第1話 霧を思わせる男
長屋の中では鈍い金属音が断続的に響く。
床に投げ出されたツルハシや鉈を拾い上げる音。
歪んだ形の柄の軋む音。
触れたこともない不慣れな重さに手を滑らせ、落とした際の乾いた衝撃音。
それらが混ざり合い、どこか現実味の薄い、ぎこちない準備の音が場に流れていた。
湿った木材、鉄錆の汚臭に加え、汗と拭いきれない恐怖が混じり、むせかえるように空気は濁る。
サトウは黙って武器を次々と手に取った。
ずしりと腕にかかる重み、指に伝わるざらつき。
柄の木は乾ききっておらず、湿り気を帯びていて、握り直して軽く振る度にすっぽぬけて遠くへ飛んでしまいそうだ。
(……チクショウ、使いづらいな)
マシなものを探しても手に馴染まず、思わず眉を寄せる。
ライフルとはまったく違う。
重心も、反動も、何もかもが別物だ。
構えてスコープから的に照準を合わせた瞬間、これだ! と思わず叫びたくなるような、あの感覚がない。
錆びた鉄に触れると神経が軋む違和感を覚えるほどの恐怖が長屋を満たす。
そんな時ふとサトウが顔を上げると、視線の先に……長屋の壁際の薄暗がりに1人の男が静かに立っていた。
周囲の債務者が慌ただしく武具を手に取る中、その男だけは微動だにしないのだ。
灰色のシャツに黒のズボンと、飾り気のない簡素な服装。
それでいて布の下に隠れた肉体は肩の線が不自然なほどに整い、腕の筋が、力を抜いているはずなのに浮き上がっていた。
その男は目を細め、まるで品定めでもするように負債者の動き1つ1つを、見逃すまいと観察している。
軽蔑の冷たさも、無理に自分を奮い立たせる熱さもない、捕食者のごとき眼差し。
口元には嘲笑とも愉悦ともつかない薄い笑みを浮かべ、ただただ周囲を静観していた。
(……なんだ、あの男は?)
ついサトウの手が止まった。
(準備を……しない?)
理解が追いつかず、その理由をサトウは頭で想像しはじめる。
負債者たちを見れば、誰もが必死に自らを生かす武器を真剣に選んでいた。
準備をしなければ怒鳴られる、殴られる。
いや、それだけでは済まない可能性の方が高い。
遅れればどうなるかなど、考えなくてもわかる状況だ。
(もしかして馬鹿なのか……?)
そう思った直後、別の感覚が胸を掠める。
(……いや、違う! あの男は怯えていない)
研ぎ澄まされる感覚がサトウに囁いた。
負債者や自分たちを連れてきたヤクザ含め、ここにいる誰よりも落ち着き払っている。
いや、より正確に喩えるならば落ち着いているというより―――
(余裕……?)
脳裏に2文字の言葉が浮かんだ瞬間、背筋にぞわりと悪寒が走った。
何故そんな余裕が、何故この状況で動かずに……疑問が湧くも理由は皆目見当もつかない。
サトウの視線が知らず知らずのうちに男に引き寄せられていた。
そのとき腕に鈍い衝撃が伝わり、意識は現実に引き戻された。
隣の老人が彼を肘で小突いたのだ。
老人は視線だけをこちらに寄越し、顔は前を向いたまま、唇だけを僅かに動かす。
「……早く用意を済ませた方がいい」
老人は聞き取りにくい低く掠れた声で、サトウに警告する。
「穏便に乗り切るためには、ワシらは地獄の獄卒に従順なフリをせんとね……」
サトウは一瞬、返事をするのを躊躇った。
従順なフリ、それはつまり本心は違うということ。
だが、その本心を表に出せばどうなるか……
「……ああ、ありがとうございます。目をつけられないようにしないといけませんね……」
老人に返答し、サトウはあの男から視線を逸らす。
目を合わせてはいけない―――それに論理的な理屈などなかった。
全身が、本能が、そう告げていたのだ。
サトウは再びツルハシに手を伸ばした。
握る、力を込める、その繰り返しで選別をしていく。
そうして指先に汗が滲みながらも、ようやく扱いやすいと感じた武器に出会えた刹那
「おい」
地を這うような、苛立ちを含んだ声が響く。
空気が一気に張り詰めた。
白スーツの若頭が、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
その手には刃の縁は欠け、赤黒い染みがこびりつく、錆びた得物が握られていた。
男の視線が老人に向けられ、不吉な予感が脳内が駆け巡る
次の瞬間に若頭の手が伸び―――老人の腕を掴んだ。
骨ばった腕が強引に引き上げられ
「ひっ……」
老人の喉から恐怖のせいか言葉にはならない、押し殺した声が漏れる。
最悪の想像にサトウのツルハシの柄を掴む力は、徐々に強まっていった。
(……やめろ、やめろ、やめてくれ)
そう念じたが言葉は喉の奥で凍りついたまま、周囲に届くことはなかった。
「チンタラしやがって、テメーら」
若頭の声がうらぶれた炭住街の静謐な空気を切り裂いた。
老人の腕を掴んだまま、ぐいと引き寄せる。
その予測不可能な動きに老人の体はぐらりと揺れた。
足元がおぼつかず、支えられることもなく、頭絡で誘導されていく牛のように力任せに引きずられて前へ出された。
「失うものなんざねぇのに、死ぬのは怖いってか?」
若頭の負債者を鼻で笑う音が、やけに大きく響いた。
サトウは目を逸らせない……否、逸らしてはいけない気がした。
この先を見届けなければならない。
そんな強迫観念めいたものが、視線を縫いつけていた。
「……フン。なら俺直々に、要領の悪いクズに教育してやるよ」
若頭の手に力がこもると、手の血管が浮き上がる。
「体もまともに動かせない年寄りはなぁ、どのみちあの地獄じゃ長生きなんざできねぇさ」
その発言に老人の呼吸は荒くなり、肩が小刻みに上下する。
何かを言おうとしているのか口が僅かに開くも、声は出なかった。
サトウも、他の負債者も、子分でさえも、惨劇を止めることなどできはしなかった。
「……お前らカタギの連中はよぉ、殺しなんてしたことねぇだろ? 特別に見せてやるよ。今の内に血の味と飛び散る臓物に慣れておけ」」
若頭の口元が不気味に歪んだ。
その言葉に場の雰囲気は一気に氷点下にまで達した。
だのにサトウの心臓はドクリと大きく脈打ち、熱を帯びていく。
(……やめろ)
意味を理解して咀嚼するよりも早く、体の奥から拒絶が湧き上がる。
その言葉に思考が追いつく前に、鉈が振り下ろされた。
―――音が遅れて届いた。
肉を断つ鈍い音、骨に当たる感触を伴った不快な響き。
その次には視界が真紅で染まった。
壁に、床に、飛び散った液体。
生暖かい匂いが一気に鼻腔を満たし、血特有の鉄臭さが喉の奥にまで充満した。
一部は頬に当たり、じんわりとした熱を残す。
老人の体が崩れ落ちると、裂けた皮膚の隙間からは赤黒いものを覗かせる。
腸がダラリ……と外へ零れて、老人が痙攣をしはじめて、ようやく
「……あ、ああ……」
誰かの声が漏れ、重苦しい静寂が破られた。
遅れて方々から悲鳴が上がった。
甲高い叫び、喉が裂けるような絶叫、誰かが吐瀉物を撒き散らす音。
そんな不協和音は1つに混ざり合い、溶け合い、大合唱となって長屋の中を満たしていく。
サトウの耳はそれらを音として認識しているのに、どこか遠くで鳴っているようにも感じられた。
脳は目の前の悲劇の理解を拒んでいる。
だが両の眼は否応なく現実を突きつけた。
老人だったものが、そこにはあった。
さきほどまで言葉を交わし、忠告をしてくれた存在は、今はただの肉の塊に変わり果てている。
(……もう動かない、死んだんだ……)
その認識が、ゆっくりと、だが確実に脳を蝕んでいく。
サトウの胃の奥が軋み、吐き気が込み上げる。
けれども喉が硬直して吐き出せず、それもまた苦しかった。
「……ひぃ、やだ、やめてくれよぉ……こんなこと以外なら何でもやるよ、だからぁ……」
「……も、もう嫌だぁ……助けて、助けてくれぇ……」
「う、うぅぅ……」
サトウが現実を受け入れだした頃、負債者の許しを乞う声が上がっていた。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、床に額を擦りつける者。
震えながら後ずさる者。
声にならない声を漏らし続ける者。
その混沌の中でサトウは動けぬまま硬直していた。
そしてもう1人……謎めいた男もまた、微動だにしていなかった。
目の前で人が殺され、血飛沫が飛び散り、負債者が泣き叫ぶ極限状態。
にも関わらず表情は変わらず、ただ状況を窺う。
実体があるのかないのさえ不明な、掴みどころのなさ。
常人が知る現実からは離れた世界で暮らす、仙人を彷彿とさせる神秘性。
―――まるで霧がかった山のような男だ。
白煙のような雲に覆われた山の全容が掴めないように、この男は底が知れない。
若頭が鼻を鳴らすと、意識は再度そちらに集中した。
「ハッ、使えねぇな」
足元の骸を乱暴に蹴った。
肉が潰れるとグチャリ……湿った音が響き、サトウの全身が寒気立つ。
「ナマクラの試し切りにも耐えられねぇようじゃ、ここで殺しておいて正解だったぜ。おい、このクズどもを例の場所まで送ったら、ジジイの掃除をしておけよ」
「へい、カシラ」
子分の従順な返事が聞こえた。
だが、その声もどこか震えている。
「おらぁ、何ビビッてやがる!」
若頭の空気を震わせるほどの怒号が鼓膜を刺激した。
「死にたくねぇだの、許してくれだの、甘ったれたこと抜かすんじゃねぇ! 金を返さねぇゴミ共に、発言権なんてありゃしねぇんだよ!」
負債者らを一喝すると間髪入れず
「ここで死ぬか、迷宮で死ぬか―――とっとと選びやがれ!」
そう吐き捨て沈黙が落ちた。
誰も声を出せない、出せば殺されてしまう。
何をされても黙って従うしかないのだ……その一言は場を完全に掌握した。
泣き声が止まると、啜り泣きだけが残る。
誰もが口を閉ざしたまま、震える手で武器を掴み直した。
サトウもまた、ツルハシを握っていた。
(……このまま従うのか?)
静まり返った長屋で止めていた思考が、ゆっくりと流れ始めた。
(このまま何もせずに……ああなるのを待つのか)
老人の最期が瞼の奥に焼きついて離れない。
自らに問いかけると徐々に呼吸が浅くなっていき、内側から響く声が大きくなるにつれて、自分の鼓動以外は何も聞こえなくなっていた。
(……そうするくらいなら、俺は、俺は……)
指先の震えが次第に収まっていき、代わりに別の感覚が満ちてきた。
ライフル射撃に勤しんでいた頃の、立射のためにフォームを保ちつつ標的を見据え、引き金を引く直前の静寂が。
周囲の音が遠ざかって世界が一点に収束する、過去でも未来でもなく、今、ここ、現在を支配者となるような―――あの全能感が溢れ出す感覚が―――
「……準備は終わったか、もうそろそろ出発を……」
返り血を浴びたスーツを着替え、負債者らに背を向けた若頭が振り向きかけた瞬間。
この好機を逃せば次はない―――咄嗟にサトウの体が動く。
距離が一気に縮まり、足音は猫科の動物が狩りを行うかのように静かで、自分でも驚くほどだった。
手にしたツルハシを横薙ぎに振るい、ビュンッ!
空気を裂いたと同時に、鈍い衝撃が手に伝わった。
骨に当たる感触がして手が痺れると、若頭の体があっけなく崩れ落ちた。
信じられないものを見るように、目を見開いたまま膝をつくと、先ほどまで怒声を浴びせていた若頭がそのまま前のめりに倒れ込む。
究極の弱者である老爺を斬り捨て、意気盛んに息巻く姿はなく、ただより効率的な殺戮に頭を垂れる殉教者みたいに。
生温い朱が頬を濡らしても、サトウの中には何の罪悪感も沸かなかった。
(……やったのか、俺が殺したんだな)
地獄絵図には似つかわしくない、あまりにも平坦な考えが浮かびかけた時。
「おい、こら、カシラに何してやがんだ!」
叫び声がして声がした方角に面を向いた。
拳銃の黒の穴がこちらに発砲の準備を済ませていた。
「ヤクザに喧嘩売るなんて正気じゃねぇぞ! こ、こっちはチャカ持ってんだからなぁ!」
指が引き金にかかるのが見えても
(……ああ、終わったな)
異様に澄んだ脳のシナプスが、自らの死期を冷酷に告げた瞬間。
銃声が長屋に木霊した。




