第1話 最弱職《記録者》と、削除された残響
なろう2作目となる、SF×フルダイブVRMMOの新作です。
攻撃力ゼロの最弱職《記録者》を選んだ主人公が、他の誰にも見えない「削除された記録」を手がかりに、この世界の裏側へ少しずつ踏み込んでいく物語です。
更新は不定期になりますが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
「仕様だろ」
俺はそう呟いて、ログインボタンを押した。
落下感。内臓が浮くような、いつもの一瞬。真っ暗な視界の奥で、何かが猛烈な速度で組み上がっていく感覚がある。色が生まれ、輪郭が生まれ、音が生まれる。まず届くのは音だった。噴水の水音、遠くの喧噪、誰かの笑い声。次に光。頭上から降る、作り物にしては出来すぎた月の光。最後に匂い。石畳が濡れたような、少し埃っぽい匂い。旧世代機は、こういう「余計な情報」まで律儀に再現してくる。今どき流行らない仕様だ。
視界が完全に組み上がる。見慣れた石畳の広場、頭上に浮かぶ巨大な時計塔、右肩の隅にうっすらと浮かぶ緑色のHPバー。
オルタ・アーカイブ。
登録プレイヤー一億二千万人を抱える、世界最大のフルダイブVRMMO。剣と魔法の異世界ファンタジーを謳うこのゲームは、今日もバグだらけで、今日も誰かがバグで死んでいる。広場には、夜になっても冒険者たちが行き交っていた。鎧を鳴らして走る者、露店で回復薬を値切る者、パーティーメンバーを待ってあくびをする者。みんな、この世界がただのゲームだと信じて疑わない顔をしている。
羨ましいな、と俺は思う。
俺、セナは、噴水の縁に腰かけて、自分のステータスを開いた。半透明のウィンドウが目の前に浮かぶ。
クラス:《記録者》
Lv:7
HP:212/212
MP:88/88
攻撃力(STR):0
防御力(VIT):31
敏捷(AGI):64
魔力(INT):15
幸運(LUK):22
固有装備:《白紙の書》
記録ページ:0/3
うん。やっぱり弱い。何度見ても数字は変わらない。
正確には、変わらないのは攻撃力だけだ。レベルを七まで上げても、この数字だけは動かない。《記録者》の攻撃力は、常にゼロに固定される仕様だ。他のステータスは普通に育つのに、ここだけは絶対に育たない。バグかと思って何度も攻略サイトを調べたが、公式が認める「仕様」らしい。皮肉なことに、俺はそういう「動かない一点」を見つけるのが、昔から得意だった。
攻撃力ゼロ。文字通り、敵にダメージを与える手段を持たない最弱職。プレイヤーの間では「ネタ職」「クソ職」「選んだら負け」とまで呼ばれている。オルタ・アーカイブの攻略サイトで《記録者》の評価ページを開くと、真っ先に赤字でこう書いてある。『おすすめしません』。その下には、丁寧に理由まで列挙されている。攻撃手段がない。防御も並以下。生産にも向かない。唯一の固有装備《白紙の書》は「戦闘記録の再生」としか説明されておらず、使い道が不明。結論、初心者は絶対に選ぶな。
それを俺があえて選んだ理由は、まあ、二つある。
一つは、職業病だ。俺は昔、システムの下請けのような仕事をしていた。バグだらけの世界を見ると、つい「どこがバグで、どこが仕様か」を確かめたくなる。攻撃力ゼロで最前線を歩くというのは、裏を返せば、誰よりも「世界の作り」をじっくり観察できるということでもある。強いクラスは強さで解決してしまうから、細部を見ない。俺は見たい方だった。
もう一つは、まあ、後で話す。今はまだ、誰にも言うつもりはない。
噴水の水しぶきが街灯の光を弾いて、細かくきらめいている。よくできた演出だ、と思う。開発の誰かが、こういう小さなところにまで手を抜かなかったんだろう。俺はステータスウィンドウを閉じて、伸びをした。
広場の向こう、冒険者ギルドの掲示板の前に、いつもより大きな人だかりができていた。ざわめきが、ここまで届いてくる。俺はのんびり歩き寄った。
「嘘だろ、また全滅かよ」
「マジかよ。あそこ、もう何回目だ?」
「また初見殺しか。運営、修正する気あんのか」
ざわめきの中に、聞き慣れた単語がいくつも混じっている。初見殺し。攻略情報なしではじめて突っ込んだプレイヤーを、なんの前触れもなく確実に殺す、悪意すら感じるギミックのことだ。プレイヤーたちの間では、開発が「サプライズ」のつもりで仕込んだものだと信じられている。俺は、少し違う考えを持っている。
人混みを肩で割って、掲示板の前に立った。貼り出されている告知は、赤い縁取りの緊急表示だった。
緊急レイド《残響の回廊》攻略失敗、連続7回目。
レイド名の下には、死亡ログがずらりと羅列されている。日時、パーティー名、死因。全部「不明」で埋まっている。上位ギルド《秩序の盾》の前衛パーティーが、昨日の夜、ボス部屋の入口で全滅したらしい。ログを追う限り、戦闘開始からわずか十数秒での出来事だ。生存者、なし。
「残響の回廊」か。
俺は小さく息を吐いた。あそこには、少し思い当たることがある。開発時代の記憶が、頭の奥でちらつく。あのダンジョンには、確か……いや、よそう。今の俺は、ただのプレイヤーだ。過去のことは、余計な先入観になる。
それでも、足は自然とその方向に向いていた。
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残響の回廊は、中央図書館の地下にある。図書館の裏手にある、目立たない鉄扉。案内表示もろくにない入り口を潜ると、すぐに石造りの階段が下へ続いていた。
石段を降りるごとに、空気が変わっていくのが分かる。ゲームの中のはずなのに、肌にまとわりつくような湿気と、何かが底に沈んで淀んでいるような重たさ。旧世代機は、こういう「気持ち悪さ」まで丁寧に伝えてくる。新世代機のユーザーは、きっとこの重さの半分も感じていないはずだ。
俺はこの感覚を知っている。こういう場所には、だいたい癖がある。バグには癖がある。生きていた頃の癖のように、痕跡として残る。俺はそれを見るのが、昔の仕事だった。
「おい、あんた」
不意に声をかけられた。振り向くと、階段の下、松明の明かりの中に、赤いコートを着た男が立っていた。長身。黒髪はやや逆立ち、目つきは刃物みたいに鋭い。腰には大太刀を差し、柄には妙に古びたリボンのような布が結びつけられている。年季の入った、色褪せた赤いリボンだ。装飾にしては、質素すぎる。
「そのクラス表示、《記録者》だよな?」
男の視線は、俺の頭上にうっすら浮かぶクラスアイコンに向いていた。俺は無言で頷いた。男は片眉をひそめる。
「……本気でこのレイドに入るつもりか? 攻撃力ゼロで?」
「見学だ」
「は?」
「見学させてくれれば、お前らが全滅する場所を教える」
男は一瞬、値踏みするような目で俺の頭からつま先まで見た。装備は最低限。武器はない。持っているのは、腰に提げた古びた一冊の本だけだ。それから、ふっと鼻で笑った。
「面白い。……いいだろう、来いよ、ネタ職。だが足を引っ張ったら即置いていくぞ」
「望むところだ」
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レイドは6人パーティーでの突入制だった。男の名はクロウ。トップギルド《秩序の盾》に所属する《剣豪》のトップランカーだという話は、俺も攻略掲示板で名前だけ見たことがあった。残り4人は彼のギルドメンバーで、後衛の魔導士が二人、タンク役の重装備が一人、回復役が一人。全員が新世代機、NDシリーズのユーザーだった。名前の脇に浮かぶ、小さな端末アイコンを見ればそれと分かる。
俺だけが、旧世代機。OD-1。
黒く、無骨なヘルメット型の旧機だ。今のプレイヤーの九割は使わない型落ち品。画質は粗く、輪郭にはノイズが混じる。長時間の潜行は脳への負荷が大きく、公式サイトにも「長時間使用は推奨しません」と小さく注意書きがある。それでも俺がこれを使い続ける理由は、単純だ。
新世代機は、綺麗すぎる。
NDシリーズに搭載されている「フィルタリング機能」は、不快なノイズを自動で除去してくれる、プレイヤー保護のための快適機能だ、と公式にはそう説明されている。見なくていいものを、親切に、丁寧に、綺麗さっぱり消してくれる。便利だ。快適だ。何も見えなくて、誰もが安心できる。
俺は、それを選ばなかった。それだけだ。理由は、まだ自分でもうまく言葉にできない。
OD-1は、そんな親切機能を積んでいない、ただの型落ちだ。だから、時々、妙なものが見える。輪郭のあやふやな光。誰も気にしない、ただのノイズにしか見えないはずの何かが。
パーティーは松明の明かりを頼りに、狭い通路を進んだ。壁に描かれた古い壁画は、ところどころ欠けて剥がれている。作り込まれた雰囲気だ、と後衛の一人が呟くのが聞こえた。俺は黙って、視界の端に走る違和感を追っていた。
ボス部屋の入り口に着いた時、俺はそれを見た。
(あった。)
巨大な扉の前、空気の中に、薄く青白い光がいくつも揺らめいている。人の形をした、輪郭のあやふやな光。残響だ。削除された、かつてこの場所で戦い、そして死んでいったプレイヤーたちの戦闘記録の残りカス。新世代機のユーザーには、ただの光の乱反射にしか見えないはずだ。誰もそれを気に留めず、扉を押し開けていく。
俺は足を止め、目を凝らした。残響は、かつてここで起きた「全滅」を、無音のまま繰り返し再生していた。何度も、何度も。まるで、忘れられることに抗うように。
見る。
集中すると、視界がわずかに霞み、残響の中の映像が鮮明になっていく。ボスが巨大な右腕を頭上に振り上げる。三秒後、床の特定の範囲、放射状に走った亀裂を結んだ内側に立っていたプレイヤー四人が、一瞬で光の粒になって消える。即死ギミックだ。発動のタイミングは、ボスの左目が赤く点灯してから、およそ二拍半。逃げるための猶予はあるが、知らなければ絶対に間に合わない。
俺はそれを、腰の白紙の書に記録した。ページが淡く光り、一枚、静かに埋まっていく感触がある。記録ページ、0/3が、1/3に変わった。
「おい」クロウが振り返って俺を呼んだ。「何をぼーっとしてる。行くぞ」
「ああ。一つだけ言っとく」
俺は白紙の書を閉じた。パーティー全員が、胡散臭そうな目でこちらを見ている。
「ボスの左目が光ったら、床の亀裂の内側から出ろ。二秒以内に。間に合わなければ、死ぬ」
沈黙が落ちた。誰かが小さく笑った気がしたが、クロウだけは違った。彼は俺をまっすぐ見据えたまま、しばらく動かなかった。攻撃力ゼロの、ネタ職と呼ばれる男の言葉を信じるべきかどうか。トップランカーとしての勘が「ありえない」と告げているのに、七回全滅したという事実の重さが、その勘をわずかに揺らしている。俺には、彼の中でその二つがせめぎ合っているのが見えるようだった。
「……根拠は?」
「見た」
それだけ言って、俺は扉の奥を指差した。クロウはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて短く息を吐いて、剣を抜いた。舌打ちが一つ。決めきれないまま、決めるしかない。そんな顔だった。
「ま、いい。信じてやる。外れたら承知しないがな」
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ボス部屋は、天井の高い円形の広間だった。中央に、巨大な石像の騎士が鎮座している。全身に走る紋様が、心臓の鼓動のようにゆっくりと明滅していた。この世界の魔物は、床に埋もれた核、遺物を中心に動く。そういう設定らしい。だが、近くで見ると分かる。あの紋様の走り方、発光のパターンは、この世界の技術レベルからすると、明らかに浮いている。妙に、洗練されすぎている。まあ、今はどうでもいい。目の前のことに集中しろ。
戦闘が始まった。クロウの剣が、空気を裂くような音を立てて閃く。速い。魔導士たちの詠唱が重なり、光の矢が石像に突き刺さる。さすがトップランカーのパーティーだ、と素直に思う。だが、ボスのHPバーは、削られてもすぐに再生していくように見えた。物理も魔法も、通りが悪いタイプらしい。
俺は部屋の隅で、白紙の書を握りしめたまま、ボスの左目だけを凝視していた。まだだ。まだ光らない。
「そんなところで突っ立ってないで、少しは働け」
回復役の一人が、苛立った声を投げてきた。俺は答えなかった。答える余裕がなかった、というのが正しい。残響の映像と、目の前の現実の動きを重ねて、タイミングを測り続けている。呼吸すら忘れそうになる集中。
来る。
ボスの左目が、赤く光った。
「退げ!」
俺が叫ぶと同時に、クロウが動いていた。俺の言葉を疑う素振りも見せず、反射だけでパーティー全員を亀裂の外へ弾き飛ばす。さすがだ、と場違いなことを思った。一秒。二秒。ぎりぎりだった。
床が、まばゆく光った。
亀裂の内側にあったはずの場所が、轟音とともに一瞬で消し炭になる。熱風が頬を撫でた。攻略情報なしでは、間違いなくここで全滅していた光景だ。
静寂が落ちた。誰も、しばらく声を出さなかった。
クロウは、消し炭になった床を凝視したまま、動かなかった。信じて動いたはずなのに、いざ結果を目の当たりにすると、頭がまだそれを処理しきれていない。そんな横顔だった。剣を握る手に、力がこもりすぎている。
「……偶然、じゃないよな」
独り言のような呟きが漏れた。誰に向けたものでもなかった。
「……お前」
クロウが、剣を下ろしてこちらを振り返った。息を切らしながら、探るような目で俺を見る。
「どこでその情報を仕入れた? 攻略サイトにもまだ載ってなかったはずだ」
「見ただけだ」
「見た? 誰から」
「誰からでもない」
俺は答えをはぐらかしたまま、ボスを見上げた。ボスは動きを止め、紋様の発光がゆっくりと落ち着いていく。この手の即死ギミックは、一度回避されると安全モードに入る仕様だ。もう一度、残響を頭の中で再生して、次の攻撃パターンを確かめるのに、一秒もかからなかった。
「次は右足の踏み込みに合わせて、真後ろに回り込め。硬直が長い」
俺が言うと、クロウは何か言いかけて、口を閉じた。まだ半分は疑っている目だった。一度の的中は、まぐれで説明がつく。だが、これで二度目だ。まぐれで片付けるには、あまりに具体的すぎる。彼はしばらく黙り込んだあと、結局、剣を構え直しただけだった。反論する材料が、自分の中に見つからなかったんだと思う。
指示通りに動いた結果、ボスの猛攻を紙一重で凌ぎきる。硬直した巨体に、パーティー全員の攻撃が一斉に叩き込まれた。
「……あんた、何者だ」
「ただの記録者だよ」
俺は白紙の書を開いた。さっき記録したページが、淡く光っている。指先でなぞると、頭の中に映像が流れ込んでくる感触があった。
再生。
俺の目の前の空間に、さっき見た残響がもう一度、静かに再生された。かつて全滅した四人のプレイヤーの、最期の瞬間。悲鳴も、警告も、届かなかった過去。新世代機を使うパーティーメンバーたちには、それは何も見えていないはずだった。俺と、白紙の書の間だけで、失われた記録がもう一度だけ走った。
クロウの顔から、完全に軽口が消えていた。彼は、俺の頭上に浮かぶ何もない空間、俺にしか見えていないものを見透かそうとするように、しばらく睨みつけていた。それから、ゆっくりと自分の両手を見下ろした。まるで、その手の中に握っていたはずの「強さ」の重みを、初めて疑うような仕草だった。
「……見えるんだな」
低い声だった。剣を鞘に収めながら、それでもまだ、俺の頭上のクラス表示から目を離さない。
「俺には見えないものが、お前には見えてる。……それが《記録者》か」
声には、素直な驚きだけでなく、何か別のものが混じっていた。認めたくない、けれど認めざるを得ない。そんな響きだった。俺は何も答えなかった。答える必要もなかった。ボスの残りHPを一気に削り切ったパーティーが、勝利のファンファーレとともに歓声を上げる。俺はその輪の外で、ただ白紙の書を閉じた。
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レイドの帰り道、クロウたちは俺を見る目を、はっきりと変えていた。何人かは、まだ半信半疑という顔をしていたし、何人かは値踏みするような視線を寄越した。クロウだけは、最後まで何も言わなかった。ただ、別れ際に一度だけ振り返って、俺の顔をじっと見た。何か聞きたいことがあるのに、それを言葉にできずにいるような顔だった。俺はそのどちらにも興味がなく、適当に別れの挨拶をして、一人、地上への階段を上った。
広場に戻ると、夜はすっかり更けていた。俺はいつもの癖で、中央図書館の方へ足を向けた。理由は特にない。強いて言うなら、あそこの空気だけは、他のどこよりも「静かに壊れている」感じがして、落ち着くからだ。
図書館の入り口に、一人のNPCが立っていた。
司書の少女。銀髪をゆるく結い、大きな丸眼鏡をかけ、白い司書服に身を包んでいる。名前は、シオン、だったか。案内役の固定NPCで、初めてこの図書館を訪れた時からずっとここにいる。俺はこのNPCが、正直、少しだけ苦手だった。
理由は単純だ。このNPC、妙に生きている。
「あ、今日もいらっしゃいましたね」
シオンが顔を上げて、柔らかく微笑んだ。表情の作り込みは丁寧だが、それだけでは説明のつかない何かが、その笑顔にはある。
「ああ」
「おや」彼女は俺の腰の本に目をやった。「新しい記録を。白紙の書に、ですね」
俺は一瞬、足を止めた。
普通、NPCがプレイヤーの固有装備の状態変化なんて言及しない。まして、ページが一枚増えたことに、見ただけで気づくなんてことは。案内NPCのAIとしては、明らかに出来すぎている。
「……なんで分かる」
「ここに、ありましたよ」
シオンは、まるで長年の友人にするように、目を細めて言った。
「あなたの、新しい記録」
言い方が、妙だ。「新しい記録が増えましたね」ではなく、「ここに、ありましたよ」。まるで、俺が何かを探していて、それをようやく見つけたのを、代わりに喜んでいるような言い方だった。
俺は背筋に冷たいものを感じた。このNPC、プログラムにしては出来が良すぎる。良すぎて、少し怖い。
「……お前、名前はシオン、だったか」
「はい」
「一つ聞いていいか。お前は、ここで何をしてる?」
図書館の案内をしている、という当たり前の答えを期待していたわけじゃない。ただ、聞かずにはいられなかった。シオンは、俺の質問に少しの間、答えなかった。首をわずかに傾げ、それから、ふっと視線を宙に泳がせた。焦点の合わない、遠くを見るような目だった。
「待って、います」
「何を?」
「覚えて、いますか?」
質問に質問で返された。俺は答えられなかった。何を覚えているか、と聞かれても、思い当たることがない。それなのに、胸の奥が、妙にざわついた。まるで、本当は何かを思い出さなければいけないのに、思い出せないでいるような、そんな感覚。
その時だった。
図書館の奥、崩れかけて削除されたような不自然な穴が空いた本棚の影に、もう一つの「それ」がいた。半透明の、少年のような影。残響だ。だが、いつものプレイヤーの残響とは、明らかに質が違う。もっと薄く、もっと不安定で、今にも消えそうに揺らいでいる。NPCの、削除されかけの残響。
他の誰にも見えない。俺と、OD-1にだけ見える光景。
少年は、まっすぐに俺を見た。
そして、口を動かした。声は出ない。空気の震えすら伝わってこない。それなのに、なぜか、俺の頭の中には、はっきりとその言葉が届いた。
『この世界は、もう一度やり直せるの?』
俺は息を止めた。
少年の輪郭が、風に溶けるように、粒子となって崩れていく。手を伸ばそうとした瞬間には、もう何も残っていなかった。後に残ったのは、崩れかけの本棚と、何事もなかったかのように棚に本を並べ直すシオンの横顔だけだった。
俺は震える手で、白紙の書を開いた。
記録する。あの少年の言葉を、二度と削除されないように。俺の仕事は、記録することだ。失われたものを、なかったことにしないことだ。それが、この最弱職に与えられた、たった一つの意味のような気がしていた。
指先が震える。ページの上に、少年の言葉が静かに刻まれていく。ページを埋める。記録ページ、1/3が、2/3に変わった。
そして。
ページを閉じようとして、俺は凍りついた。
最終ページの隅に、俺が書いた覚えのない文字が、淡く、青白く浮かんでいた。
『君は、まだ思い出していない』
俺はしばらく、その文字から目を離せなかった。誰が。いつ。どうやって。疑問は次々に湧いてくるのに、答えは一つも見つからなかった。
図書館の窓の外、広場の時計塔が、重々しく午前0時を打った。俺は白紙の書をゆっくりと閉じ、ログアウトボタンに指をかけた。指先が、まだ少し冷たい。
この世界は、おかしい。
俺はそれを、ずっと前から、薄々知っていた。知っていて、目を逸らし続けてきた。だが今日、その違和感は、確かな輪郭を持ち始めている。
仕様だろ。
そう小さく呟いて、俺は静かに目を閉じた。
視界が白く弾け、現実の重さが、指先から戻ってくる。
第1話を読んでいただき、ありがとうございました。
攻撃力ゼロの《記録者》に何が見えているのか。白紙の書に浮かんだ一文は、誰が書いたのか。これから少しずつ明かしていきます。
次話、ログアウトしたセナは現実でひとつのニュースを目にし、ゲームの中では、古い機体を使う一人の少女と出会います。
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