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第1話 東の外れの来訪者

 コンフィ王国の東の果てに位置するアンダ村は、別名「羊飼いの村」と呼ばれている。


 国一番の特産品とされる羊毛を支えるこの村では、住民の誰もが羊とともに生きていた。


 少年の朝は早い。日の出より前に家を出て、先端の曲がった牧杖を手に牧区へと向かう。道すがら、大きなあくびを噛み殺していると、決まって隣家のおやじから声が飛んでくる。


「カルカ! おはよう!」

「ディルおじさん。おはようございます」


 毎朝の掛け合いが、カルカの頭を爽やかに覚ましていく。夜の名残を留める深い青空が、朝日を受けて少しずつ羊たちと牧草の輪郭を浮き彫りにしていった。崖の向こう、水平線が金色に輝き始める。


 寄せては返す波の音、羊たちの穏やかな鳴き声、そして吹き抜ける潮風。それがカルカの愛する日常だった。


 カルカが管理する牧区は小さい。六十二匹の羊たちが彼の管轄であり、全財産だ。対するディルの牧区は広く、扱う羊も四百匹を超える。カルカは自分の群れを世話する傍ら、よくディルの手伝いをしていた。


「ディルおじさん。水場の手入れ、終わらせておくね」

「助かるよ、カルカ。無理はすんなよ」


 物心ついた頃から祖母とふたり暮らしのカルカにとって、ディルは父親のような存在だ。羊飼いのいろはからサボり方、美味い料理のお裾分けまで、数え切れない恩があった。


「パパ! お昼だって! カルカも食べる?」


 ディルを父と呼ぶなら、その娘はカルカにとって姉のようなものだ。ディルとお揃いの茶色い髪が、朝日に照らされて眩しく光る。


「ありがとう、リルー。でも僕は、婆ちゃんの様子を見に戻るから」

「そっか! 食べたくなった頃にはもう無いんだからね!」


 そう言い残し、彼女は元気に走っていった。一年前から体調を崩し、加速度的に弱っていく祖母の話題は、村の誰もが気を使っていた。けれど、二つ年上のリルーは良い意味で気を遣いすぎない。溌剌とした彼女を、カルカは一度も姉だと思ったことはなかったが、その明るさには救われていた。


「……婆さん、最近はどうだ?」


 ディルが紫煙をくゆらせながら、ため息交じりに尋ねてくる。


「変わらないよ。おじさんこそ、そんなに煙草ばかり吸ってたら体に毒だよ」

「煙草ってのはな、やめた時の方が体に悪いんだよ」


 出鱈目な理屈だが、ディルが本気で禁煙に失敗し続けているのをカルカは知っていた。


 作業の手を止め、ふと牧草地に目を向ける。羊たちが一斉に耳をそばだて、不安げに身を寄せていた。地面の微かな振動を、鋭い野性の感覚が察知しているようだった。


「パパ……カルカも、来て!」


 先ほどとは打って変わり、リルーが切迫した顔で戻ってきた。ディルとカルカは顔を見合わせ、急ぎ彼女の後を追う。


「どうしたリルー? 飯でも落としたか?」

「違う! あれ見て!」


 小高い丘に登り、リルーが指さした大通りを覗き込む。


「……国王軍だな、ありゃあ」


 ディルの呟きに、カルカは息をのんだ。


 目に飛び込んできたのは、はためくコンフィ王国の軍旗。整然と進む二十頭ほどの騎馬と、赤と白の洗練された鎧を纏う兵士たち。都から遠く離れた田舎村に、なぜ国王軍が――。


 嫌な予感が、胸の奥で冷たく渦巻いた。


「これ、どこに向かってるの?」

「……カルカの家だ」


 リルーの呟きとカルカの直感は一致していた。振り返るやいなや、カルカは地面を蹴った。


「カルカ! おい、落ち着け!」


 ディルの制止も耳に入らない。羊たちを横目に丘を駆け下りる。家までは全速力で十分ほど。だが、馬に乗った軍勢の方が早く着いてしまう。


 なぜ自分の家なのか。そんな疑問よりも先に、弱り切った祖母の顔が浮かんだ。


 心臓が破裂しそうなほど脈打ち、肺が灼けるように熱い。泥をはね上げ、なりふり構わず走り続けた。


 家が見える角を曲がると、すでに赤白色の軍隊が立ち塞がっていた。村人たちが玄関の前に立ち、不在のカルカに代わって必死に対応している。


「……国王様、ウチの羊を一匹捌きましょうか? だから……」

「いや、良い。その羊は君の財産だ」


 白馬から静かに降り立った男がいた。白い髪と髭を湛え、深く刻まれた皺の中に底知れぬ威厳と温かな慈愛を宿した男――コンフィ王国国王、レルベス。


 カルカは乱れた息を押し殺しながら駆け寄り、村人の横で膝をついた。


「はじめまして、国王陛下! この家の住人、カルカと申します!」


 昔読んだ本で覚えた、うろ覚えの貴族風の挨拶。それが田舎育ちの少年にできる限界だった。


 レルベスは優しく目を細めた。


「はじめまして、カルカ。コンフィ王国国王、レルベス・コンフィ・マオドットだ。……ヒルミーユはいるかね?」


 なぜ国王が祖母の名を知っているのか。カルカが困惑に固まった瞬間、背後のドアが軋んだ音を立てて開いた。


「……墓参りには少し早かったね。レルベス」


 かすれ切った声。ベッドで寝ているはずの祖母が、そこに立っていた。


「……ただ、貴方を一目見たくて。ご無沙汰しております、ヒルミーユ」


 国王レルベスは、慈しむような眼差しを向けると、自ら泥の上に膝をつき、深く頭を垂れた。コンフィ王国において最高位の敬意を示すお辞儀。


 周囲の兵士たちも、村人たちも、息をのんで静まり返る。


「婆ちゃん! 大丈夫なの?」

「なんとかね……。二人とも入りな。カルカ、お茶を沸かしておくれ」


 家へ入ろうとするレルベスに制服の兵が従おうとしたが、国王はそれを片手で制した。


 狭い部屋の机に向かい合う二人。カルカは戸惑いながらお茶を準備しつつ、こっそりと二人の会話に耳を澄ませた。


「……『西の魔女』も、老いには勝てませんか」

「ふふ、あんたの取り巻きが騒がしくするから、また寿命が縮んだよ」

「そう言わないでください。今の立場では、一人で出歩くことも叶わないのです」


 カルカの頭は混乱でパンクしそうだった。国王が祖母に敬語を使っている。それに「西の魔女」とは何だ。ここは大陸の最東端で、魔法なんて物語の中にしか存在しないと思っていた。


「お茶です」


 平静を装ってお茶を差し出す。弱々しい手で湯呑みを持ち上げる祖母を見て、レルベスの表情が悲痛に陰った。


「そんな顔をするなよ、レルベス。誰にだって等しく終わりは来る」

「……西の大魔導師ヒルミーユ。コンフィ王国国王として、最後に貴方に問いたい。……私達の戦いは、果たして正しかったのだろうか?」

「そんなものは私達が決める事じゃない。時代が変われば評価も変わるさ」


 ヒルミーユは慈愛に満ちた目でカルカを見た。直後、激しい咳に襲われる。


「ごほっ! ごほっ……!」

「婆ちゃん!」


 カルカは慌てて駆け寄り、小さくなった祖母の体を抱きかかえてベッドへ横たえた。レルベスも傍らに寄り添い、彼女の痩せこけた手を両手で包み込む。そこには国王の威厳はなく、ただ旧友を案じる一人の男の顔があった。


 荒い息を整えたヒルミーユが、ゆっくりと目を開ける。


「……ん? ……墓参りには少し早かったね。レルベス」


 それは、数十年ぶりに再会した友に対する、二度目の第一声だった。


 刻一刻と記憶が零れ落ちていく祖母の現実。それを目の当たりにしたレルベスは、胸を突かれたように固まり、痛烈な動機を隠せなかった。


「婆ちゃん、この人は…」

「ああ…カルカ、お茶を沸かしておくれ」

「……いえ、もう、行きます」


 レルベスは搾り出すような声で呟き、静かに立ち上がった。


「もう行くのかい? 流石は国王、多忙だね。目的は済んだのかい?」

「ええ。……ただ、貴方を一目見たくて。それでは失礼します、ヒルミーユ」


 去っていくレルベスの背中をベッドから見送る祖母の視線が、机の上に残された冷めた二つの湯呑みに止まる。


「カルカ。……あいつは、私に何か聞いたかい?」

「……うん。『自分達の戦いは正しかったのか』って」

「……そうかい。……あいつと少し話しておいで。お前のために、なるかもしれないから」


 祖母の言葉に背を押され、カルカは玄関へ向かい、遠ざかる国王の背中を追った。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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