005
「……そんなに気になりますか? あれのことが」
具材を煮ている時に聞こえて来たイリアの声は、不満そうだった。
できれば後ろを振り返りたくない。不機嫌なオーラがすぐ後ろまで迫ってる。
師匠を前にした時よりは辛うじてましだけど、なんの気休めにもならない。
「気になるって言うほどじゃないけど……一体どうして、あんなことを言ったんだろうなって」
「それを気になっていると言うんですよ。桐葉」
……正直、こうなる気は薄々していた。
いつもより口数は少ないし、やたら音を立てながらノートに書き込んでたし。
いざ料理を始めると、今度は背中に冷たい視線を向けてくるし。
おまけに、立ち上がったと思ったらこれだ。
真後ろから見張られているみたいで居心地が悪いったらない。
「どこかで面識があっただけでしょう。無理に思い出す必要なんてありませんよ」
「面識。面識かぁ……。そういう風には見えなかったけど」
「だとしたら猶更です。放っておけばいいんです。あなたの気を引くために言っただけかもしれませんよ」
久しぶりの辛辣な評価。ここまで刺々しい声を聞いたのも久し振り。
イリアの表情が目に浮かぶ。
振り返らなくても、鏡がなくても、手に取るように分かってしまう。
先輩が悪戦苦闘していた時でさえここまでじゃなかった。
あの時はあの時でバッサリと切り捨てていたけど、それ以上に容赦がない。
「そこまでする必要、ある? あの先輩に」
「なければそんなことをする必要はないでしょう」
それは確かに。
理由は分からないままだけど。
渡辺が聞いた噂じゃないけど、正直また来ると思ってた。
それこそ何か取材をするためにまた来るんじゃないかと勝手に身構えていた。
やけに念入りに調べていたから、てっきり俺の顔に見覚えがあると思っただけd
「……やはり、気になっているようですね? あれのことが」
――背筋が震えた。
イリアの声のトーンが、さらに下がった。絶対に気のせいなんかじゃない。
魔法なんて使われていない筈なのに、黒い靄が見えた気がした。
丁度手元を覆い隠すくらいの、濃い靄が広がっているような気がして仕方がなかった。
「気になっているんでしょう? あれのことが。妙な噂も含めて」
「はい……」
火を止めて、両手を上げた。上げるしかなかった。
この冷気で一気に冷えてしまいそうだけど、その時はもう諦めるしかない。
日に日に俺を黙らせる技術を手に入れている気がする。
そんなもの持たなくていいのに。というか、持たないでほしい。
「しつこく話題に出したのは謝る。ごめん。だから一旦、俺に後ろを向く時間を――」
「そういう問題ではありません」
……取り付く島もない。
この雰囲気、尋常じゃない。師匠を相手にキレた時といい勝負。
しかもあの時と違って原因が分からない。まさかとられるなんて思ってないだろうし。
「ここのところ、あなたは私のことを蔑ろにし過ぎです。朝の鍛錬しかり、もう少し私の存在を意識するべきではありませんか?」
なるほど。意識。イリアの存在を。
忘れた時なんて片時もないんだけど。それ以上だなんて一体どうしろと。
例によってクラスに馴染めないのは仕方ないけど、まさか『一切会話するな』なんてメチャクチャは言わないだろうし。
小城も交えたトレーニングも、ちゃんと納得してくれた。
言い出したのは俺達だけど、イリアも嫌な顔はしていなかった。
「……どうした、急に?」
それなのに、これだ。
先輩のことだけでも大概だったのに、とうとう他にまで飛び火した。
「急ではありません。えぇ、まったく。あなたがあれのことばかり考えているのが悪いんです」
「別にあの人のことばっかりってわけじゃ」
「ありますよ」
……言いきりおった。
それ以外に何があるのかと言わんばかりの態度。
そんなことで堂々とされても、ちょっと反応に困る。
「帰り道といい、あれのことばかりだったでしょう。時間を出せば少しは納得しますか?」
「いやいやいや、どうしてそんなことまで分かるんだよ。録音でもした?」
「覚えられますよ。そんな面倒なことをしなくても」
えぇ……?
どう考えても一つ一つ覚える方が手間。絶対に手間がかかる。
覚えようと思っても普通は覚えられない。会話の内容を正確に、なんて。
そもそも、それ以前の問題。
いくらなんでもそこまでしつこく繰り返した覚えはない。絶対にやってない。
「……というか、そんなに話したっけ? あの先輩のこと。もしかして声に出てた?」
「いいえ、声には出ていませんでしたよ。頭の中はあれのことで埋め尽くされていたようですが」
「またそんな怪しげな超能力を……」
別にあの人のことばっかりじゃない。
あんな話を聞いて気にならなかったと言えばうそになるけど、断じてそれだけじゃない。
妙な超能力があるならそこもちゃんと読み取ってほしかった。
「嘆かわしいですね。以前は二人きりの時間を邪魔されることなどなかったというのに……」
「待った。待って。消えてる。色んな人の存在が消えてるから、それ」
前に余計な口を挟む名だの何だの言った件はどうした。
忘れたか。その辺りだけ都合よく忘れたとでもいう気か、こいつ。
イリアの基準で言えばあれも十分『邪魔』扱い。
最低限必要な内容からは大きく外れていたんだろうけど、それもこれも俺達を心配してのこと。
特に中学の頃の俺達にとっては、あれもこれも必要だったと言えるかもしれない。
ただ、口調があれと言うか、やり方が乱暴というか、イリアが不満を抱えそうなポイントはままあった。
俺にとってはいつものことだったんだけど。
「美咲のことなら話は別です。私が彼女のことを邪魔に思う筈ないでしょう?」
「いや、他。他の人。他の人の存在抹消しないで」
「知りませんね。誰のことでしょう」
おいこら。
またか。まだ言うつもりか。
あれだけ世話になったっていうのに。前は一回そのことも認めてたのに。
(でも、ちょっと度が過ぎてたのはあるかも、な……)
警戒しておかなきゃいけないとか、そういう理屈は抜きで。
どうしてもの時は組織や先生に相談すればいいんだし。
「……じゃあ、分かった。お詫びってわけじゃないけど、イリアのお願いを一つ、叶えられる範囲で叶える」
なんだかちょっと卑怯な気がするけど、他に思いつかない。
さすがにそれだけでイリアが機嫌を直してくれるとも思ってない。
「私の。……それは、どんなことでも?」
「俺にできる事なら、どんなことでも」
「……。……そういうことなら――」
続きを言おうとして――その時、ケータイが鳴った。
「「…………」」
組織のケータイ。緊急連絡のアドレス。
内容なんて見なくても分かる。
このアドレスが使われる状況なんて、他にない。
問題は、それが選りにも寄って今このタイミングだったっていうことで。
「……その権利、いっそのこと今ここで使ってしまいましょうか」
「さすがに駄目」
分かるけど。さすがにこれは怒りたくなるだろうけど。
教団に関するものが見つかったんだから、さすがにそこは対処しないと。




