第9話|魔王の声
――随分楽しそうだな。
木陰で涼みながら、ぼんやりと畑を眺めていた時だった。
不意に、背後から声が聞こえた。
「誰だ!?」
思わず振り返る。しかしそこには誰もいない。
木の上で鳥が鳴いているだけだ。
それでも、その声には聞き覚えがあった。背筋に冷たいものが走る。
――なんだ、やっと聞こえるようになったか。
「なんだ……また、エルドさんですか?」
そう口にした瞬間、空気が変わった。
黒い霧が、足元からじわりと広がっていく。
いつもの冗談めいた雰囲気ではない。
――……違う。俺は魔王だ。
「お前は……自称魔王⁉︎」
――自称ではない。魔王だ。
数日前の記憶が蘇る。
体の所有権を巡り、意識を失うまで争ったあの時のことだ。
「何度も言うが、俺はお前に体を譲る気はない」
――おかしな奴だ。死にたがっていたくせに、さっさと我に体を預ければいいものを。
「死ぬのと、操られるのは違うだろ。俺は……これ以上、余計なことをしたくないだけだ」
――……その割には、随分楽しそうに人間どもと関わっていたではないか。
言葉に詰まる。
「それは……ここでなら、変われるんじゃないかって……思って」
そうだ、久しぶりに人と話した。
体を動かし、自分で考え、笑った。
あの頃のことを、忘れられる気がしていた。
――お前のような人間は知っている。自分が何をしたいのかも分からず、その場の流れに身を任せて生きる。だが都合が悪くなれば距離を取る。卑怯者の生き方だ。
「違う!」
思わず声を荒げる。
「俺はそんなことしない。何も知らないくせに、適当なこと言うな」
そうだ、あの時の事だって俺のせいじゃない。
――図星を突かれて逆上か? 心当たりがありそうだが……
「黙れ」
胸の奥で、どろりとした何かが渦を巻く。
吐き気にも似た不快感が込み上げる。
――……お前が何を考えているかは知らん。だが、この村のことを思うなら黙って去れ。“余計”な自己満足のために、周りの人間を巻き込むな。
「黙れって言ってんだろ!」
風が強まる。
木々がざわめき、鳥の鳴き声もいつの間にか消えていた。
黒い霧が体を覆うように、怒りか焦りかもわからない感情が湧き上がってくる。
黒い霧が体を覆うように、怒りか焦りか、自分でも分からない感情が溢れ出す。
もう……どうだって――
「ユウト!」
名前を呼ばれ、はっと振り向く。
リリナがこちらへ駆け寄ってきていた。
柔らかな金髪を揺らし、目の前でぱっと笑う。
「よかった、ここにいたのね! あのね、今日の晩ごはんはウサギのシチューなんだって! お兄さん、シチュー好き?」
「あ、ああ……」
気づけば風は止み、黒い霧も消えていた。
魔王の声も、もう聞こえない。
「元気ないね? どうしたの?」
リリナが覗き込むように顔を近づける。
その瞬間、霧が晴れたように思考が戻る。
胸の奥に溜まっていた感情が、熱となって広がった。
誤魔化すように、少しだけ視線を逸らす。
「いや……なんか、まだ慣れなくて」
「そっか。でも大丈夫だよ。みんな優しいもん」
「……そうだな」
本当は違う。
少女の優しさに触れるたび、胸がざわつく。
――余計な自己満足に付き合わせるな。
魔王の言葉が、どうしても離れない。
(……夢じゃない)
霧に覆われ、体を奪われそうになった感覚。
あの声は確かに存在していた。
黒い気配は、今も胸の奥に残っている。
どろりとした影のように。
いつまた、体を奪われるのか。
封印とは何だったのか。あの祠は――。
不安は、消えない。
胸の奥で、静かに黒い塊が蠢いた気がした




