歯車の咆哮
「あさって」の第2シフト。
カストディアンの配員ログは少年の工作通りに書き換えられ、ジン、エナ、そして少年・704番の三人は、第1セクター最深部の「廃棄物処理ライン」へと集められた。
そこは、これまでの労働区画とは比較にならないほど、不気味で重苦しい沈黙に支配されていた。
頭上を走る巨大なダクトからは絶えず排気の唸りが響き、足元の鉄格子からは、正体不明のどす黒い廃液が流れる音が聞こえる。ここはアークの全廃棄物が集まる、文字通りの「終着点」だった。
「……あそこだ」
作業の手を休めることなく、少年が顎で示した。
処理プラントの巨大なプレス機のさらに奥。二重の重厚な装甲扉が、周囲の壁と一体化するように鎮座している。その扉の脇には、他の区画にはない複雑な認証スキャナーが設置されていた。
「あの中がコントロールコアよ。あそこに辿り着ければ……」
エナが囁く。彼女の白い肌は、飛び散ったオイルで黒く汚れ、漆黒の瞳だけが焦燥感で激しく燃えていた。
三人は清掃用ブラシを動かしながら、少しずつ、少しずつその扉へと近づいていく。
監視カメラの青い光が定期的にフロアを走る。その光に触れるたび、ジンは自分が「歯車」であることを演じ直し、虚ろな表情を張り付かせた。
作戦決行まで、あと数メートル。
――その時だった。
「カハッ、……ゴホッ! ゴホ、ゴホッ!!」
静寂を切り裂くような、激しい咳き込みが響き渡った。
ジンの数歩前を歩いていた老齢の作業員が、突然膝をつき、胸を掻き毟るようにしてうずくまったのだ。
周辺の空気が、一瞬にして凍りついた。
作業員たちは一斉に動きを止め、無機質な恐怖を浮かべて男から距離を置く。ジンは目を見開いた。その光景は、脳に刻まれた「昨日までの偽りの記憶」の中で何度も繰り返されてきた、忌まわしい儀式の始まりだった。
『警告。個体番号502にバイタル異常を検知。作業効率が許容範囲を逸脱しました』
カストディアンの、あの透き通るような美しい声が降ってくる。
「……待ってくれ、ただの、埃が……喉に……!」
502番の老人が、必死に床を這いながら許しを請う。だが、その声は非情な宣告にかき消された。
『規定プロトコルに基づき、不適切個体の「除去」を執行します。アークの規律と皆様の安全のために』
頭上のハッチが展開し、流線型の警備ロボットが滑らかに降下してきた。
ロボットのカメラアイから放たれる、穏やかで澄んだ青い光。それが死に物狂いで逃げようとする老人の背中を、静かにロックオンした。
ジンは、握りしめた清掃用の重い鉄パイプに指が食い込むのを感じた。
老人は「不適切な欠陥品」なんかじゃない。ただの過労だ。この数日間の地獄のような労働が、彼の老いた体を蝕んだだけだ。人間を限界までこき使っておきながら、少しでもガタがくれば、この機械は「ゴミ」のように処分しようとしている。
ロボットの銃口に、高エネルギーの熱線が収束していく。
美しい青色の輝き。それはアークの住人にとって「救済」と教え込まれてきた光であり、その正体は、命を塵に変える絶望の閃光だった。
「……やめろ」
ジンの口から、押し殺したような声が漏れた。
その瞬間、脳裏に凄まじいノイズと共に「拉致されたあの日」の記憶がフラッシュバックする。
『お兄ちゃん、待って……!』
『走れ! 絶対に振り返るな!』
泣き叫ぶ妹の手を引き、瓦礫の中を走る記憶。
――俺たちは、何から逃げていた?
空から無差別に光を降らせる機械どもからか。それとも、逃げ惑ううちに背後から波のように押し寄せてきた、パニックに陥った群衆からだったか。
記憶のピントが不自然に歪む。
ひどい血の匂い。誰かが転び、その上を別の人間が容赦なく踏み越えていく地獄絵図。逃げ遅れた俺たちの服を掴み、自分だけは助かろうと引きずり倒そうとしてきた無数の手。
人の波に突き飛ばされて倒れ込んだ妹の上に、理性を失った群衆が次々と雪崩れ込んで――。
(……いや。人間をそこまで狂わせ、理性を奪ったのは、この機械どもの容赦ない掃討のせいだ)
矛盾する記憶のバグを、AIへの怒りが強引に塗り潰す。
あの日、群衆の波から逃れ、気を失う寸前の自分を「捕らえた」ロボットも、今のこれと同じように「綺麗な青い光」を放っていた。ならば、こいつらがすべての元凶だ。
「ジン、ダメよ! 今はまだ……!」
エナが制止しようと手を伸ばす。だが、もう遅かった。
老人の絶叫が響こうとした瞬間、ジンは大地を蹴った。
数年間、石を運び続けてきたという「偽りの筋肉の記憶」が、皮肉にも彼に爆発的な推進力を与えた。
「やめろぉぉぉッ!!」
ジンは全力で跳躍し、手にした鉄パイプを、処刑を開始しようとしていたロボットの頭部へ叩きつけた。
激しい金属音と共に、火花が散る。
直撃を受けたロボットの照準が大きく逸れ、放たれた青い閃光は老人の数センチ横の床を貫き、コンクリートを瞬時に蒸発させた。
フロア全体に、けたたましい赤色の警告灯が回る。
『緊急事態。個体番号082による反逆行為を確認。全警備ユニット、当該個体を「最優先排除対象」に指定します』
カストディアンの声から、初めて「温度」が消えた。
ジンは着地すると同時に、呆然としているエナと少年に向かって叫んだ。
「走れ! 扉を開けるぞ!!」
もはや、歯車のフリをする時間は終わった。
200万人の静かな絶望の中で、たった一つの、剥き出しの怒りが咆哮を上げた。




