第4話 目覚めと始まり
(Side:唯人)
まぶしい。
目の前が、真っ白な光に包まれていた。
「おい唯人、遅いぞ! 置いてっちゃうからな!」
振り返る涼介の笑顔は、吸い込まれそうな青空よりもずっと眩しかった。
泥だらけになりながら、当たり前のように俺の手を掴んで引っ張ってくれる。その繋いだ手の、火傷しそうなほどの熱。
臆病で、いつも自分の影ばかり見つめていた俺の世界は、涼介がいるだけでその周りが、涼介が手に触れるものが、モノクロから一瞬にして極彩色へと変化した。
ずっと、この背中についていきたい。
いつか、この背中に追いついて、隣に立ちたい。
それが、俺の世界のすべてだったのに。
――夕暮れのチャイムが、不協和音を奏で始めると世界は歪み始める。
まばゆい青空は、急速に冷たい灰色へと濁っていった。
いつの間にか、俺と涼介の身長は逆転していた。
小学校高学年から背が伸び始め、中学生の頃には誰の目にも魅力的な「人気者」になっていた。
彼の周囲には、いつも騒がしくて、綺麗で、眩しい人たちで溢れかえっていた。
俺のような日陰者がいて良い場所ではなくなってしまっていた。
『お前みたいな陰気な奴が隣にいるから、涼介に彼女ができないんだよ』
『唯人〜、お前涼介の引き立て役のくせに、いつまでベタベタくっついてるの? 邪魔なんだよね』
放課後の下駄箱の裏。クラスの女子たちの冷ややかな嘲笑が、頭の中で何度も耳障りにリフレインする。
中学生になった俺は、涼介の邪魔者でしかなかった。その事実だけが、胸を鋭利なガラスで削り取るように突き刺さる。
だから、俺は追いつこうとした背中に向かって走るのをやめた。
涼介から静かに、ゆっくりと距離を置いた。あいつが寂しそうな顔をするたびに、自分の愚かさにのたうち回りそうになりながら、それでも、彼のまばゆい世界を汚したくなかった。
そして、別れの日は無慈悲に訪れた。
ガタゴトと、重いスチールで出来た旅行鞄のレールが、不気味に周囲の音と共鳴している。
出発を告げるベルが鳴る、冬の冷たいプラットホーム。
滑り込んできた長距離特急の白い車体は、俺を涼介から遠く引き離すための、冷酷な獣のようだった。
「なんで、黙ってたんだよ……!」
涼介が、裏切られたような、ひどく傷ついた顔で俺を睨みつけている。
違う。裏切ったんじゃない。お前をこれ以上、俺の身勝手な恋心で汚したくなかったんだ。
『お乗り遅れのないよう、ご注意ください』
感情のない自動アナウンスと、耳を刺すような発車ベルが鳴り響く。
俺は促されるように、冷たいステップを上り、車内へと足を踏み入れた。
プシュー、と重苦しい音を立ててスライドドアが閉まる。
その瞬間、ホームの喧騒が嘘のように消え去り、車内には息が詰まるほどの静寂が満ちた。
厚い窓ガラスの向こう。
涼介が何かを叫びながら、ドアのガラスへと駆け寄ってくる。何かを言っているのに、分厚い障壁はあいつの声を1ミリも通さない。
俺は、ガラス越しに、自分の手をそっと重ねた。
触れ合っているはずなのに、手の温もりは絶対に伝わらない。それが、俺たちの決定的な境界線だった。
――言えるわけがない。お前を、男である幼馴染を、気が狂うほど愛しているなんて。
「……ごめんな、涼介」
俺は、いつものように力なく笑ってみせた。それが、あの街で涼介に見せる、最後の俺の顔だった。
あの日、俺の心は一度死んで、お前を求めるだけの怪物になったんだ――。
(Side:涼介)
「っ、はぁ、はぁっ……!」
そんな鋭く、激しい唯人の呼吸の音が聞こえて、俺は跳ねるように目を覚ました。
首を巡らせると、ベッドの上で、唯人が激しく肩を上下させて呼吸を荒らげている。
額にはべったりと汗が滲み、その瞳は、見たこともないほど激しく揺れ、涙で濡れていた。
「唯人……? 大丈夫か?」
声をかけると、唯人が弾かれたように俺を見た。
今もどこか遠い暗闇に取り残されているかのような、子供のように怯えた、痛々しい目。
その濡れた瞳を見た瞬間、俺の胸の奥に、あの日――駅のホームの冷たい風が、一気に吹き込んできた。
あの時。中学の別れ際、俺は唯人に激しい怒りをぶつけた。
なんで黙っていたんだと、どうして俺を避けていたんだと、裏切られたような顔をして、あいつを一方的に責め立てた。
――けれど、違ったんだ。
今なら、はっきりと分かる。
あの時、俺の心を支配していた本当の感情は、突然の引っ越しへの怒りでも、寂しさでもなかった。
猛烈な、のたうち回るほどの『罪悪感』だった。
周囲の「人気者」という居心地のいい場所に甘え、クラスの女子たちに唯人が傷つけられているのを知りながら、見て見ぬふりをした。
自分の立場が壊れるのが怖くて、唯人から先に目を逸らしたのは、俺の方だった。
俺は、自分の犯した不義理と冷酷さに、本当は気づいていたのだ。
なのに、自分が悪者になるのが怖くて、あいつを傷つけた自覚から逃げたくて――だから俺は『怒り』という盾を構えて、唯人を責めることで、自分の罪悪感から目を背けたかったのだ。
俺が怒るたび、唯人がどれほど絶望していたか。
自分の罪を認めず、あいつに全ての責任を押し付けて笑ってみせた俺の顔が、どれほど唯人の心を切り裂いたか。
十数年の時を経て、ようやく、当時の自分の最悪な本心と向き合う覚悟が、俺の中に生まれていた。
「……ごめんな、唯人。」
ぽつりと言葉を零した瞬間、唯人の視線がすうっと床へと落ちた。
そこには、倒れて中身が少し露出した、俺のカバン。
そして唯人は、部屋のガラスケースへと視線を向けた。
すべてを、悟ったのだろう。
自分の十数年分の執着を、俺に完全に見られたのだと。
唯人の瞳から、一瞬にして怯えが消えていく。
代わりに宿ったのは、ドロリとした、底の知れない暗い熱だった。
「……はは、そっか、」
唯人は自嘲するように低く、けれどゾクりとするほど艶っぽく笑うと、ベッドから身を乗り出し、俺の両肩を掴んで床に押し倒した。
逃げ場のない床の上、唯人の仕立ての良いシャツの隙間から、ドクドクと狂ったように脈打つ鼓動の音が聞こえる。
「全部、見たんだな、涼介。」
メガネの奥の濡れた瞳が、じっと俺を射すくめる。
昔の優しい唯人でも、仕事中の一流ビジネスマンの唯人でもない。
秘密を暴かれ、完全に開き直った、獰猛な男の顔がそこにあった。
「だったら、もう、いい子ぶる必要なんてないよな」
「ゆ、唯人……っ」
降ってきた唯人の唇は、昨日の壁ドンよりも、ずっと乱暴で、狂おしいほど熱かった。
頭が真っ白になるような熱量に、息が止まりそうになる。
逃げ出さなければいけないのに、体はびくりとも動かなかった。
俺の心に澱のように溜まっていたあの罪悪感と、目の前の唯人が抱える十数年分の「呪い」のような愛おしさとが合わさって、俺を縛る鎖となって。唯人の唇を甘んじて受け入れさせていた。
「ん、む……っ、ふ……じゅ、」
唯人の長い指が俺の髪に絡みつき、さらに深く、貪るように熱が交わされる。
唯人は俺のネクタイを乱暴に引き抜き、シャツのボタンを上から一つ一つ外していった。
ボタンを外すのを急に止めたかと思うと、唯人の細くて長い人差し指と中指が、肩から鎖骨を抜け首の後ろから背中へと、触れるか触れないかの柔らかさで線を描いていった。
「あ、あん、うっ……」自分の声と似ても似つかない声が辺りに響いていた。それが自分のあげた嬌声だと気づくまで時間がかかった。
俺は目の前の唯人と、その舌が自分の口腔内を暴れ回る感覚と、火傷しそうに熱い唯人の指の感触に支配されていて、俺はただ唯人の心を受け入れる器になっていた。
窓から差し込む朝の光が、二人の重なる影を、残酷なほど鮮やかに照らし出していた。




