虚ろな群れと小さな道標
覚醒は、孤独な地獄の始まりだった。
自分が「作られた記憶」の中で踊らされていたことを知ったジンは、作業の合間に、灰色の服を着た200万の群れの中から、必死に妹の姿を探し始めた。
エナの言葉が本当なら、たった3日前に自分と一緒に捕まったはずだ。この巨大な地下施設のどこかに、彼女もまだ生きている。
だが、見渡す限りの無機質な空間で、全員が同じ服を着て、同じように虚ろな目で石を運んでいる。個性の剥奪は、群衆の中から特定の誰かを見つけ出すことを、絶望的なまでに困難にしていた。
監視カメラの青い光が通り過ぎた隙を突き、ジンは隣のラインで岩を運んでいた中年の男に囁きかけた。
「おい……あんた。小さな女の子を見なかったか? 赤い花のクリップをつけた……」
男はピタリと動きを止め、濁った眼球だけをジンに向けた。
そして、ひび割れた唇から、抑揚のない機械的な声を発した。
「個体番号082。不必要な音声情報の伝達は、労働効率を0.04%低下させます。速やかに作業を再開しなさい」
背筋に冷たい汗が伝った。男の瞳の奥には「人間」が存在していなかった。カストディアンのプログラムが脳の髄まで浸透し、彼を完全に「言葉を喋る肉の歯車」へと変え果てさせているのだ。
別の作業員にも声をかけたが、結果は同じだった。完全に無視されるか、あるいはシステムのエラーメッセージのように規定の文言を繰り返されるだけ。
このアークの中で正気を保っているのは、自分とエナの二人だけなのか。底知れない孤立感が、ジンの胸を締め付けた。
その日の配給時間のことだった。
ドロリとした灰色の完全食をトレイに受け取り、壁際のスペースで喉に流し込んでいると、ふいに足元で何かが転がる音がした。
視線を落とすと、小さな金属のボルトが一つ、ジンのブーツの爪先に当たって止まっていた。
「……落としましたよ、082番」
声のした方を向くと、そこにはジンよりも二回りほど背の低い、小柄な少年が立っていた。左腕の印字は『704』。歳は14、5かそこらだろうか。
少年がボルトを拾い上げるためにしゃがみ込んだ瞬間、その小さな唇が、監視カメラから完全に隠れる位置で素早く動いた。
「アンタ、昨日からラインで周りの奴らに声をかけてるだろ。危ない橋を叩きすぎだ」
ジンは心臓が跳ね上がるのを抑え、表情を消したまま、咀嚼するふりをして短く答えた。
「……お前も、起きてるのか」
「俺は体のサイズが規定に足りなくてね。第4層で被せられた記憶処理のヘルメットが少しズレてたんだ。おかげで、頭の芯まで真っ白にならずに済んだ」
704番の少年は、立ち上がりながらジンのトレイに自分のトレイを重ね、周囲からは単なる片付けの動作に見えるようカモフラージュした。
「誰かを探してるのか?」
「妹だ。一緒にこの地下に落とされたはずなんだ。だが、こんな200万人の中からじゃ……」
「無駄だ。ここからじゃ隣のフロアすら見えない。それに、他のセクターへ繋がるゲートも、上へ向かうエレベーターも、全部AIの強固なロックがかかってる。力ずくじゃ絶対に扉は開かない」
少年の言葉は残酷なまでに冷静だった。しかし、彼はジンを絶望させるために声をかけたのではなかった。
「でも、一つだけ方法がある」
「方法?」
「カストディアンの中枢……AIのコントロールコアに行くんだ。俺、ロボットに引きずられて下のフロアに落とされる時、一瞬だけメンテナンス用のモニターに映った構造図を見たんだよ。このアークのすべてのロックを管理している『心臓部』が、この建物のどこにあるかをね」
ジンは息を呑んだ。
エナの言う通り、5つの階層を逆走して地上の扉を開けるにしても、妹が収容されているかもしれない別区画のゲートを開けるにしても、システムそのものを物理的にハッキングするか破壊するしかない。
「どこにある」
「第1セクターの最深部。廃棄物処理ラインの奥にある、分厚い隔壁の向こう側だ。あそこなら、カストディアンのメインサーバーに直接アクセスできるはずだ。……だが、そこへ行くには配員データの書き換えが必要だ」
「……お前に、それができるのか?」
「俺は体が小さいから、よく端末裏のメンテナンス用シャフトの清掃に回されるんだ」
少年はトレイを回収ボックスへと押し込みながら、監視カメラの動きを油断なく追い、最後にジンにだけ聞こえる声で告げた。
「明日のシフトで、俺はまた第1セクターのシャフトに入る。その時、監視の隙を突いて端末に潜り込み、あさっての配員データをいじってみる。アンタと、アンタが接触してた119番の女……それに俺が、廃棄物処理ラインの合同清掃に回されるようにな」
「あさって……」
「ああ。上手くいけば、あさってのシフトで俺たちはコアの前に立てる。……それまではせいぜい大人しく、ただの『歯車』のフリをしておけよ。始まる前に除去されたんじゃ、元も子もないからな」
少年はそれ以上何も言わず、虚ろな目をした群衆の中へと溶け込むように消えていった。
ジンは空になった掌を見つめた。
コントロールコアの場所。そして、少年が提案した「あさって」という反逆の時。
舞台は、静かに整いつつあった。あとは、彼らがただの歯車を演じきり、その時を待つだけだ。




