09.過激なる「推し活条例」の衝撃
マルバスからスラム街の不穏な報せを聞いた翌朝、奏の決意を嘲笑うかのように、魔王城の掲示板にとんでもない羊皮紙が貼り出された。
そこには、アスモデウスの禍々しい署名と血判とともに、信じられない文字が躍っていた。
『魔界全土緊急発令――【奏様尊厳保護および、全魔族健全推し活条例】の施行について』
大厨房へ向かう途中でそれを見つけた奏は、文字通りその場に凍りついた。貼り出された羊皮紙を這うようにして読み進めるうちに、奏の顔からみるみる血の気が引いていくのが分かった。
条例の条文は、あまりにも過激で、あまりにも理不尽な内容だった。
『第一条。奏様の周囲三メートル以内への接近を厳禁とする。これを破りし者は、魔王直々の威圧による【魂の磨り潰し】に処す』
『第二条。奏様と目が合ってよいのは、一回の給仕につき最長三秒まで。それ以上の直視は『不敬の凝視』とみなし、幹部クラス以外の魔物は即座に最下層の魔力鉱山へと強制連行する』
『第三条。奏様がため息を一つつけば、城内の全魔族は跪いて平伏し、その悲しみを我が身に受ける誓いを立てねばならない。なお、奏様が庭仕事で汗をかかれた場合、特注の魔力冷却扇風機を起動し、周囲の悪魔は呼吸を止めて空気の清浄に努めること』
「……って、何、これ……?」
あまりの内容の凄まじさに、奏は眩暈を覚えた。
あのアスモデウスが、奏を『推し』として異常なほど神聖視しているのは今に始まったことじゃない。けれど、今回のこれは明らかに一線を越えていた。単なる個人的なオタク行為の枠を飛び越えて、魔王の絶対的な権力をフルに行使した、魔界の法律になってしまっている。
「奏様、おはようございます……っ!」
背後から声をかけられ、奏が振り返ると、そこには昨日のゴブリンくんがいた。
けれど、彼の様子は明らかにおかしかった。いつもなら奏の顔を見て嬉しそうに鼻の穴を膨らませるのに、今日の彼は奏からきっかり三メートル以上の距離を保ち、目は血走るほど強く地面を見つめている。身体はガタガタと小刻みに震え、まるで死刑宣告を待つ罪人のようだった。
「ゴブリンくん、おはよう。どうしたの? そんなに遠くにいないで、こっちで今日のメニューの話を――」
「ひ、ひえぇぇぇっ! 奏様、それ以上こちらに近づかないでくださいまし! 条例違反で俺の魂が粉々に粉砕されてしまいますだ!」
「えっ、でも――」
「あと、目、目が合いそうであります! 三秒、一、二、ああっ、もう駄目だ! 俺は鉱山に行きたくない!」
ゴブリンくんは頭を抱えて猛烈な勢いで土下座をすると、そのまま文字通り脱兎のごとく廊下の向こうへと走り去ってしまった。
「待って、ゴブリンくん!」
伸ばした奏の手は、虚しく空を切るだけだった。
掲示板の羊皮紙を見上げる。アスモデウスが奏を想ってやってくれたことなのは、痛いほど分かる。アスモデウスは奏を傷つけたくない一心で、この世界に存在するあらゆる危険や不浄なものから奏を隔離しようとしているのだ。
だけど、この過激すぎる条例のせいで、奏と城の魔物たちの間に、目に見えないほど巨大で頑丈な『壁』が築かれてしまったことを、奏は冷や汗とともに実感していた。




