第3話 思い出の残し方
「……ん……りょう、すけ……?。」
タクシーの薄暗い車内。
俺の肩に頭を預けた唯人が、掠れた声で呟いた。
メガネは外してジャケットのポケットにしまってある。前髪が乱れ、露わになったその目元は、驚くほど頼りなかった。中学生時代、俺の後ろをいつも追いかけていた、あの頃の唯人のままに見えた。
「起きたか? もうすぐお前のマンションに着くからな。」
スマートフォンのGPSで確認した住所を運転手に告げ、唯人の体を支え直す。
唯人は熱い吐息を漏らしながら、俺のスーツの袖を、ぎゅっと子供のように掴んできた。
「……な、んで……。」
「ん?」
「なんで、黙って引っ越したんだって……怒ってた、だろ……。」
「あ……ああ。まぁ、当時は寂しかったし、怒ってたよ。水臭いなって。」
「言えるわけ、ないだろ……。」
唯人の目から、一筋の涙がこぼれ落ち、俺の肩に染み込んでいく。
「お前のそばに、いたかった。……本当は、引っ越しなんて、したくなかった……そんな事、」
嗚咽混じりに独り言のように繰り返されるその言葉に、俺の胸は激しく締め付けられた。
そうだ。
俺はあの時、唯人が突然距離を置いたことに「怒って不満をぶつけた」
でも、それは何故だ?その事で、俺は自分を被害者のポジションに置いていたのかもしれない。
「黙って引っ越すなんて冷たい奴だ」と、唯人を責めることで、唯人が悪かったんだと自分を納得させようとした。
けれど、本当は、俺は知っていたはずだ。
クラスの女子たちが唯人をハブにしようとしていたことも、唯人が俺のために身を引こうとしていたことも。
それなのに俺は、クラスの「リーダー」という居心地の良いポジションを守るために、唯人のSOSに気づかないフリをした。
波風を立てないように、唯人がそっと離れていくのを、ただ見ていた。
俺は、自分の保身のために、唯人を一人きりにしたんだ。
「ごめんな、唯人……。」
タクシーの窓の外を流れる夜景を見つめながら、俺は心の中で、何度も唯人に謝り続けた。
今、目の前にいる強気な「仕事のパートナー」としての唯人と、腕の中で泣いている「傷ついた幼馴染」としての唯人。
どちらも本物で、そして、どちらも俺が作ってしまった歪みなんだろうと、その時に強く感じた。
*
なんとか玄関に入る鍵を開け、唯人を担ぎ上げるようにしてマンションの一室へと入る。
エリートらしく、都心の高層マンションの一室は、無駄な生活感のない整然とした空間だった。
「よいしょ、っと……。」
唯人をベッドに横たえ、靴を脱がせる。
ふぅ、と大きなため息をついて、額の汗を拭った。
帰ろう。さすがにこれ以上長居するのは悪い。
そう思って、部屋を出ようと振り返った、その時だった。
リビングの壁の一角。
そこだけ、明らかに部屋のモダンなインテリアから浮いている「異様なスペース。」が目に入った。
「……え?。」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
吸い寄せられるように、その壁に近づく。
そこには、いくつかの木製フレームと、ガラスの小さなコレクションケースが飾られていた。
フレームの中にあるのは、写真。
それも、すべて俺の写真だった。
中学の部活の帰りに、買い食いしながら笑っている俺。
体育祭で、泥だらけになって走っている俺。
どれも、俺自身すら持っていない、誰かが遠くから盗み撮りしたようなアングルばかり。
それだけじゃない。
ガラスケースの中に、整然と並べられているのは――。
十数年前、俺が唯人に「やるよ。」と言って貸したままになっていた、擦り切れた小説。
中学の終業式の日、なぜか片方だけ失くして大騒ぎした、俺の古い上履き。
そして、一緒に遊んだ日に俺が唯人の家に忘れていったはずの、色褪せた、中学生時代の私服。
「嘘、だろ……。」
背筋に、ぞっとするような悪寒が走った。
これは、ストーカーのコレクションそのものだ。
唯人は、引っ越してからの十数年間、ずっと俺の「遺留品。」をここに飾り、これを見つめながら生きてきたというのか。
ドン引き、という言葉では足りないほどの衝撃が俺を襲う。
恐怖で足がすくみ、今すぐこの部屋から逃げ出したくなった。
「う、ぅ……りょう、すけ……。」
ベッドから、唯人の苦しげなうめき声が聞こえる。
その声に、俺の足が止まった。
逃げ出そうとした靴の先を見つめながら、俺は、自分の胸に手を当てた。
――本当に、知らなかったのか?
中学の頃、唯人が俺に向ける視線が、他の男友達に向けるものとは明らかに違っていたこと。
俺の、何気ない一言に、唯人が一喜一憂していたこと。
俺が女子と話している時、唯人がどんなに悲しそうな顔で俺を見ていたか。
知っていた。
本当は、気づいていたんだ。
だけど、当時の俺は、男同士の恋愛なんてどう処理していいか分からなくて、何より「みんなの人気者。」である自分を守りたくて、唯人の感情を『ただの熱烈な友情』として処理し、見ないフリをした。
この部屋に飾られた、おぞましいほどの執着の証拠。
これは、唯人の狂気じゃない。
俺が十数年前、彼の心から逃げ出し、放置し続けた「ツケ。」が、こんな形になって目の前に現れただけなのだ。
「……逃げるな、俺。」
小さく声に出して、自分に言い聞かせた。
もう一度、唯人を一人にするのか?
心の中では警鐘が鳴り続けていた。一刻も早く、ここから離れろ!と。
引っ越しの日、特急電車で去っていく彼を窓ガラス一枚を隔てて見送るしかなかったあの時のように、今回も彼の気持ちを見ていない事にして見送るのか?
「……できないよ、もう。」
自嘲気味に笑いながら、俺は壁のコレクションから目を逸らし、唯人のベッドの脇へと歩み寄った。
床に膝をつき、布団から無防備にはみ出していた唯人の手をそっと握る。
熱い。だけど、ひどく愛おしい熱だった。
「ずっと、苦しかったよな。一人にして、本当にごめん。」
泥酔して眠る幼馴染の、少しふやけた指先を優しく握り締めながら、俺はベッドの脇に体を預けた。
流れ込んでくる罪悪感と、それ以上の愛おしさに胸を支配されながら、俺はゆっくりと、浅い眠りの中へと落ちていった。




