026
いよいよ足を踏み入れた桐葉は、すぐに悪態の言葉を呑み込まなければならなかった。
「っ……!」
鍵をかけられた個室。確かにそこには、人がいた。
怪物の身体が溶けたような、気味の悪い黒紫の中。心臓の様に伸縮を繰り返すそれの中には、誰かの姿があった。
身体のほとんどが取り込まれかけたそれを桐葉が人と判断できたのは、手や足が顔を覗かせていたからに他ならない。
顔は勿論、その人物の身長すら分からない。
便器を完全に覆い隠すそれの中に複数人いたとしても、外からは分からない。
「……趣味の悪さは相変わらずですか」
「っ、だな……!」
桐葉に残された選択肢は、ただ一つ。
何もかもを覆い隠すそれを、その手で取り除く事。
それに魔法を放つこともできなかった。
消滅させるまでに時間がかかれば、中にいる誰かにも影響を及ぼしかねないからだ。
「くそったれ……!」
悪態をつきながら、およそこの世のものとは思えないそれをちぎって投げ捨てる。
黒紫のそれは、何の臭いも持たなかった。
しかし、肉をヘドロで覆ったようなそれは桐葉に強い嫌悪を抱かせる。
粘り気も強く、思うように引き剥がすことができない。
それがいっそう桐葉の不快感を掻き立て、彼の手つきを乱雑なものへと変えていく。
「……消えなさい。完全に」
隅に溜まったところで消滅させるのは、衣璃亜の役目。
近寄ろうともせず、隅に積み上がった破片の集合体を青白い光で消し去った。
その表情は桐葉同様、或いはそれ以上に不快感に満ちている。
小さな山が作り上げられては消滅を繰り返す。
それだけの破片を消し去っても、終わりが近付く感覚は衣璃亜にもまるでなかった。
(あと少しの筈、なんだけど……っ!)
大きな塊を投げ捨てようと、取り込まれた人を見つけ出すことはできない。
桐葉が引っ張り出そうとしても、膨大な黒紫が救出を阻む。
かすかに見える手を掴んで力任せに引くなど、桐葉にできる筈がない。
取り込まれた誰かの顔も見えない中で手を引こうと、余計に痛めつけるだけ。
「どけって、の……!」
故に桐葉は、自らの手で探し続けた。
不快感の象徴とも言える黒紫を引きちぎっては後ろへ投げ捨て、探し続けた。
「っ、そこ……!」
彼らの努力が実を結ぶまで、そう時間はかからなかった。
黒紫の中、浮かび上がってきた人の顔。
桐葉より二回りは歳を重ねていそうな、髭の濃い男。
「聞こえますか! 聞こえますか!? ――聞こえているなら、返事をしてください!」
桐葉の呼びかけに、応じる声はない。
桐葉の手が動きを止めることは、決してない。
固く閉じた瞼に、荒い呼吸。
二つの事実は桐葉に安堵と焦りの二つを新たに与えた。
「しっかり、しっかりしてください! すぐに、助けますから――!」
黒紫の異物を引きちぎる桐葉の両手に、一層力がこもっていく。
巨大な心臓にも似た黒紫の鼓動が完全に停止したのは、それから間もなくのことだった。
「……っつーことは……どういうことだよ?」
「待って。さすがに少し、待って……」
すぐには答えられそうにない。
時間をかけている場合じゃないのは分かっているけど、少しだけ息を整えさせてほしい。
取り込まれたあの人を助け出して、トイレの残りも全部確かめた。
必要以上に時間をかけることなく、確実に。
この人の体調も心配だったから、引き返すしかなかった。
集まった人達にも、結局自力で階段を降りてもらうしかなかった。
……協力し合ってどうにかって感じだったから、この人のことまでは頼めなかった。
この人の意識があれば、また違ったんだろうけど。
――そうして、隙間から偶然見つけた。
何故か小城と東雲さんの姿があって、その傍にあの化け物もいて。
急げと思うあまり、火力の調整も何も考えずに魔法で仕留めてしまった。
全速力で走って、あと少しだと思ったところにこれだ。予想できるわけがない。
そこに待ったをかけられたら、足も止まる。
……イリアも疲れが溜まっていたから、一概に悪いとは言えないけど。
「ほ、本当に大丈夫……? そんなに疲れてるなら、その、後ろの人をいったんそこに寝かせた方が……」
「いや……大丈夫。少し、時間が欲しかっただけだから。説明、移動しながらでもいい?」
「い、いいけど……」
結局、男の人のことは小城にも手伝ってもらいながら見てきたことを全部話した。
怪物に襲われた場所は無作為的に選ばれた。
あのトイレも、きっと拠点の一つでしかない。
どちらも予測を多分に含んだ内容だったけど、他に考えられなかった。
東雲さんから話を聞いても、その意見は変わらなかった。
案の定、怪物は他の階にまでその勢力を拡大していった。
放送用の機材も壊されていたそうだから、そのために一旦散らばったのかもしれない。
(……やっぱり、指示したやつがいたんだろうな)
今はもうどこかに逃げてしまったかもしれないけど。
あの怪物はただ本能的に襲うことしかできない。
ただ、具体的な命令があれば話は変わる。
見聞きした範囲の話だけど、そこまでピンポイントで何かを狙うことは珍しい。
特に機械なんて、魔力の反応も何もない。
「……そういうことなら、やっぱりこの人を連れて一旦外に出た方がいいな……。東雲先生たちが来るまで、もう少しだろうし」
「ご、ごめんなさい。勝手に動いて……」
イリア曰く、命に別状はない。
それでも長く放っておいていいわけでもない。
この人を連れたまま、あちこち見て回ったら、それこそどうなるか分からない。
「謝ることなんてないって、何も。おかげで助かったんだから」
「そーそー、そんな顔しなくたっていいじゃねーか、な?」
「お前はもう少し罪悪感を持った方がいいけどな?」
助かるけど。反対側から支えてくれてるおかげで、大分楽だけど。
「仕方ねーだろ。放っておけなかったんだから。これでも結構悩んだんだぜ?」
「だからって、何も引き返さなくても。あの化け物がどれだけいるかも分からなかったのに」
「そんな場所に真っ先に飛び込んでいったオメーが言うか、それ?」
「誰かが行かなきゃ……って、さっきも言った気がするんだけど。この話」
あの時は役割分担で納得してくれたのに。
別にあれから状況が大きく変わったわけでもない。
まさかお客が一気に逃げ出すとは思わなかったけど、それはそれ。
自力で逃げられるならそれでもいい。
……記憶の処理が大変になるだろうけど。
「それよりオメー、ほんとに大丈夫なのかよ? この人ひとりくらい、俺だけでも連れていけるぜ?」
「じゃあ、一人で外まで一気に走って行けるなら頼む」
「ぅぐっ……」
……もしかしたら、小城と東雲さんにはもう一走りしてもらうかもしれないのに。
下りのエスカレーターまであと少し。
今のペースも、焦るほどじゃない。
「冗談を言っている場合ではないでしょう……。気を抜くような状況ではありませんよ」
「いや、本気。救急隊がいるなら引き継いでもらった方がいいと思ってる」
勿論、いたらの話。
ここに駆けつける頃には、組織のメンバーが制圧してる筈。
――嫌な予感は、その時からしていた。
「っ……?」
思わず、足を止めた。
足を止めたことに、自分でも驚いた。
何かが危険だと身体が叫んで、否応なしに止められた。
「…………はっ!?」
――直後、目の前を覚えのない紫の光が駆け抜けた。




