獅子
維心はいつもの椅子に腰かけると、維月に手を差し出して自分の横へ呼んだ。維月はその手を取って維心の横に座り、前の椅子に腰掛けた炎嘉が話し出すのを待った。
炎嘉は維心をじっと見て言った。
「維心、獅子族の観を覚えておるか?」
維心は意外なことだったらしい。片眉を上げて反応したが、頷いた。
「主と共に戦こうた戦で討ち損なった王族よな。観と、暦。」
炎嘉は頷いた。
「あれが生き残っておった。緋月をさろうたのは、観よ。」
維心は眉を寄せて視線を落とした。
「よくぞ緋月は生き延びておったものよ。それともあれには我の子と言わぬだけの良識があったのか。」
炎嘉は首を振った。
「緋月は己が何者か素直に答えたようであるな。観が、緋月を逃がしたのだ。」
維心は目を見開いた。維月にはよくわからなかったが、炎嘉がその時観が緋月に語ったことを話すのを聞くにつれ、状況が読めて来た。
観は、己の一族を滅ぼされたにも関わらず、今の居場所で己の立場が悪くなるかもしれない危険を顧みず、緋月を炎嘉に渡したのだ。
維心は言った。
「…観は、我が思っていたよりずっと王の器であったのであるな。殷が侵攻さえしなければ、今頃は天下を分けるほどの大きな宮の王であっただろうに。」とため息を付いた。「それで、主は我にどうせよと言うのか。」
炎嘉は椅子にそっくり返った。
「何も。」維心が眉を寄せるのを見て、炎嘉は言った。「我は今、王ではない。それは主の決めることであろうが。だが、我の気持ちとしては、なんとかしてやって欲しいがの。」
維心は首を振った。
「王であるから動けぬのだ。それは主もわかっておろうが。どんな理由があるにせよ、あれは賊ぞ。それをどうにか出来るはずはあるまい。公に動けぬのが王だ。それは主もわかっておろうが。」
炎嘉は、しばらく黙り込んで、じっと考え込んだ。眉を寄せている。維月は炎嘉が機嫌を悪くしたのかとハラハラしたが、しばらくして、炎嘉は言った。
「…よし!」と立ち上がった。「主は何もせんで良い。ただ、知らぬふりをせよ。わかったな。」
維心はため息をついた。
「まあ、主ならそれも許すが…」と維心はじっと炎嘉を見た。「ただ、やり過ぎるなよ。わかったの。」
炎嘉は頷いて、サッと歩いて行こうとして、ハッとして振り返った。
「おお維月、またの。」
そして今度こそ出て行った。維心は維月を引き寄せた。
「まったく、あやつはいつまで主に懸想しておるつもりぞ。この際緋月でも良い。あれを止めてくれるのなら嫁にやろうほどに。」
維月は眉を寄せて維心をたしなめた。
「まあ維心様!ご自分の娘をそのように…。」
「今回ばかりは、あれを死なせたと思うたゆえ。」維心はため息を付いた。「死なせるぐらいなら、嫁にやったほうがまだマシだと思うた。もう、娘は要らぬ。我は娘を育てるのは向いておらぬ。誰か力の強い神に嫁がせて、そやつに守らせようぞ。義心でも良いわ。とにかく、我はもう娘は育てとうない。」
維心がそう言って拗ねたように横を向いたので、維月は苦笑してため息を付いた。
「さあさあ、維心様…」と維月は維心の手を取った。「緋月の様子を見に行ってやりましょう。嫁にやるにしても、よく考えねばなりませぬわ。嫁がせるまでは、私達に責任があるのですから。」
維心は渋々立ち上がった。維月はその手を引いて、緋月の部屋へ向かった。
炎嘉は、帰る前に緋月の部屋へ寄って、様子を見ていた。元気なようだが、それでも憔悴しているのには変わりない。炎嘉は言った。
「緋月、気持ちは落ち着いたか?」
緋月は炎嘉の声に、寝台から起き上がった。
「炎嘉様!我は…観様やその他の神達が心配で。」
龍の軍神達は優秀だ。もしも皆斬り殺されていたりしたら…。
炎嘉は微笑した。
「大丈夫ぞ。主は安心しておれ。我が全て良いようにするゆえな。維心も見て見ぬふりをしてくれるようであるし、安心せよ。」
緋月は炎嘉を見た。
「お父様にお話しになったのですか?」
炎嘉は頷いて、緋月の頭を撫でた。
「そうよ。あれと我は前世で共に戦った仲であるしの。獅子は…我も共に討ったのだ。こちらに向かって侵攻して参ったので、維心と共に討ち滅ぼした。なので、あれは維心一人の責ではない。我の責でもあるのだ。なんとかせねばの。」とため息を付いた。「維心は今も王であるし、表立って何か出来る立場ではない。なので我が此度は動かねば。」
緋月は子供の頃からのように、炎嘉に抱きついた。
「炎嘉様!ありがとうございます。」
炎嘉はためらった。しばらく会わぬ間に、もっと維月に近くなっている。まだ弱いが、気も確かに近かった。炎嘉はそっと緋月を離すと、言った。
「では、我も参らねばならぬゆえ。体をいとうのだぞ。」
出て行く炎嘉を見送りながら、緋月はホッとしていた。きっと、炎嘉様ならなんとかしてくれるはず。小さな子供の頃から、我がお父様に叱られて居たら、どこからともなく現れて、助けてくれた。誰もあのお父様には意見出来ないのに…。
入れ替わりに、先触れがあって、父と母が入って来た。母が緋月に進み出て、抱きしめた。
「緋月、本当に無事でよかったこと。それは心配していたのよ。」
緋月は母に抱きついた。
「お母様…ご心配をお掛けして申し訳ございませぬ。」
そして、母と離れると、父に向き直った。
「お父様。」
緋月は寝台を降りようとする。維月はそれを止めた。
「そのままで良いのよ。怪我をしているのだから。」
緋月は首を振った。
「これは斜面を転がり落ちましたの。大丈夫ですわ。かすり傷です。」と維心を見た。「お父様、この度はご迷惑をお掛けして申し訳ございませぬ。我は…何も知らなかったことを、此度の事でやっと知りました。我などお父様の庇護下から出たらなんの力もなかった。それでも、我は己がどれほどに恵まれておったのか、やっと知ることが出来ました。もうこのようなことは致しませぬ。お許しくださいませ。」
緋月は深く維心に頭を下げた。維心は無表情でそれを見ていたが、頷いた。
「…己の立場を知り得たのであれば、此度のことは主のために良かったのだと思う。だが、そろそろ主も先々のことを考えて行動し始めねばならぬぞ。この宮の皇女として恥ずかしくないように、どこへ嫁いでも良いように学ぶ機会を持つのだ。それは教育係の者に申し付けておく。」と維心はフッと息を付いた。「わかっておろうが、もうこれ以上母を心配させるような事は致すな。」
緋月は頷いた。そして思った。嫁ぐ…我は、皇女なのだ。いずれどこかへ嫁がされるのだ…。
そう思うと、王族の責務が思い出されて、胸に迫った。宮の利益になるように考えて嫁がされる。王族の結婚は、臣下が決める。今まで意識したこともなかったのに、なぜかそれがとてもつらいことのように思えて、緋月は気分が沈んだ。でも、他の宮のかたに比べたら、私は恵まれているのだから…。
維月が気遣わしげに緋月を見た。
「緋月?どこか痛む?…今夜は母が付いていましょうか。」
緋月は慌てて首を振った。
「大丈夫でございまする。お母様…ありがとうございます。」
緋月はまた、母に抱きついた。母は微笑んで、緋月を抱き留めると、髪を撫でた。
「本当に…大きくなっても赤子のようだこと。良いのよ。私はここに居るわ。」
と、維心を見た。維心はハッとして維月を見た。緋月を抱き締めて頭を撫でている維月を見ていると、まるで自分のようだと思っていたのだ。維月にとっては、我も子供なのかもしれぬ。維心は、仕方なく頷いた。
「では、我は部屋へ帰っておるゆえ。」と出て行き掛けて、振り返った。「明け方には帰るのだぞ?」
維月は苦笑した。今から明け方って、もう三、四時間ぐらいしかないのに。しかし、微笑して頭を下げた。
「はい。おやすみなさいませ。」
維心は軽く頷いて、出て行った。
炎嘉は、一人世の明け切れぬ空を、あの鳥族の周波数を読みつつ飛んでいた。
あの膜の中にあると、己の気も相手に気取らせぬ代わり、相手の気も相手から気取ることが出来なくなる。神でありながら、目視だけに頼って、敵の接近を知らねばならない。炎嘉は、それを知っていたので、気配は消さずに相手の視界に入らないことだけを考えて、周波数を探った。
元は鳥族の王であった炎嘉のこと、それを読み取るのはお手の物だった。おそらく、向こうはなぜ炎嘉が膜の中を知ることが出来たのか分かるまい。そして、鳥族が居る限り、この周波が無くなることはなかった。炎嘉は難なく屋敷を逃れて行っていた膜を被った一団を見つけることが出来、迷ったが、こそこそとするのは性に合わぬといきなりその頭上へ舞い降りた。
途端に、膜の中はパニックになった。予想はしていたことだったので、炎嘉は声を張り上げて言った。
「ここに、鳥族の帥明はおるか?我の前へ出よ!」
急にシンとなった膜の中で、あの夜、板の間に座っていた男が立ち上がった。そして、炎嘉をまじまじと見ると膝を付き、言った。
「王よ。お久しぶりでございます。まさか我を覚えてくださっておったとは…。」
炎嘉は頷いた。
「帥加の子であるな。久しいの。しかし我は、今はもう鳥ではない。主の嫌っておる、龍よ。それは知っておろう?」
帥明は悲しげに炎嘉を見上げた。
「…はい。王、我が王と思うておったのはあなた様のみ。王が在位中であれば、あのようなことにはなり申さなんだ。我は…今も、王は炎嘉様だと思うておりまする。」
炎嘉は、帥明が気の毒になった。これもまた、過去の栄光に焦がれてすがっておった一人であるのだ。我が逝ったばかりに…。
「我は王ではない。」炎嘉は言った。「帥明、主の今の主はどこだ。我は主が生きておると知って、もしかして他にも鳥が生き残っておるのではないかと思うた。ゆえ、急ぎ主の気配を探って参ったのだ。」
帥明は、希望の光が灯るような気がした。
「あ、あれに!」帥明は指差した。「行き倒れておった我を拾ってくださった我が当主でございまする。」
炎嘉が昨夜、暗闇の中で見た、観がそこに座っていた。観は、どうやらこちらが昨夜の龍だと気付いているらしい。だが、何も言わずに炎嘉を見た。
炎嘉は、仄明るくなって来たその中で、その顔を見た。間違いなく、殷の子。似ている…。
「…観。我を恨んでおるか。」
炎嘉は唐突に言った。帥明が驚いた顔で観と炎嘉を交互に見た。どういうことだ?
「ふん、あの時の鳥の王か。」観は手を振った。「滅ぼされたのは遙か昔、それにあれは父が悪いのよ。今になって思うがな。己の分をわきまえておらなんだのだな。鳥と龍相手に、世を制するなど…ゆえ、恨んでなどおらぬわ。」
帥明は炎嘉を見た。
「…当主の宮を滅ぼしたのは…、」
「我と龍王よ。」炎嘉は言った。「恨むなら、主のことも憎いであろうな、帥明。鳥なのだからの。よって、観は鳥も龍も恨んでおらぬ。本心であるな。」
帥明は、その戦のことは知っていた。だが、まさか観の宮だとは思ってもみなかった。何しろ自分はまだ生まれても居なかった頃の歴史で…鳥は、龍と共に獅子を滅ぼしていたのだ。そしてまた、鳥も滅ぼされ…逃げた自分を助け上げたのは、昔滅ぼした宮の皇子だった…。
「観よ。主に話がある。」炎嘉は言った。「我はまだ、正式に軍に今回の事を報告しておらぬ。ゆえ、考えがあるのよ。主と話したい。」
観はじっと炎嘉を見ていたが、立ち上がった。
「わかった。弟も連れて参る。」と暦を見た。「主も来い。」
「はい。」
そして、皆を振り返って、脇へ寄るように指示した。
「直に日が射してくる。可視出来ぬように岩のほうへ寄れ。帥明!主も来い!」
帥明は遠慮がちに立ち上がると、少し離れて遅れて、三人に着いて歩いて行った。




