第2話 袋小路のネズミ
銃声が世界を引き裂いた。
乾いた破裂音が耳朶を打った瞬間、サトウの意識は奇妙なほど静まり返る。
反射的に身をすくめることも、避けようとする動きもでない。
体が命令を受け付けないのではなく―――最初から何もするつもりがなかったのだ。
(ああ……終わりか)
その思考は驚くほどすんなりと胸の奥に収まった。
恐怖がないわけではない。
心臓は確かに早鐘を打ち、喉は乾いて、肺はうまく空気を取り込めない。
だがそれでも心のどこかで、仕方がないと納得している自分。
視界の端が僅かに白く滲むと、空白の中から自身の過去が浮かび上がり、頭の奥に封じ込めていた映像が溢れ出した。
蛍光灯の白の光が安っぽい事務机の奴隷を照らす、無機質にキーボードを叩く音だけが流れる空間では
「おい、サトウ。これ、なんでこんなミスしてんだ? やりなおしだな」
ねっとりとした嫌味が耳にまとわりつき、今でも鮮明に蘇る。
深々と謝罪した後に視線を上げれば、見下ろすような目でこちらを眺めてきた。
誰も読まないであろう書類、そんなものに時間を割く意味があるのか。
腹の中でぐつぐつ煮え滾る低温の憤怒が沸点に達した際、サトウは職場に辞表を出した。
(……ああ、あったっけ。そんなことも)
次の光景は雑多な商品が並べられたコンビニのレジに立つサトウを睨む、客の苛立った顔。
「ちょっと、まだ? 遅いんだけど」
業務に手間取って平謝りすれば返ってくるのは舌打ち。
露骨な不満だったが何も言い返せなかった。
言い返して争っても、得るものはないとわかっていたからだ。
職場に向かう駅の構内ではすれ違いざまに溜め息や苛立ちの吐息が漏れ聞こえ、それを耳にしただけで1日が最悪な気分だった。
どれもこれも激怒するには、小さすぎる出来事だ。
だが積み重なれば確実に心を削っていき、やがて削られた鉛筆が短くなるように、心身に影響を及ぼしていった。
(ただ人生にはどうしようもなく、辛い時期があるだけだ)
そう自分に言い聞かせた。
(どうせ関わらなければ、すぐに不満なんてなくなる)
そうして日々を娯楽で紛らわせてきた。
仕事で不満を溜めれば安酒で誤魔化し、暇があればコツコツとゲームに没頭した。
休日は泥のように眠れば、不快な記憶など忘れられると思った。
だが
(……終わらなかったな)
冷めたサトウ自身が心で苦笑をすると、胸の奥が不安定にぐらついた。
就職難、買い叩かれる労働力、代わりはいくらでもいると言わんばかりの粗末な扱い。
出世など夢のまた夢でサトウより後から入社した若者の方が給料は高く、彼は悔しさに歯噛みする。
仕事はこなしている。
首が切られぬよう誰よりも必死に。
(なのに何故、俺はこんな目に……)
……気がつけば社会に上手く属せぬまま、ただ消耗する側に回っていた。
そして今では借金に追われ、法の一線を踏み外し、命の価値すら軽い最悪の場所に立っている。
なのに奇妙な感覚がサトウの胸の内に広がっていた。
(ふぅ、なんだか軽いな……)
息が詰まりかけるほど苦しい呼吸が、楽になっていた。
あらゆるものから切り離されたような感覚。
社会も、善悪も、道徳も、倫理も、偏見も、何もかもが遠ざかっていく。
サトウをこうであれと縛る、見えない鎖がぷつりと切れたような。
人として厳守せねばならないと刷り込まれてきた何かが、音もなく断ち切られていたのだ。
ヤクザに殺されかけて恐ろしいはずなのに口元が不敵に歪み、一呼吸すると新鮮な空気がサトウを作り変えていく。
(このまま逝くなら悪くないな……)
自嘲でも開き直りでもなく、ただの事実としてそう思えた。
最後は骸になるとしても命じられるままに朽ちるよりは、自分で選んだ結末を迎えて命を落とした方がマシだ。
そんな覚悟が無尽蔵に沸き上がったのだ。
だがしかし
「……?」
違和感が生じた。
いつまでも痛みがやってこない。
遅れてくるはずの衝撃に体が吹き飛ばされることもない。
サトウがゆっくりと目を開くと、視界が妙に鮮明だった。
おびただしい血液の放つ鉄臭さと湿った木の匂いが混ざり合い、鼻腔を刺激する。
耳鳴りの奥で何かが倒れる音がして視線を落とすと―――そこに倒れていたのは自分ではなかった。
先ほどまで銃を構えていた子分は、後頭部を吹き飛ばされて崩れ落ちていたのだ。
頭蓋が砕けて床に飛び散った脳漿は、黒ずんだ血と合わさってぬらりと光っている。
サトウの呼吸が止まった。
(……なんで、何がどうなってる?)
思考が追いつかず、銃口から煙が立ち昇る拳銃の持ち主を探すと、そこにいたのは例の男。
霧のように掴みどころのない男が、片手に銃を持って立っていた。
その腕はぶれておらず、反動の余韻も感じさせない。
まるで最初からそこに銃殺された子分という結果だけがあったかのように。
静かに銃口を下ろす男の眼は、変わらず細められていて変化に乏しい。
男の指が滑るように動くと、乾いた音とともに次の弾が撃ち出される。
銃声が再び長屋の空気を震わせた。
鼓膜がビリビリと震え、耳の奥で反響すると、硝煙の匂いがじわりと鼻に充満していく。
またもやヤクザの一人が胸を―――たった一撃で確実に命を奪う急所―――を撃ち抜かれ、血を噴き出して倒れていく。
サトウは目を逸らさない。
いや、逸らせなかった。
銃を扱う男の一連の動きには、まったく無駄がなかった。
そして何よりも
(……慣れているな)
そう直感が告げた。
銃を握る手つき。
引き金を引く指の迷いのなさ。
標的を捉える視線の精度。
どれもこれも初めてでできるような動きではない。
そして邪魔者を排除する冷徹無比な好判断。
サトウは体が底冷えするかのような感覚に襲われた。
だが同時に別の感情が湧き上がる。
(なら、こいつは使える。生き延びるために……)
自分でも驚くほど、冷静な思考だった。
血液が朱の絨毯のように床を染め、肉が裂く音が響く中で、恐怖よりも先に状況をどう利用するかが頭に浮かんだ。
異常な価値観に毒されているのはサトウ自身が一番よくわかっていた。
(戦場経験者か……?)
男を見つめながら、サトウは脳味噌を働かせた。
(傭兵、軍、警察……いや、それ以外か?)
どれもありえた。
だが、どれにも当てはまらないような違和感もあった。
推測は目の前の霧の男が何者かを測るには、何一つ正確ではなかった。
だが確かなのは―――
(俺みたいな、ただの一般人じゃない)
「ビビるこたぁねぇ、相手はたかが1人だ!」
「兄貴の言う通りだ、やっちまえ!」
横暴に振る舞ってい男たちの虚勢に銃声が重なるも、撃たれたヤクザはすぐさま短く息を吐いて崩れた。
経年劣化した床に肉の塊が叩きつけられる音は、やけに重く響く。
激しい銃撃が行われる予感が漂う刹那
「うおおおおッ!」
突如、叫び声が上がった。
振り向くと筋肉質な若い男が鉈を振りかざし、ヤクザに向かって突っ込んだ。
半ば自棄のような勢い。
だが目を血走らせて、歯を食いしばった形相は、まるで仏殿に飾られる鬼神のように鬼気迫る迫力を放っていた。
渾身の一撃がヤクザの肩に食い込むと、悲鳴が長屋に轟いた。
血飛沫が壁中に飛散し、それをきっかけに空気が変わった。
負債者の中で抑え込まれていた何かが、一斉に弾けたのだ。
「たいした連中じゃねぇ、あいつらに続くぞ」
「ただ殺されるくらいなら……」
負債者はサトウと謎めいた男、そして青年の反逆を皮切りに次々と動き出した。
……鉈を振るう者、散乱した武器とも呼べぬ道具を投げる者、素手で掴みかかる者。
方々から罵声が飛び交い、泣きながら叫ぶ声に混じって笑いさえ聞こえてくる。
血に濡れた顔で歪んだ微笑を湛えた負債者もいる光景を、サトウはどこか他人事のように俯瞰していた。
(……壊れたか。人のことは言えないが)
その場の誰もが限界を越えた。
だが件の男は違った。
騒乱の中でも動きに一切動揺は見られない。
冷静に周囲を見渡し、そそくさと床に転がったランタンを拾い上げる。
魔石を組み込んだく青白い光を放つそれは、一瞬だけ光が男の貌を照らした。
表情はやはり変わらず、暴れている彼らに背を向ける。
(……逃げる気か)
サトウの思考は即座に謎の男に追いついた。
(ここで暴れても、いずれ増援がくる)
ならば逃げるのは今のタイミングがベストだ。
幸い暴れる負債者に対応するのに精一杯で、ヤクザはこちらに意識は向いていない。
出入口に待機した子分も数的不利をどうにかせねばと、混沌の争乱に加わっており、誰も逃げるのを阻まなかった。
出口へ向かおうと、サトウの足が勝手に進む。
霧のような底知れない男の背を追いかけるべく。
サトウの中で理由はハッキリしなかった。
ただその男についていくべきだと理屈ではなく、本能が―――獣の勘が―――告げていたのだ。
流石に気がつかれたのか、背後では怒号が上がった。
若い頃は何ともなかったのに、少し走っただけで息が切れてしまう。
だが捕まれば命はない。
駆け抜けると外の空気が流れ込んできた。
冷たい風が汗ばんだ肌を撫でるも、その冷気すらも、どこか現実感が薄かった。
「何だ、この騒ぎは!」
「銃声だと!?」
「何が起きたんですか、カシラ!」
扉を開けると遠くから、別の足音と怒声が近づく。
銃声を聞きつけたヤクザたちが駆けつけ、他の長屋からも人が溢れ出たのだ。
彼らはサトウたち同様、この理不尽な魔石収集のために集められた負債者。
怒号と混乱が渦巻いており、何が起きているのか誰も把握できていないようだ。
もし自分たちのした行為がバレようものなら……
「……ど、どうすれば」
サトウが思わず言葉を漏らすと、霧の男はある方に視線を向けて指を差した。
その先にあるのは夜の闇に浮かび上がる、真紅の竪坑櫓。
鉄骨が組み上げられた巨大な構造物が、不気味に聳え立っていた。
光源がないはずなのにどこか異様な光を帯びていて、それがサトウにはチョウチンアンコウの疑似餌のように思えた。
「……あいつらも流石に中までは追ってこねぇさ」
確信に満ちた低い声でそれだけ言うと、男は脇目も振らず駆け出した。
その行動には迷いがなく、生存という最適解を徹底的に学習したAIのようだった。
背後では無数のヤクザの怒鳴り声が、まるで爆発音みたいに響き渡る。
「兄貴ィ! ……カシラが、カシラが殺られてますぜ!」
「負債者の連中がカシラを殺しやがったんだ!」
「カシラの仇だ、クズどもを逃がすなぁッ!」
殺意に満ち満ちた足音が迫り、銃の安全装置を外すカチャ……という金属のパーツが噛み合う鋭い音が耳に届いた。
前方には魔物の巣窟。
後方には昂った反社会的勢力の大群。
死地に向かわずとも、捕まれば確実に死が待っている。
(最悪の二択から選べってのか……)
サトウの喉が鳴った。
だが足は止まらず、巨大な猛獣に追い詰められた袋小路のネズミのように、ただひたすらに前へ。
サトウと霧を彷彿させる謎の男。
そして2人に続く数名の負債者。
進むも戻るも地獄という状況下で、彼らは一縷の希望を掴もうと竪坑櫓へと走り出した。




