第32曲 葛藤
「何かを始めるのに遅すぎるということはない」
つまり投稿が遅れたとしても遅すぎるということは…
すいません。遅すぎましたね、はい。
階段を降る中、等間隔に置かれる燭台の蝋燭の炎が階段を照らし薄暗い空間を作り出す。三人はそんな中で足を動かし、ただひたすらに階段を降っていた。
今現在、ローブをロッカーに入れたままここ迄来たメイビスだが、そんなことには当然気付いており、既に《物体転位》の魔法で取り寄せ、装備している。勿論、《施錠》魔法を解除してから取り寄せている。いや、この場合は解錠の方が正しいか。
窮鼠とタナカの二人が案内をする中、メイビスの思考は戸惑いに支配されていた。それはジリジリとメイビスの思考を蝕み、犯して行く。その正体にメイビスは既に気付いている。
“何故、彼処まで窮鼠に詰め寄ったのか。”
それが今の俺の脳内の半分を埋め尽くしている。
冷静に考えれば、パンドラが落ちたとしても傷など負う筈も無く、またパンドラに適う存在も少なくともここにいる可能性が低いということも理解できただろう。それに今迄の態度を顧みれば、窮鼠が此方に危害を加えるなど有り得ない話だ。ただの悪巫山戯。ちょっとした悪戯。それは場の空気からも窮鼠の態度から察せた筈だ。
だというのに、何故自分はあれ程の焦燥を、言い様もない恐怖を覚えたのだろう。
パンドラが目の前から消えた時、今迄に無い激しい焦燥と、それ以上の恐怖が心を支配した。頭が真っ白になるという表現が最も相応しいのだろうか。パンドラの姿を見失った瞬間、パンドラのこと以外何も考えられなくなった。だからこそ彼処まで過激な行為に及んだのだろう。
パンドラの無事を確認し、頭が冷え冷静になった今だからこそ分かる。あの時に感じた恐怖、あれは『パンドラを失うことへの恐れ』なのだろう。
目の前から急に消えたことに焦り、もう会えないのでは無いかと恐怖する。まるで迷子の幼子のようだと、自身の精神の脆弱さに溜息が漏れる。
そして、もう半分の戸惑い。
“何故、窮鼠を殺すことができなかったか。”
あの時、焦りから生じたとはいえ殺意を抱いて窮鼠に迫った時、彼を殺してもおかしくはなかった。いや、俺が設定したメイビス・クライハートならば、残虐非道の限りを尽くす最凶最悪の死神としてパンドラの安否に関わらず確実に殺しただろう。
だというのに、動かなかった。あれ以上、指を動かすことができなかった。まるで身体が金縛りにあった様に、指一本たりとも動かせない状態に陥ってしまった。
原因は、薄々気付いている。あれは『俺』の心が拒絶したのだ。メイビス・クライハートの身体が誤作動を起こしたのでは無く、俺が殺害するという事実に耐えられ無かった。
考えてみれば当たり前のことだ。つい数日前迄こんな物騒な世界とは無関係だった一般人が人を殺せる筈が無く、獣や魔物、異形を殺すのとは訳が違う。元人間が人間を殺すというのは、この凡夫な魂では背負うには重た過ぎる罪だと理解している。元人間の一般的倫理観と道徳観を持つ俺が人を殺せないと苦悩するのははっきり言って異常なのだろう。
それがどうした。
かつて、動屍となったコボルト達をメイビスらしく惨殺しようとした時があった。その時はそんなことは間違いだと、俺は俺らしくしようと思い、非道を行うことは無かった。
しかし、今の俺はこの世界に来たばかりで目標も目的も何も無かった頃とは違う。今の俺は眷属達の為にこの身も魂も全てを捧げると決めた一人の死神だ。眷属達を害する存在に慈悲を見せてはならない。倫理観も道徳観もかなぐり捨て、殺してでも排除しなければならない。
最早、『俺』は『俺』では無いのだから。
だからこそ人を殺せないというのはこれ以上無い緊急事態だというのに、それとは反比例に俺の頭は冷静に物事を俯瞰していた。体と心が伴っていないのだろう。唯、解決すべき案件としてこの事は脳に保管された。それが何故かと言うと、自分でも分からない。唯一つ、分かるとすれば、心が拒絶しても身体はそうでは無いということだ。メイビス・クライハートというキャラクターならば殺すという行為は息をするように行える。だからこそこの案件を取るに足らぬ妄言として捉えているのかも知れない。
暫く思考の海に潜っていると、窮鼠とタナカの足が止まった。それに合わせてメイビスの意識が深海から浮上し、自分も足を止めた。目の前には黒い鉄製の扉。それを窮鼠が取り出した鍵の束から選んだ鍵で解錠し、扉の向こうへと足を踏み入れる。
その場を一言で表すならば、監獄、という言葉が相応しいのだろうか。真っ直ぐと続く一本道の両脇にあるのは壁ではなく檻。その中には獣や魔獣といった人ならざる者が閉じ込められ、今も忙しく吠えたて鳴いている。
振り返りメイビスの方を向いた窮鼠だが、振り向いた途端にきょとんとした表情になる。
「いつの間に上着を着ていたんですか?」
「階段を下りている時に取り寄せた」
「そんなこともできるんですか」
「驚きです」とだけ窮鼠は言い、この話は終わる。窮鼠もメイビスの規格外ぶりに早くも慣れてきたのだろう。そして直ぐに思い出したように此処が何処なのかを告げた。
「ここが下水道地下一階です」
下水道に居た時点で地下なのだが、その下水道から更に地下という意味で地下一階なのだろう、と推察するメイビスに、今はもう本調子、とは言えないがそれなりに回復した窮鼠が説明を始めた。
「ここでは研究用の獣や魔獣を捕らえています。ここの子達は皆素直でとっても扱い易いんですよ」
そう微笑む窮鼠の笑みはどす黒く、この年頃の子供がして良い表情とは到底思えない。精神の回復速度も含め、曲がりなりにも闇の組織の長なのだと改めて理解した。
「……騒がしいな」
メイビスは思わずぽつりと零した。そしてこの薄暗い空間で吠えたてる動物達を見渡し、軽く重圧をかけその言葉を放った。
「黙れ」
一言、たった一言で先程迄吠えたて鳴いていた動物達が沈黙した。それどころか仰向けに転がり、腹を見せ降伏の態度を示している。
「まー、こうなりますよねー」
最早達観したように笑う窮鼠にタナカもどう声を掛けようかと四苦八苦している。
「それで、パンドラは何処だ」
「この先の第一研究室と隣接している第二研究室に居ますよ」
そう言ってまた窮鼠とタナカは歩き出した。それに連られてメイビスもその後ろについて行く。何故こんな所に研究室があるのか、研究室というのはどういう所なのかと想像していると、此方が何を言わずとも彼はその説明を始めた。
「ここに居る動物達の研究は第二研究室で行うので研究室はここに無いと駄目なんですよ。実験の内容も内容なので動物達が暴れたりするのも珍しくありません。なので実験を行う場所もそれなりに広さが無ければ駄目でして、それが丁度今回の試験会場としてベストなんですよ」
成程、確かにここの動物達は動物園に居るような穏やかなものではない。連れ出すだけならまだしも、実験を行うとすればそれ相応の抵抗をするだろう。だからこそそれなりに広い空間が必要なのだ。
「着きましたよ」
窮鼠の示した先には扉の上に『第一研究室・職員用入口』とプレートが備え付けられた部屋があった。ここは職員用なので扉は人間大の大きさとなっている。
「パンドラがいるのは第二研究室ではないのか?」
「ええ、そうですよ。流石に試験会場に入れる訳にはいきませんから研究室から様子を見る、ってとこで手を打ってくれませんか?」
「……まぁ、良いだろう」
「いやー、そう言ってくれると此方も助かります」
先程迄とは違い、頭が冷めているので苦渋の決断でメイビスは了承した。その返答に安堵する窮鼠と共に、その扉の先へと足を踏み入れた。
そこは部屋の中心にテーブルと椅子が置いてあるだけの狭い質素な空間だった。これの何処が研究室だ、と問う前に窮鼠は俺に向かって衝撃発言を繰り出した。
「じゃ、脱いで下さい」
「変態かな?」
「ああ、当然僕も脱ぎますよ」
「変態だな」
このショタ、随分と女じみた振舞をしていると思っていたがやはりソッチ系の人間だったか。態々こんな薄暗い所に連れて来たのも俺の身体が目当てだったのだ。巫山戯るな、俺の初めては俺を愛してくれる幼女に捧げるんだァ!勿論合意の上で!
などと供述しているメイビスだが、そんな未来は到底有り得ない。何故ならこの男、幼女は触れるものでは無く、愛でるものと捉えているからだ。俗に言う“YESロリータNOタッチ”の精神である。例え身近に愛し合いを迫って来る蜘蛛童女がいたとしても事に及ぶことは無いだろう。簡単な話、ヘタレである。
「勘違いしているところ悪いですが、研究室は基本無菌空間なので身体を浄化する必要があるんですよ」
「それを早く言わないか」
「あはは、やだなぁ。僕が男性に対して性的欲求を覚える性癖だとでも思ったんですか?ちゃんと女性も好きですよ」
「そうか。………おい待てもって何だもって」
「さあー脱いじゃいましょうかー」
「おい惚けるな。まさかバイか?バイなのか?」
結局窮鼠はメイビスからの疑問に答えることはせずに誤魔化し、その件は闇に葬られた。仕方なくメイビスも着ているものを脱ぎ、ロッカーに閉まおうとして、窮鼠から待ったがかかった。
「あ、衣類も浄化するのでタナカに預けて下さい」
どうやら殺菌は徹底しているようで衣服も消毒の対象に当たるようだ。正直に言うと渡したくないというのが本音だが、手渡すしか無いだろう。というのもメイビスの装備はどれも最高クラスの品だが、あくまでアイテムの域から出ないものである。故に、今のメイビスと同等、若しくはそれに近い力を持つ者には影響を受ける。カーデットとの戦いでローブを裂かれたのが良い例だ。ここで話は変わるが、眷属の一人であるテレサは身体の半分が腐敗している。そんなテレサと常日頃から顔を合わせているメイビスだが、その装備品がテレサの影響を受けるか否か。当然受ける。つまりは消毒をする他無いということだ。
そういう訳でメイビスは渋々ながらも全ての装備品を手渡した。
「此方、お預かり致します。必ず貴方様の元へご返却致しますのでご安心下さい」
まるで熟練の執事を思わせるその対応にメイビスはある程度の信頼をおき、装備品を全てタナカに託した。尚、現在メイビスは全裸である。
「浄化室は彼処です」
既に着物を脱ぎ去りすっぽんぽんの状態の窮鼠が浄化室とプレートに書かれている部屋を指差し、そこに向かう。中はシャワールームのようで、密閉された空間の中、窮鼠とメイビスは全裸の状態でその部屋の真ん中に立った。すると直ぐにシャワーノズルらしき装置から恐らく浄化液と思われる液体が吹き出し、二人の身体を隅々まで濡らしていく。その様はプールのシャワーを彷彿とさせる。
「この浄化機能は、水を貯める魔道具を改造して中身を聖水に変え、雨のように降らせられるんですよ」
「ほぉ、随分と文明が進んでいるな」
「開発組の大将の方がとても優秀なんですよ。でも少し身体弱いので研究室から出られないんですよね」
「それはまた難儀なことだな」
「研究室が無菌空間で保たれているのも一重に彼女のお陰、と言えば聞こえは良いですが実際は彼女が無菌空間以外で生活できないからなんですよね。この前もうっかり外に出たら日光で全身大火傷しちゃいまして」
「生死の境彷徨うレベルの重傷負ってるんだが」
そんな会話を交わしながら消毒液を浴び続ける二人。これが数分間続き、漸く消毒液の雨は止んだ。足元に溜まっていた液体は排水口に吸い込まれ全て消えていった。すると今度は全方位から温風が吹き、二人の身体を乾かしていく。窮鼠曰くこれは風属性の魔道具を利用しているらしい。窮鼠は兎も角、メイビスは長髪なのでその白い髪が風で激しく舞う。数分もするとそれも終わり、消毒作業は終了した。
消毒室からその奥へと進むと、既に消毒された装備品が籠の中に丁寧に畳まれて入れられており、タナカの仕事の速さと丁寧さに驚愕しながらも素早く装備品を身に付けた。横を見れば窮鼠も着替えを終えており、この場に居ないタナカは試験の準備をしていると窮鼠が告げた。
「さて、これで漸く研究室に入れますよ」
本当に漸くだな、と不満を覚えつつもメイビスは素直に案内を任せる。
窮鼠が案内した先は研究室というに相応しい空間だった。机の上には様々な分野の本が積まれ、硝子製のフラスコや試験管等の器具の中には色鮮やかなものからどす黒い色のものまで様々な種類の薬品が入れられている。薬品棚らしき家具も有り、如何にも研究室という空間だ。
しかし、そんな空間で最も目立っているのは一面だけ硝子張りの壁だ。何故かその部分だけ壁が硝子張りになっており、外の様子が伺えた。と言っても先程の動物達の方向では無く、その反対側。硝子の先にあるのは何も無い白い空間だ。そこは先程の試験会場程の広さは無いものの、十分に広く、かつ円柱形の空間だった。
「この硝子の先にあるのが第二研究室。パンドラさんの試験会場です」
「これはまた凝った作りだな」
「これなら実験の様子を見ながら研究できる。ということでこんな仕様になりました」
確かに、ここからなら第二研究室の様子が全て見える。円柱型の空間なので死角がない構造になっているのだろう。よく見ると鉄格子のような扉があり、彼処から実験動物が入って来るのだろう。
見ると、試験会場の真ん中に既にパンドラは立っており、此方に向かって手を振っている。楽しそうにしているので見た所無事であることが確認できる。メイビスは一先ず胸を撫で下ろし、手を振り返す。
その様子を見守ってから窮鼠は試験内容について切り出した。
「パンドラさんには既にタナカが伝えていますが、今回の試験内容は『粛清』。今から解き放つ標的を殺害することが試験の合格条件です。制限は有りません。自身の持てる力の全てを用いて乗り越えて頂きます」
粛清。その言葉に引っ掛かるものはあるものの、試験内容は至ってシンプルで分かりやすい。簡単に言うと、何をしても良いから標的を殺害すれば合格、という内容だ。これならばパンドラが負ける確率は零に等しい。もし危なくなってもここからならば直ぐに駆け付けることができる。メイビスとしてもこの試験内容は有り難いものだった。
「そして、標的はアレです」
すると、鉄格子の扉がシャッターのように持ち上がり開かれる。その標的をメイビスが認識した瞬間、息が止まった。そこから出てくるのは実験動物である魔獣、ではなく人間だった。三メートルは優にあるその身体は筋肉が異様に膨れ上がり、左右非対称の歪な姿で血管は浮き上がり目は血走っており、最早人間とは言えない状態だが、それでも元は人間だと確認できる。
「彼は元溝鼠の人間でしたが、我々の存在を明るみにしようとした為、罰と研究の意味を込めてありとあらゆる劇物を打ち込みました。彼の身体は最早人間の範疇を軽く凌駕していますが、脳が溶解してしまったのでもう長くはありません。このまま死なせるのも勿体無いので戦力調査とゴミ掃除を兼ねて試験として粛清してもらいます」
メイビスは時間が止まったような錯覚に陥った。窮鼠の非人道的な所業に呆然とした訳では無い。後暗いどころか完璧な犯罪組織なのだ。これ程では無いがある程度の残酷な行い予想はしていた。
誰が殺すと言った?これを、人間だったものを、誰が殺すと言った?
「アレをパンドラさんには殺してもらいます」
一瞬、頭が真っ白になった。
何れは起こり得ることだと理解していた。どうしても避けられない事態だと、分かっていた。だが、自分ですら人を殺せない俺が、果たして最愛の眷属が人間を殺すことに耐えられるのだろうか。分からないが、何かしらの心の変化が起こると、根拠も何もないがそんな気がする。
メイビスには何もできない。ただ見守ることしかできない。パンドラは果たしてどのような選択をするのか。それは本人以外には分からない。だが、メイビスは知っている。“最狂”と呼ばれるパンドラの抱く、狂気を。
試験開始の合図がかかる瞬間も、パンドラは笑顔を貼り付けていた。
《物体転移》
対象物を手元に転移させる魔法。対象物の姿形と位置する場所を理解していれば発動する。忘れ物した時に便利。
《威圧》
相手に威圧感を与えるスキル。常時発動型。効果はレベルに応じて変化する。メイビスが発言して恐れられるのはこれのせい。今回は動物が服従した。
《魔道具》
魔法効果を持つ道具。人々の生活には欠かせないほどに浸透している。
《人体実験》
溝鼠における処刑法の一つ。粛清対象の処罰、実験、排除を一挙に行える合理的な方法。人道には反するので注意が必要。
《葛藤するメイビス》
殺人に対する拒絶反応が現れている。まだまだ人間らしい。
メイビスの殺人拒絶反応はもう少ししたら吹っ切れます。ちゃんと悪逆非道の限りを尽くすようになります。改心するとかいう展開はありません。ご安心(?)ください。




