずだ。
なのに、俺は昨夜、シオンに「待って、います」と言われた。「覚えて、いますか?」と聞かれた。まるで、いるかのように。まるで、俺が知っているかのように。
スマホを放り出して、ベッドに横になった。天井の染みを睨みながら、目を閉じる。眠れない。眠るまでの間、あの少年の残響が、何度も何度も、頭の中で再生された。気づけば、窓の外が薄っすらと白んでいた。
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翌日。
俺は夕方、仕事を終えてから、駅前の小さな店に寄った。旧世代機専門のメンテナンスショップだ。今どき、OD-1のような型落ち品を扱う店は少ない。センサー部分は消耗品で、年に何度か調整に出さないと、そのうち残響どころか通常の映像すら乱れてくる。予約は先週の時点で入れてあった。
狭い待合スペースで、俺はノートPCを開いて、オルタ・アーカイブの攻略掲示板を眺めていた。昨日のレイド、《残響の回廊》の攻略スレッドが伸びている。
「昨日、雑魚クラスの記録者がクロウのパーティーに紛れ込んでたらしい」
「は? ネタ職が残響クリア? ねーよ」
「マジ。ボスの即死ギミック、攻略情報なしで回避したらしい」
「チートだろ通報しろ」
スレッドは荒れていた。俺の名前は出ていない。クロウが情報を流していないんだと思う。あいつは、そういうやつだった。疑いつつも、信じた。そして、黙った。俺には、それが少し意外だったけれど、まあ、悪い気はしなかった。
スレッドをスクロールしていると、下の方に、埋もれるようにして一つのスレッドがあった。
「誰か知らない?ノースリーチ周辺で『もう一人の記録者』を見たってやつ」
俺は手を止めた。
もう一人の、記録者。
スレッドを開く。書き込みは少ない。3件だけ。
「記録者かー。たまに見るけど、大体すぐ辞めるからな。物好きはどこにでもいる」
「俺は見た。ノースリーチで。話しかけたら、光も何もなく、ふっと消えた。普通のログアウトと違ったんだよな」
「ネタ職同士つるまないから、印象に残るんだろ。エフェクトなしってのは気になるけど」
俺は、その書き込みをしばらく見ていた。《記録者》を選ぶ物好きは、確かにたまにいる。俺以外にもいるだろうことは、承知の上だった。だが、ノースリーチで見かけたという記録者が、話しかけられて「光も何もなく」消えた、というのが引っかかった。普通のログアウトなら、一拍の間と、収束していく光のエフェクトがあるはずだ。それがなかった、という一文が、妙に頭に残った。
理由は自分でも分からない。ただ、俺は何故か、その書き込みをブックマークしてしまった。
店の奥から、俺の名前が呼ばれた。カウンターの向こうで、店員がOD-1のケースを両手で持って戻ってくる。
「センサー周り、清掃と再調整終わりました。あと数年は問題ないと思いますよ、これ」
「……助かる」
俺は代金を払って、待合スペースの椅子に座ったまま、ケースを受け取った。ふと、視線を感じた。
待合スペースの奥、パイプ椅子に座った女性が一人。黒いショートボブ、眼鏡、仕立てのいいスーツ。OLだろうか。ノートPCを開いて、何かを打っている。修理待ちの客には見えない服装だった。俺と目が合った。ほんの一瞬。彼女は、俺の膝の上に置かれたOD-1のケースに視線を落とした。それから、何事もなかったかのように、自分の画面に戻った。
何だ、今の視線は。
気のせいか。俺はOD-1のケースをバッグに仕舞って、店を出た。気にしすぎだ。深夜のVRの残像が、まだ頭に残っているだけだ。
アパートに戻る。8時45分。あと15分でダイブだ。
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オルタ・アーカイブ。
ログインボタンを押すと、いつもの落下感が来る。今日は、昨日より少しだけ軽い気がした。視界が組み上がる。石畳の広場、時計塔、噴水。広場は夜だ。ゲーム内時間は、現実と連動している。夜の広場には、昼間より人は少ないけれど、それでも冒険者たちはいる。夜行性のプレイヤー、深夜にしかログインできない社会人、ギルドの集会に向かう一団。それぞれが、それぞれの理由で、この世界にいる。
俺は広場を抜けて、西の広場の方へ歩いた。初心者エリアだ。昨日、レイドと図書館で、白紙の書のページが2枚埋まった。あと1枚。1枚埋めれば、記録者の次の段階「再生」の予兆が見えるかもしれない、と攻略サイトには書いてあった。まあ、サイトの情報は当てにならない。記録者のことは、記録者本人にしか分からない。だから、俺は自分で確かめるしかない。
初心者エリアは、森の奥にある小さな村だ。低レベルのモンスターが徘徊していて、新人が戦闘に慣れるための場所。俺がここに来たのは、低レベルのモンスターの攻撃パターンを記録するためだ。強いモンスターの残響は読みにくい。弱いモンスターなら、攻撃の軌道が単純で、記録しやすい。
村の入り口あたりで、俺は足を止めた。
広場の噴水の前に、一人の少女が立っていた。
ツインテールの茶髪。上に着ているのは、随分とラフな、大きめのパーカーだった。ステータス表示を見る限り、正式な装備はきちんと聖騎士用の胴当てと盾らしい。パーカーの下に、簡素な鎧のシルエットがうっすら透けて見えている。見た目だけを上書きする「衣装」機能を使っているんだろう。レベルは、おそらく1か2。まだ、クラスを選んだばかりのような、立ち振る舞いだった。
少女は、噴水の縁に腰かけて、メニュー画面を開いていた。そして、時折、どこか遠くを見るような目で、画面を睨んでいる。困っている。けれど、人に聞くのも躊躇っている。そんな様子だった。
俺は、普段なら、こういう時は声をかけない。放っておく。他人のトラブルには首を突っ込まない。それが、俺のポリシーだった。
けれど、足が止まった。
少女の名前の横に浮かぶ小さな端末アイコンが、旧世代機OD-1系の接続を示していた。あれは、旧世代機だ。今どき、初心者が使っているような機種じゃない。俺と同じ、型落ち品。
なんで、あんなのを使っている。
俺が見ていたのは、その端末アイコンだった。けれど、俺の腰の白紙の書が、微かに、震えた。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ。ページの隅が、淡く光った気がした。それから、すぐに収まった。気のせいか。俺は白紙の書に手をやった。熱くはない。いつも通りだ。
「……あの」
声をかけたのは、俺の方だった。なんで声をかけたのか、自分でも分からない。ただ、放っておけなかった。
少女が顔を上げた。大きな目。少し、赤い。泣いていたのかもしれない。けれど、彼女はすぐに、明るい笑顔を作った。
「あ、すいません! あの、ちょっと、質問してもいいですか?」
「……何を」
「あの、このクエスト、どこに行けばいいか分からなくて。ここに『兄の足跡を辿れ』って書いてあるんですけど、足跡ってどこに……」
兄の、足跡。
俺は一瞬、黙った。
「……兄貴の?」
「はい。お兄ちゃんが、このゲーム、やってたんです。私が気になってるって言ったら、一応フレンド登録だけしてくれて。でも、結局、一緒に潜ったことは一度もなくて。今使ってるこの機体も、お兄ちゃんが部屋に置いていった予備なんです。……せめて、お兄ちゃんが見てた景色を、私も見てみたくて」
「……兄貴は、今?」
少女の笑顔が、ほんの少しだけ、揺れた。
「……いない、んです。お兄ちゃん。1ヶ月くらい前から」
いない。
俺は、その言葉の重さを、知っていた。「いない」が、どういう意味か。ダイブ中に、意識が戻らなくなった、という意味か。それとも、ただ、ゲームをやめただけか。俺は、それ以上は聞かなかった。聞く資格が、俺にはない。
「……そのクエストは、初心者エリアの北の森だ。兄貴のキャラが最後にログインした場所の、近くだ」
俺は、自分でも不思議なほどスラスラと答えた。攻略サイトで見たわけじゃない。オルタ・アーカイブのクエスト構造は、元プログラマーの俺には大体予想がつく。足跡を辿る系のクエストは、だいたい最終ログイン地点の近くから始まる仕様だ。
「えっ、本当ですか? ありがとうございます!」
少女がぱっと顔を輝かせた。俺は、その明るさに、少し目を細めた。重いものを抱えているくせに、こうして明るく振る舞う。強い子だ、と思った。あるいは、強がっているだけか。どちらでもいい。けれど、俺は放っておけなくなった。
「……俺も、そっち方面に行く用がある。途中まで一緒でいいなら」
「いいんですか? あ、私、ユイって言います!」
「……セナだ」
「セナさんですね! よろしくお願いします!」
ユイは、はにかんだように、自分の着ているパーカーの裾をつまんだ。
「あ、あの、これ。お兄ちゃんが普段着てたのと同じ柄にしてもらったんです。コスチューム屋さんで。……大きいサイズしかなくて、担いでるみたいになっちゃったんですけど」
そういうことか、と俺は思った。
ユイは、明るく俺の隣に並んだ。その足取りは、軽い。けれど、あの端末アイコンのことが、俺の頭から離れなかった。あれは、兄が使っていたものだ。兄が、旧世代機を使っていた。そして、兄は、今「いない」。俺と、同じ機種で。俺と、同じように、この世界の「余計なもの」を見ていたとしたら。そう思うと、背筋が冷えた。
俺は、思考を止めた。考えすぎだ。まだ、何も分かっていない。
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北の森は、初心者エリアに隣接する低レベルの狩り場だ。夜は、モンスターが少し強くなる仕様だ。木々の隙間から差し込む月明かりが、地面に細い縞模様を落としている。とはいえ、低レベルのユイにとっては、十分に脅威だ。
森に入って10分ほどで、最初のモンスターに出会った。森のウルフ型。レベル3。初心者には、少し強い。
「あ、敵だ! 私がやります!」
ユイが盾を構えて、前に出ようとした。俺は、その肩を軽く掴んだ。
「待て」
「え?」
「お前の装備じゃ、正面から受けたら削れる。横に回れ」
「は、はい!」
ユイが慌てて横に動く。ウルフが彼女のいた場所に飛びかかる。爪が、空を切った。もし真正面から受けていたら、盾が持たなかったかもしれない。
俺は、白紙の書を開いた。昨日記録した、残響のページ。ボスの即死ギミックの映像が、静かに光っている。俺は、この中に、何か使えるものがないか、探した。
あった。
ボスの攻撃軌道。あの、巨大な右腕が振り下ろされた時の、軌道のデータ。それが、ページの中に残っている。俺は、それを、目の前のウルフの動きと、重ね合わせた。
次に、このウルフがどう飛びかかってくるか、読める。
俺には分かった。昨日の残響の中に、同じ角度で飛びかかった攻撃があった。軌道が、似ている。俺は、それをユイに伝えた。
「半歩右にずれろ。爪はお前の左肩を抜ける」
「えっ、分かるんですか?」
「分かる。半歩、右だ」
ユイが、半信半疑で右に体重を移した。同時に、ウルフが正面から飛びかかる。そう見えた瞬間、獣は空中でわずかに体をひねり、ユイの左肩があった位置へ爪を伸ばした。俺の読み通りだった。爪が、その空間を、紙一重で抜けていった。
「……嘘、本当だ」
ユイが、目を丸くした。俺は、白紙の書のページを睨んでいた。ページの光が、少し強くなっている。そして、一瞬だけ、空中に、薄く、青白い線が浮かんだ。昨日のボスの、攻撃の軌道。それが、今のウルフの動きと、重なって見えた。
再生に近い何かだ。ただし、完全じゃない。
俺の白紙の書は、まだ「再生」を完全には解放していない。ただ、記録した攻撃の軌道を、一瞬だけ、空中に映し出すことだけができる。断片。再生の、断片。それだけれど、これだけで、敵の次の動きが読める。攻撃力ゼロの俺でも、誰かを、守れる。
「もう一度だ。次は左」
「はい!」
ユイが、俺の指示通りに動いた。ウルフの爪が、空を切る。そして、ウルフの背後の隙ができた瞬間、ユイが盾で叩いた。小さなダメージ。けれど、当たった。ウルフが、よろめく。
「当たった! セナさん、すごいです!」
「大したことはしてない。お前が避けたからだ」
「でも、セナさんが方向を教えてくれなかったら、当たってました!」
ユイが、満面の笑みを向けた。俺は、その笑顔から、目を逸らした。なんで俺は、こんなことをしているんだ。昨日までは、放っておくポリシーだったはずだ。なのに、この少女の、明るさの裏にある重さを、見てしまったからか。それとも、あの端末アイコンが、気になるからか。
ウルフは、結局、ユイの連続攻撃で倒れた。レベルアップのファンファーレが、森に響く。ユイが、小さくガッツポーズをした。
「ありがとうございます、セナさん! おかげでクエスト、進められそうです!」
「……そうか」
俺は、白紙の書を閉じた。ページの光は、もう消えていた。断片再生。あれは、まだ「再生」じゃない。ただの、記録の使い回しだ。けれど、それだけで、こんなふうに誰かを守れるなら、十分だという気もした。
昨日、回廊で残響を目の前に呼び戻したあれも、たぶん同じだ。説明文にある「戦闘記録の再生」、記録を覗き返すだけの基本機能。次の段階の《再生》は、きっと、まったくの別物なんだろう。
「あ」
ユイが、声を上げた。
「お兄ちゃん……?」
俺は、彼女の視線を追った。彼女が見ていたのは、自分のメニュー画面だ。そこに、一つの通知が表示されていた。
『フレンドリスト:蒼太 がオンラインになりました』
蒼太。その名前に、胸の奥が微かにざわついた。思い当たる何かがある。けれど、形にならない。
「……お兄ちゃんが、ログインした?」
ユイの声が、震えていた。彼女は、信じられないものを見る目で、画面を睨んでいた。1ヶ月、ログインしていなかった兄が、今、オンラインになった。
「でも、お兄ちゃん、病院に……ログインなんて、できるはず……」
ユイが、兄のアカウントのステータスを開いた。俺は、その画面を横から覗き込んだ。フレンドの詳細情報として、兄のキャラクターの最終ログイン地点が表示されている。
『最終ログイン場所:削除都市ギルガメシュ』
削除都市、ギルガメシュ。
俺の背筋が、冷たくなった。そこは、初心者がクエストのついでに行けるような場所じゃない。開発が途中で放置されたとされ、誰も足を踏み入れたことのない高難度エリアだ。1ヶ月ぶりのログインが、そこから行われている。それが意味することは、一つしか思いつかなかった。
「セナさん、お兄ちゃんが、ギルガメシュにいるんです。私、行きます!」
「待て」
俺は、ユイの腕を掴んだ。
「お前が行ける場所じゃない。誰も攻略していない、開発放置のエリアだ」
「でも、お兄ちゃんが……」
「ログインしたのが、お前の兄貴本人だとは限らない」
ユイが、息を止めた。俺は、自分が言った言葉の重さに、気づいた。言い過ぎた。けれど、言わずにはいられなかった。
「……セナさん、どういう、意味ですか」
「……分からない。ただ、変だ。1ヶ月ログインしていなかったアカウントが、深夜に、いきなりそんな場所に現れる。それは、普通じゃない」
ユイが、俺の目を、まっすぐに見た。その目は、もう泣いていなかった。代わりに、強い光があった。
「……セナさんは、何か、知ってますか?」
俺は答えなかった。答えられなかった。俺は何も知らない。ただ、昨日から、この世界の「おかしい」が、目に見え始めているだけだ。あの少年の残響、シオンの言葉、白紙の書に浮かんだ文字。そして今、行方不明の兄のアカウントが、開発放置のエリアに現れた。これが全部、繋がっているとしたら、俺はまだその答えに、辿り着けていない。
俺の腰の白紙の書が、また、微かに震えた。
今度は、一瞬じゃなかった。ずっと、震え続けている。白紙の書が反応しているのは、ユイの端末情報、あの旧世代機だけが持つ独特な接続信号が、近くにあるからかもしれない。まるで、その向こう側に、何かがいて、それに呼応するかのように。
ユイが、その振動に気づいた。
「……セナさん、その本、光って……」
「……ああ」
それだけ答えて、俺は白紙の書を押さえた。今は、説明している余裕がない。震えは、止まらない。
そして、その時だった。
兄のアカウントから、メッセージが届いた。
『ユイ、大丈夫か』
たった、それだけの、6文字。
ユイが、メニューウィンドウを見つめる手が、震えていた。俺は、その画面を、横から覗き込んだ。
お前は、誰だ。
1ヶ月、意識が戻らないはずの人間が、送れるメッセージじゃない。これは、何だ。バグか。誰かの悪戯か。それとも、他の何かか。
俺は、白紙の書を、強く握りしめた。
その瞬間、白紙の書が、強く光った。
俺が書いた覚えのない文字が、3枚目のページに、次々と浮かんでいく。速い。俺の手が止まっても、ページは勝手に埋まっていく。最後の一文が刻まれた瞬間、白紙の書に浮かんだ表示が、変わった。
『記録ページ:3/3』
『次段階《再生》解放条件:確認中……権限不足』
権限、不足。
俺が、まだ足りない。何が足りないのか、俺には分からない。けれど、白紙の書は、勝手に動いた。まるで、あのメッセージを、俺が記録するのを待っていたかのように。まるで、あのメッセージの送り主を、俺が記録しなければならなかったかのように。
この世界は、おかしい。
昨日、俺はそう思った。今日、その「おかしい」は、もう俺一人の問題じゃなくなっている。
俺は、ユイの震える肩を、一度だけ、強く掴んだ。
「……行こう。お前の兄貴のことを、調べる。俺が」
「セナさん……」
「ただし、約束しろ。無茶はするな。無茶して消えたら、探す相手が増えるだけだ。お前が無事に帰ってこい。それが、探すための前提だ」
ユイが、少し、目を潤ませた。それから、強く、頷いた。
「……はい。約束します」
俺たちは、夜の森の中に立っていた。兄のメッセージが、画面に残ったまま、光っていた。
俺は、空を見上げた。オルタ・アーカイブの夜空は、星が多すぎる。現実の夜空より、ずっと綺麗で、ずっと作り物めいている。
この世界は、何を隠している。
俺は、白紙の書の震えが、まだ止まらないのを感じながら、静かに歩き出した。
第2話を読んでいただき、ありがとうございました。
一か月ログインしていなかった兄のアカウントは、なぜ「削除都市」に現れたのか。白紙の書が告げた「権限不足」とは何なのか。少しずつ明かしていきます。
次話、セナとユイは、白紙の書の謎を確かめるため、あの司書のもとを訪ねます。
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