029
「…………」
目の前に広がる景色に、思わず二葉は言葉を失った。
店の奥から飛び出すように逃げて来た人々を連れ出し、待機中の部隊に預けた後。
再び突入した二葉が見たのは、どうしようもないほどに異様な光景だった。
「連中、また随分と派手に暴れたみたいですね……。こんな 、見たことないや」
「誰だって初めてだろうさ。ここまで酷いのは。普通にやりあったってこうはならない」
床を埋め尽くす黒。黒、黒、黒。
二葉達がその場を離れた僅かな時間に、辺りは不気味な黒に侵食されていた。
昨年の改装の際に新調された床は大部分が黒に呑まれ、見ることもできない。
床を呑み込む黒い波。一見すると奇妙なそれに、二葉は見覚えがあった。
「変なものまでばら撒いてくれちゃって……。何、これ? 気持ち悪い……」
「おそらくですが、例の怪物を構成している成分と基本的には同じものかと。色もよく似ています」
見覚えがあると感じたのは、二葉だけではなかった。
これまで[アライアンス]が何度も対峙した怪物の身体と、よく似た色をしていたのだ。
「それにしては随分とドロドロしているような……。似てるだけで、別の何かじゃないの?」
「いえ、消滅間際の状態に近いです。数値も――ほら、この通り」
「……その割には一向に消える気配がないんだけど」
「消えますよ。魔法で衝撃を与えてやれば」
携帯端末での測定結果は、確かにその通り。
しかし浸食を続ける黒はその勢いを増すばかり。
炎魔法の衝撃を直接浴びせることで、ようやく消える。
消える瞬間も、見れば見るほど怪物のそれに酷似していた。
「そこまでだ。細かい調査は後続の部隊に任せておこう。我々の役目は他にある。魔力の無駄遣いはよせ」
目の前の障害を排除しなければ、奥へ進むことはできない。
飛行魔法を常に発動し続けるのと、どちらが楽か判断しかねる状況。
事前に寄せられた情報から、戦闘に発展する可能性は高いとされていた。
どのような形であれ、有限の魔力を迂闊に消費することはできない。
迫る黒から距離を取りつつ、指揮を任された男が二葉の方へと振り返る。
「確認だ、東雲くん。――彼らはまだ、この中にいるんだな?」
「……離脱したという連絡は、ありませんでした。何度か、電話もかけてみたんですが……」
「応じることなく、折り返しもなかった」
その言葉に、二葉は何も言わずに頷いた。
妹からの着信を最後に、四人からの連絡はない。
三凪に、桐葉や衣璃亜に、宏太にかけても全く繋がらない。
追跡の昨日は現在も働いている。
そして、四人の端末は近くに集まったまま大きな動きを見せない。
突然その内のひとつがはみ出したかと思えば、また一か所に集まった。
それも、一度や二度ではない。行動不能な状況に追い込まれたわけではない。
だというのに、連絡が返ってくることはない。
「聞いた通りだ。取り残された人々の捜索に並行し、彼らを救助する。……異論のある者は?」
指揮役の言葉に、手が挙がる。
手を挙げたのは、浸食する黒の不気味さに真っ先に不満を漏らした女性だった。
異論があるというわけじゃないけど、と前置きしてから彼女は語り出す。
「あの子達の救出を最優先にしたら? 買い物客も従業員も、ほとんど避難したみたいだし」
「どちらか一方にだけ意識を傾けるようなことはしない。並行して行うというのは、そう言う意味だ」
「…………りょーかい」
完全に納得した様子ではなかったものの、彼女は引き下がった。
その時、一瞬だけ二葉の方へと視線を向けていたが、二葉は気付かなかった。
――握りしめた携帯電話が、大きく震えたからだ。
ディスプレイに表示された名前を見て、思わず携帯電話を取り落としそうになりながらも応じる。
ようやくの折り返しに、一同の視線が二葉の左手へと集まった。
「三凪!? どうして今まで……!」
『ご、ごめんなさい……! 襲撃を受けたせいで、今まで気付けなくて……』
妹の口から『襲撃』という単語を聞いた時、二葉は眩暈を覚えた。
しかし、そんな二葉を現実に引き留めたのも同じく三凪の声だった。
こうして連絡をしているということは、三凪は間違いなく無事なのだ。
「……ということは、今は大丈夫なんだね? 皆もそこにいるんだね?」
『ぜ、全員無事です。天条くんが、すぐに対応してくれて……。今、動きも封じたところ』
「そうか……」
その言葉に、二葉は安堵するのがやっとだった。
それが確認できるだけでも、彼女にとっては十分過ぎた。
「そういうことなら、できるだけその場所を動かないようみんなに伝えてくれ。私達もすぐに向かうよ。場所は分かっているから」
――あとは、自分がそこまで迎えに行けばいい。
三凪や宏太にとっては初めての、全くの予想外の任務。
交戦経験がある桐葉と衣璃亜でさえ、このような状況を乗り越えるのは楽ではなかったに違いない。
『え? でも、そんな……』
「お願いだ。……すぐに行くから、そこでじっとしていて」
はやる気持ちを抑え、二葉はどうにか言葉を絞り出した。
「で、できるだけその場所を動かないで、って、言われたんだけど……」
また無茶苦茶をおっしゃってくれる。
どうしろと。こんな状況で、一体どうやってこの場に留まれと?
「いや……さすがに無理だろ。いくらなんでも無茶だろ。東雲先生の頼みでも」
「これを見ていれば口が裂けても言えませんよ。そんなこと」
「そういうこと言わない。向こうの状況も分からないんだから」
俺達だって、できることなら命令に従っておきたい。でも今は、従いたくても従えない。
「……この場所から動くなって言う命令には、承服しかねるけど」
海みたいに化け物の身体が広がってるって言うのに、いったいどうしろと。
「やべーって。どーするよ、これ。いちいち吹っ飛ばしてたら間に合わねーぞ?」
「というか、無理。浸食のペースの方が早い。範囲も広いし」
「……」
こんなことなら、無理にでもあの人達に頼むんだった。
逃げられなかった男の人は、まだ起きない。
唯一避難できそうなスペースに乗せたけど、乗れてもあと一人。
むしろこれ以上誰も近付かない方がいい。
浸食は続くだろうけど、あの場所ならまだ安全。
「二人とも、飛行魔法の持続時間は? 覚えてる範囲で」
「前に測った時は、その……20分、くらい」
「俺も大体同じくらいだな、多分」
……実際に飛べる時間は多分、長くてその半分くらい。
ここまでのあれこれで蓄積した疲労とか、魔力の消耗とか。
諸々を総合したら、最悪もっと短くなるかもしれない。
「だったら――」
危険な賭家になるだろうけど、今回ばかりは命令に完全に従えそうにない。




