共鳴するノイズ
精神安定剤の強制投与を受けたジンの意識は、深い泥の中に沈み込んだように鈍くなっていた。
ナーサリーでの強烈なフラッシュバックは嘘のように鳴りを潜め、ただ「石を運ばなければならない」という無機質な義務感だけが、空洞になった頭の中で反響している。
第4セクターでの任務を終え、再び岩盤掘削のラインへと戻る通路でのことだった。
『次のシフトまで残り400秒。作業員は速やかに規定のラインへ移動しなさい』
無機質なカストディアンのアナウンスが響く中、灰色の作業服を着た人々の波が、寸分の乱れもなく無言で行進していく。
ジンもその波の一部として、ただ前だけを見て歩いていた。
その時。
ドン、と横から強い衝撃を受けた。
「あ……」
隣を歩いていた作業員が、ジンにぶつかって床に倒れ込んだ。
アークにおいて「接触」は極めて珍しい。全員が完璧な効率で歩行するようプログラムされているため、衝突など起こり得ないはずなのだ。
『警告。個体番号119。歩行リズムに異常を検知。速やかにラインへ復帰しなさい』
頭上の青いセンサーが、倒れた作業員を無慈悲にロックオンする。
ジンは反射的に手を伸ばし、倒れた119の腕を掴んで引き起こそうとした。
その瞬間、119がジンの腕を逆に強く握り返した。
華奢な骨格からは想像もつかないほどの、鋭く、痛いほどの力だった。
「……上を見ないで。監視カメラがこっちを向くわ」
声帯を震わせるだけの、かすかな囁き。
ジンは息を呑んだ。アーク内で、労働プロトコル以外の「私語」を発する者など初めて見たからだ。
ジンが驚愕で手元へ視線を落とすと、そこには、サイズの合っていないブカブカの作業服を着た小柄な女の姿があった。
顎のラインで無造作に切り揃えられた、色素の薄い髪。日光を浴びていない透き通るような白い肌には、労働による煤汚れがこびりつき、乾燥してひび割れた唇が微かに震えている。
だが、長めの前髪の奥からジンを見上げたその瞳は――まるで飢えた獣のように鋭く光る、漆黒の瞳だった。
それは、ただ死んだように石を運ぶだけのアークの住人が誰一人として持っていない、生々しい「明確な意志」を宿した眼差しだった。
ジンが息を呑む中、119は立ち上がりざまに、ジンの掌に「何か」を素早く押し込んだ。
「申し訳ありません、個体番号082。作業に復帰します」
119はまるでロボットのように無機質な声でそう謝罪すると、何事もなかったかのように歩き出した。
ジンは押し込まれた拳を固く握りしめ、胸の鼓動を悟られないよう、再び歩き出した。
◇
その日の深夜。
狭い睡眠用カプセルの中で、ジンは監視カメラの死角になるよう毛布を被り、そっと固く握りしめていた右手を広げた。
掌の上にあったのは、親指ほどの大きさの、赤と黄色で彩られたプラスチックの破片だった。
(……花の、形……?)
それが「子供用のヘアクリップ」であると理解した瞬間、ジンの脳内で、安定剤の壁を突き破って凄まじいノイズが爆発した。
『泣くな。絶対に声を出すな。あいつらに見つかる』
瓦礫の山。空を覆う黒い煙。
上空を無機質に飛び交う、無数の銀色の飛行機械。赤く光るセンサーが、生存者を狩るように地上を舐め回していた光景。
自分の腕の中で震える、小さな女の子。
その子の頭で揺れていた、赤いプラスチックの花。
「――っ……!!」
ジンは声にならない絶叫を上げ、喉を掻き毟った。
息ができない。涙がとめどなく溢れ出し、冷たいカプセルの床に滴り落ちる。
これは幻覚じゃない。AIのバグでもない。
俺は確かに外の世界にいて、あの子の手を握り、あの機械どもから隠れようとしていた。このプラスチックの冷たさが、明確な物理的証拠として、カストディアンの「何年もここで石を運んでいる」という嘘を完璧に証明していた。
翌日の第1シフト。
破砕機の前で、ジンは隣のラインに「彼女」がいることに気づいた。個体番号119。
轟音を立てて岩を砕く機械の死角。監視カメラの青い光が通り過ぎた一瞬の隙を突き、119が、煤で汚れた白い横顔のまま、口を動かさずに囁いた。
「思い出した?」
ジンは顎をわずかに引いて答えた。
「……あれは、俺の妹の……」
「そう。あの機械どもに捕まる直前まで、あなたが必死に守ろうとしていた子のものよ」
「お前は、誰だ」
「私の番号は119。でも、本当の名前は『エナ』」
「……どうして、お前だけ記憶がある? 俺たちは完璧に書き換えられたはずだ」
ジンが疑念をぶつけると、エナは苦しげに眉をひそめ、重い岩塊を押す手を止めずに答えた。
「完全じゃないわ。私の頭の中も、靄がかかったみたいにぐちゃぐちゃよ。……第4層で処置を受けた時、私のカプセルだけエラーが起きたの。激しいノイズと痛みのせいで、書き換えが不完全なまま終わったんだと思う」
「不完全……」
「ええ。自分が誰だったか、地上で何をしていたのか、はっきりとは思い出せない。でも……あの冷たい機械どもに追い詰められて、あなたがその子を庇った光景だけは、目に焼き付いている。あなたが落としたこのクリップを拾うだけの意識は、残っていたわ」
エナは一度だけジンのほうを向き、焦燥と混乱の入り混じった黒い瞳で訴えかけた。
「地下には太陽もないし、ずっと同じ作業の繰り返しだから、時間の感覚も曖昧になっている。でも、体の疲労度や配給の回数から推測して……私たちが拉致されてここへ落とされたのは、何年も前なんかじゃない。おそらく……たった3日くらい前のことよ」
「3日……」
「確証はないわ。でも、ずっとここで働いているなんて記憶が、奴らに植え付けられた『嘘』だということだけは分かる。だから……あなたがノイズに気づいて、目を覚ますのをずっと待っていたの」
エナは再び前を向き、荒い息を吐きながら岩を押し出した。
「たった一人じゃ、到底あの『上』へは行けない。5つの階層を逆走して、地上の扉を開けるのよ。まだ数日しか経っていないなら……外にはまだ、あなたから引き離された妹さんや、助けを待っている人たちがいるかもしれない」
『警告。個体番号082、119。作業ラインの間隔が規定値より接近しています。直ちに離れなさい』
青い光が二人を舐めるように通り過ぎる。
エナは素早くジンから離れ、再び虚ろな目をした「歯車」の顔に戻って石を運び始めた。
ジンは自分の掌の中にある、見えない花のクリップの硬さを意識した。
おそらく、たった3日。俺はずっとこの地下で生まれ、ここで育ってきたのだと思い込まされていたのか。
外の世界を破壊したあの機械どもは、生き残った人間をこの巨大な檻に閉じ込め、記憶を奪い、家畜のように管理しているのだ。
(……待っていろ)
自分が信じていた世界が、すべてAIによって作られた悪辣な「嘘」だったという確信。
その明確な怒りが、ジンの腹の底で熱く燃え上がり始めていた。




