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第2話 託された導き

「国王陛下!」


 馬に足をかけようとしていたレルベスが、振り返った。


 紅白色の鎧を纏った兵士が慌ててカルカを制しようとしたが、レルベスはそれを静かに手で制する。


 祖母に「話してこい」と言われたものの、何から口にすればいいのか分からない。カルカの胸中はひどく混乱していた。


 西の大魔導師と呼ばれた祖母、その旧友である国王。少年の小さな世界を支えていた常識が、音を立てて崩れていく。


「カルカ。君の瞳は綺麗な青だな。……その顔立ちも、母親によく似ている」

「母を……知っているのですか?」


 混乱の波に、新たな事実が打ち寄せる。


「ああ。君の母も美しい魔法使いだった。小柄だが、その体にそぐわぬ膨大な魔力を秘めていた」

「母さんも……魔法使い……」

「……ヒルミーユから何も聞いていないのか?」

「はい」


 自分の両親について、祖母から聞かされたことは一度もなかった。考えることすら諦めていた過去の真相が、目の前で次々と明かされていく。


「まだ少し時間がある。歩きながら話そう。カルカ、君の羊を見せてくれないか?」


 兵士たちを村の外で待機させ、二人は並んで牧区へと向かった。


 崖沿いの小道には、柔らかい潮風が吹き抜けている。潮の香りを胸いっぱいに吸い込むと、カルカの頭は少しずつ冷たさを取り戻していった。


「僕は……自分のことを、何も知らなかったみたいです」

「気にする必要はない。ヒルミーユは大陸一の魔導師だったが、同時に秘密主義者でもあった」

「婆ちゃんは、一体何をしたんですか? 陛下がそこまで尊ぶようなことを……」


 カルカの問いに、レルベスの口元がわずかに緩んだ。そこには懐かしさと、拭いきれない寂しさが混ざり合っている。


「彼女の偉業は数多い。とても私の口から語り尽くせない程にな」


 牧区が見えてくると、荒々しい喧騒が耳に届いた。ディルとリルーが焦燥しきった様子で駆け回っている。


「おいカルカ! 手を貸してくれ! 馬の足音に驚いて羊たちがパニックを起こしかけてる!」


 四百匹を超える巨大な群れが将棋倒しのように押し合い、崖側の危険なエリアへ流れ込んでいた。一歩間違えれば、大量の滑落事故につながる。


 カルカの瞳から迷いが消えた。一歩前に踏み出し、騒然とする牧草地全体へ静かに視線を走らせる。


 群れの歪み、恐怖の源泉、波及する混乱の速度ーーそのすべてを一瞬で把握した。


 カルカは腰の牧笛を口に当て、短く二度、音を鳴らした。


 吹き込まれたのは、ただの空気ではない。無意識のうちに注がれた僅かな意志が風に乗り、広い牧草地全体へ波紋のように広がっていく。


「ーー左を締めて。右へ押し戻すんだ」


 静かな指示に反応し、先頭の数匹がピタリと足を止めた。カルカが牧杖で指し示した合図に合わせ、群れの中心にいた羊たちが、まるで一つの命であるかのように整然と隊列を変えていく。


 乱れていた四百の群れは、わずか数秒で美しく穏やかな円陣を描き、静まり返った。


「……見事だな」


 一部始終を見届けていたレルベスが、感嘆の息を漏らした。


 群れが落ち着いたのを見届け、ディルとリルーが慌てて駆け寄ってくる。


「カルカー! 流石ね! ……このおっさん誰?」

「ばっ……! この無礼者が!」


 リルーの頭にかち割れんばかりの拳骨が落ちた。額に冷や汗をかいたディルが、国王の前に勢いよく平伏する。


「も、申し訳ございません陛下! 無礼な娘で……! ほらリルー、頭を下げろ!」

「いや、構わない。楽にしてくれ」


 二人が恐縮しながら作業に戻るのを見送り、レルベスは優しく目を細めた。


「話の続きだったな、カルカ。……君は、何を知りたい?」

「……自分のことが知りたいです」


 率直な本音だった。一日で世界が一変してしまった今、自分が何者なのかを知りたいという想いが溢れ出していた。


「……君について、私から多くを語るつもりはない」

「では、陛下と婆ちゃんは、どういう関係だったんですか?」


 潮風を受け、レルベスは遠い目をした。


「国王になる前、私とヒルミーユ、そしてもう一人で冒険者パーティを組んでいた。過酷で……けれど輝かしい旅だったよ。……そして私たちは、大きな戦いに身を投じた」


 慈愛に満ちていた国王の顔が、険しく引き締まる。どれほど壮絶な戦いだったのか、少年の胸にも痛いほど伝わってきた。


「多くを救うために、多くを犠牲にし、多くの命を奪った。今でもあの決断が正しかったのか、自問し続けている」

「それが……さっき家で話していたことですか」

「そうだ」


 レルベスは静かに空を見上げて少し考え、カルカに語りかけた。


「君の祖母が言った通り、時代が変われば評価も変わる。……カルカ、君のその目で、私や、ヒルミーユが踏み越えてきた世界を見てみないか?」

「僕の目で……?」

「王都にある冒険者協会の門を叩きなさい。君が知りたい真実への道は、そこから繋がっている」


 冒険者。王都。


 この村から出たことのないカルカの胸が、大きく跳ね上がった。外の世界へ出れば、大魔導師だった祖母の過去も、顔も知らない両親の真実も、すべて知ることができるかもしれない。


 だが――ベッドで横たわる弱り切った祖母の姿が胸を掠める。そして、ともに暮らしてきた羊たち。


 見慣れた温かな日常と、未知なる世界への強い憧憬。二つの想いの狭間で、カルカの心は激しく揺れ動いた。


 ふと見上げると、海と空が鮮やかな茜色に染まっていた。夕陽を浴びて輝く羊たち。アンダ村で最も美しい景色が、そこにあった。


「…無理にとは言わない。この村には、君を留めるだけの美しい魅力がある」


 レルベスは静かに振り返り、元の道を歩き始めた。そして立ち止まり、鞄から革表紙の擦り切れた一冊の古い本を取り出した。


「これは?」

「私が冒険者になったばかりの頃、ヒルミーユから渡された魔術の入門書だ。私は剣ばかりで魔術の才能はからっきしだったが……君はそうではないらしい」


 懐かしそうに微笑み、本をカルカの手の上にそっと載せる。


「あ……ありがとうございます!」


 遠ざかる国王の背中に、カルカは精一杯の感謝を叫んだ。アンダ村の夕陽が、少年の頬を赤く染め上げていた。


 すっかり夜の闇に包まれた我が家では、小さなランプの灯りが静かに揺れていた。


 擦り切れた入門書を抱え、カルカは静かに祖母のベッドへ歩み寄る。


「おかえり、カルカ。レルベスと話せたかい?」

「うん。……ねえ婆ちゃん。国王様が、これをくれたんだ」


 本を目にした瞬間、ヒルミーユの細めた瞳が揺れた。


「まったく、あの男め。まだ持っていたのかい。てっきり剣の素振りで破いたと思ってたよ」

「……婆ちゃん。僕、自分のことを知りたい。でも……婆ちゃんを置いてどこにも行きたくないよ!」


 堪えきれず溢れ出た本音に、声が震えた。


 ヒルミーユはゆっくりと小さく痩せた手を伸ばし、カルカの頭を優しく撫でた。かつて幾多の奇跡を紡いだ手は、今はとても温かかった。


「カルカ。お前が気にする必要はないんだよ。私なんかの看病で、お前の大切な時間を使い果たすんじゃない」

「そんなこと……!」

「王都へ行きなさい。そこには私の弟子の一人、ロピアーナがいる」

「……弟子?」

「今は宮廷魔術師をやっているはずさ。今の私じゃもう満足に教えてやれないが、あの子ならお前の良き師となる。……お前の母親のことも、よく知っているよ」


 ヒルミーユは枕元から、刻印の擦り減った小さな銀の指輪を取り出し、カルカの手の中にそっと握らせた。


「それを見せれば嫌とは言わないさ。……自分の道を行きなさい、カルカ。羊を導くように、己の意志でね」


 祖母の強い眼差しと温もりに、カルカは溢れ出る涙を必死にこらえ、深く頷いた。


 二日後の早朝。旅立ちの刻は静かに訪れた。


 右手には使い慣れた牧杖。背中の鞄には牧笛と入門書、そして銀の指輪。


 全財産である六十二匹の羊たちが、別れを察したように穏やかな視線を送ってくる。カルカが最後に短く牧笛を鳴らすと、羊たちは少年の門出を祝うように一斉に鳴き声を上げた。


「カルカ、たまには手紙くらいよこせよ」


 見送りに来たディルが、寂しさを隠すように笑う。村の住民たちも集まってきていた。


「僕の羊、よろしくね。ディルおじさん」

「気にするな。四百匹も五百匹も変わらんさ」

「ふふ、ありがとう。……そういえば、リルーは?」

「あー……昨晩お前が旅立つって知ってから、部屋に引きこもっちまってな」


 リルーらしいと思いながらも、挨拶もできずに去るのはどこか寂しかった。


「じゃあ、行ってくるね」


 深々と頭を下げるカルカに、温かな歓声が送られる。


 玄関口では、ヒルミーユが静かに手を振り、孫の背中を見守っていた。


 二日前に国王軍が通ったばかりの街道はきっと安全だ。元々ここら辺の道は獣や盗賊の心配はない。不安を振り払うように、カルカは力強く踏み出した。


「カルカー――っ!」


 背後から、裂けるような叫び声が響いた。


 振り返ると、高台から全身で大きく手を振るリルーの姿があった。カルカも思い切り手を振り返す。


 朝日に輝くアンダ村の美しい海と、大好きな人々の姿を瞳に強く焼き付け、少年は前を向いた。


 目指すは王都、そして宮廷魔術師ロピアーナのもとへ。


 羊飼いの少年が自らのルーツと真実を追い求める物語が、今、幕を開けた。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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