三
その書を読む凌政の頬が赤らみ、表情が変わるのを、李昰は無言で見守っていた。王は呟いた。「この文を著したものと言葉を交わせるならば、命も惜しくない……」
「その書の著者は、私の同輩です。韓国の公子、韓非と申します」
「公子とは――」
王は言葉を切った。韓は敵国であり、通常、その公子と話し合える場があるとも思えなかった。「どうすれば語らえる?」
僅かな間、李昰は沈黙した。
「韓国の公子と交わることを望まれるならば、韓に戦を挑まれることです」
彼は、平静に言った。「さすれば、使者として、韓国は非を派遣するに違いありませぬ」
そう、他ならぬ彼が韓非の書を、上賜したのである……それに凌政が惹かれることも、韓非をもとめることも、確かに分かってはいたのだった。それは、単に彼を喜ばせたいと、その素直な心の表れには違いなかったが、実際凌政がそこまで感銘を受けるのを目の当たりにすると――彼の心は、穏やかではなかった。
(法家として、自分は、韓非に劣るのだろうか)
もしも、韓非が召し抱えられることにでもなったら――凌政の隣に立つのは、自分ではなく彼ではないのか。
韓非の書を自分でも読みつつ、彼は独白した。実際、それは才に溢れてするどく辛辣であり、真実と熱に満ちており、彼が考えつつも言葉にできなかった諸々を、明らかに開示していた。
(おれには、これを著せぬ……)
そう、凌政が韓非に惹かれるのは、当然だった。おのれが及ばぬ才知に、彼は震え、唇を噛み締めた。
だが、韓非は、眞にとっては、確かに有為の人間には違いない――韓王が彼の策を容れず、非が失意のうちに主を求めていることをも、李昰は知っていた。たとえ韓の公子と言えど、その実は法家の徒、それも先鋭の言論家である。強国眞が召し抱えると言えば、心から喜び、その知を眞の役に立てるに違いないと思われた。凌政のために、彼はその頭脳を使うだろう……
だから、自分は、黙して従うべきなのだ。眞のために、凌政のために――
そう思いながらも、胸中の雲は依然として晴れず、李昰は鬱屈した。
李昰の策は、中った。示威行動を見せたのみで、韓は非を使者として送ってよこしたのである。おそらく、非自身がそれを望んだのであろう、と李昰は考えた。
薄暗い偏殿で王に見えた韓非は、かつて李昰が楚で見たままの、陰気な男だった。しかし、王は紅顔に喜色を露わにし、著作についてあれこれと下問した。非は、むしろ無愛想にそれに応答したが、そのぶっきらぼうな言葉すら、王は喜ぶふうだった。
そうだ、こんな男だった……と李昰は思った。少なくとも、言論において、自分は負けぬはず――他国の使節として赴いた先で、自分はこのような振る舞いはすまい。そう思ってから、その思考の浅ましさに、李昰は忸怩たる思いを持った。
果たして、自分はこのように女々しい男だったか。自分を誇りたいと願い、自らを高めようと荀子の門をくぐった時には、少なくとも違ったはずだ。
そのような蟠りを、韓非に、そしてむろん凌政に見抜かれるわけにはいかなかった。彼は表向きは、冷徹な法家の政治家を装い、淡々と韓非を歓待した。
―― しかし。
(例えば――)
と、彼は考えた。
(ほんとうに、韓非が、使者を装った密偵として、眞を訪れたとしたら、どうだろうか――?)
その考えは奇妙に甘く、彼を誘った。
(事実、余人は、そう考えるのが、自然なのだ。なんとなれば、韓非は、あくまで、韓の公子だ――ほんとうに眞に仕えようなどと、思うものの方が少ないだろう。彼と机を並べた自分だからこそ、彼が真に法家として生きようとしていること、眞王に仕えようとしてここに訪れたということが分かっただけで……他の者は考えるだろう、まさか、韓の公子が、自国を裏切り眞に味方するわけがないと……)
いや、その考えの方が、正しくないとも限らない。
彼と机を並べて学んだのは、はるか昔のことだ……
或いは、非は、ほんとうに、自国のために使者として来たのかもしれない。一触即発の韓と眞の間で、いずれ起こる戦を、より有利に進めるために。
なんと言っても――彼は、韓の公子なのだから。
李昰は、細作を喚ぶと命じた。韓非の身辺から目を離すなと。




