008
「えっ、と……それって結局、どういう……?」
「今あなたに話した通りですが?」
「そ、そう言われても……」
機嫌がいいのか、はたまた悪いのか。
一見普段とそう変わらない衣璃亜の姿を見ても、三凪には判断することができなかった。
「他に話せることなどありませんよ。何も。桐葉の提案で今日一日をこの建物で過ごすことになった――それだけのことです」
上機嫌とは言いがたい。
つい先ほど、三凪が衣璃亜の姿を見つけた時からそう。
この状況を心から喜んでいるとは、三凪も思えない。
「やはり、私が何かしていることには気付いているのでしょう。今朝も、桐葉が察してくれなければどうなっていたか分かりません」
「け、今朝……?」
「作業の途中で寝てしまったんですよ」
「え……」
――らしくもない、という言葉を三凪はぐっと飲みこんだ。
思えばそうなりかねない要素はいくつかあった。
「今回ばかりは少々見通しが甘かったのかもしれません。……上手く立ち回るつもりだったのですが」
少なくとも『上手い立ち回り』などではなかった。
無論、三凪はそれも言葉にはしない。
「でも、その……天条くん、天上さんのことはよく見ているから……」
仮にそうだったとしても、桐葉は気付いていただろう。
普段の彼の姿を思い出すほど、三凪にはそう思えた。
「それは勿論、分かっていますよ。管理不足の責任を私が桐葉に押し付ける筈がないでしょう?」
おかげで、衣璃亜の言葉に妙な説得力を感じた。
その表情は相変わらず。
まして姫宮さぐりが執拗に接触しようとしていた時のような、分かりやすい変化はなかった。
朝、思わず三凪が怒っていると勘違いしたその時から、衣璃亜の様子はさほど変っていなかった。
どちらかというと、いつもより穏やかなようにも思えた。
「場所を使う代わりというわけではありませんが、私にできることなら手は貸しますよ。気分転換にもなりますから」
「つ、使うのは自由だから……。それに天上さん、時間だってあるのに……」
「……そこまで心配されるほどではありませんよ」
「そ、それならいいんです。……都合がいい時に、お願いします」
三凪に対してもそう。
行き過ぎた配慮に心外だと言わんばかりに返すものの、それだけだ。
そんな姿を見ている内、三凪は密かに今の衣璃亜への印象を改めた。
実際、今に至るまで衣璃亜は不満らしきものをほとんど口にしなかった。
本人の様子は学校にいる時とそう変わらない。
むしろ昨日より調子がいいようにすら見える。
「えぇ、構いませんよ」
それどころか。
「どうせ、またあなたにあれこれ振っているのでしょう? ……何も一人で処理することはありませんよ」
普段であれば桐葉が口にしそうな言葉が、衣璃亜の口から飛び出した。
(天、上……さん?)
呆れたような態度であるのは間違いない。
しかしそれは三凪ではなく、組織に対してのものだった。
意外という言葉を、三凪は真っ先に浮かべた。
組織――この拠点の方針に疑問を呈すのは、今に始まったことではない。
しかしその時も、今のような言い方ではなかった。
三凪の記憶にある限りでは、そうだった。
「……まさかとは思いますが、他にあるなどとは言いませんよね?」
「だ、大丈夫です。これで全部って、お姉ちゃんが……」
だといいですが、と呟く姿は紛れもなく衣璃亜のもの。
後から追加が回ってくることを明らかに警戒していた。
「それに、その……今日は何人か、手が空いた人がいて……」
「……なるほど」
分担できた理由までは伝えなかった。
桐葉達が一部を受け持ったからだとは、三凪も言えなかった。
衣璃亜が追求しなかったのは三凪にとってもありがたかった。
「それでも、整理すべき書類の量は変わらなかったというわけですか」
そんな三凪をよそに、衣璃亜はため息をついていた。
三凪のわきに置かれたファイルへ、疑いの目を向けていた。
「えっと、その……今日は偶然……」
三凪自身、苦しいと感じる言い訳。
「…………そういうことにしておきましょう」
衣璃亜も、完全に納得してはいなかった。ため息がその証拠だ。
おそらく、半分に届かない程度。
三凪にとっては、比較的軽いと言える方。
桐葉達と知り合う以前にも、何冊もの分厚いファイルと格闘することはしばしばあった。
(でも、このくらいなら……天上さんに迷惑をかけなくても、多分――)
「私に気を遣う必要などありませんよ」
当時と比較し、取り掛かろうとした三凪に――衣璃亜はきっぱりと言った。
「そ、そういうわけには……」
「度が過ぎるという話です。大方、一人で処理できるとでも考えていたのでしょう?」
「……はい…………」
確信を持った様子で、続けた。
何かも分からない金属の塊が、そっとテーブルの上に置かれた。
荒削りの結晶や、見慣れない機械らしき何かと並ぶ。
衣璃亜は、完全に作業の手を止めた。
「あなたの方が慣れているとは思いますが、数が数です。いっそ先に片づけてしまいましょうか。何があるかわかりませんから」
「そ、そういうわけには……」
しかし三凪は、その提案に頷けなかった。
手を借りられるのはありがたい。
三凪自身、一人で抱え込まない方がいいという意識はあった。
だが、そのために衣璃亜の作業が遅れてしまうのは本意ではなかった。
少なくとも今だけは。
「大丈夫だよ。それさえ終われば、やってもらわないといけないことは特にないから」
「今のところは、でしょう?」
それを言うより早く、姉が来た。
衣璃亜の雰囲気は相変わらずだ。
「まして、今日は桐葉もいないんです。いつもと同じ感覚で頼まれては困ります」
「さ、さすがにそこまで疑わなくても……」
「前例がなければ言いませんよ。私も」
事実無根というわけでもない。
姉にそのつもりがなくとも、結果的にそうなってしまう可能性は十分にあると三凪は考えていた。
「天上さんが疑いたくなるのも分かるけど、本当に何もないよ。最近は小型を見つけたという話もないから」
「そういう時に限って現れるものでしょう」
「勿論、警戒は続けているよ。彼らに好き勝手させるわけにはいかない」
これまでそうだったように。
しかし。
「だけど、それは三凪や天上さんの役目じゃない。特に、天上さんは他にやることがあるだろう?」
姉はゆっくりと首を横に振った。
その時は自分達が対応すると、そう言った。
「話した覚えはありませんが?」
「彼の誕生日が近いことくらいは覚えているよ」
衣璃亜にとっては、それどころではなかったようだが。
「それに、天条君が天上さんと別行動をとりたいと言うなんて相当だ。……驚いたよ。最初に頼まれた時は」
「そうせざるを得なかったというだけですよ」
――そうして、不本意だと言わんばかりに衣璃亜は分厚いファイルを手に取った。




