08.存在意義の証明、そして予兆
その日の夜、奏は再び、誰もいない静かな寝室で姿見の前に立っていた。
昨夜と同じ、天蓋付きのベッドと、広い部屋。けれど、鏡の中に映る自分の瞳は、昨日とは少しだけ違う光を宿しているように見えた。
「僕の……存在意義」
ぽつりと呟いた言葉が、部屋の空気に溶けていく。
アスモデウスは、奏を『推し』として愛してくれる。その愛は、本当に深くて、温かい。キスをされ、強く抱き締められたあの夜、奏は自分の身体が溶けてしまいそうなほどの幸福を感じた。
けれど、奏がただの『神聖なアイドル』で居続ける限り、奏たちの関係はあの境界線を超えることはない。アスモデウスは、奏を汚したくないと願うあまり、自分を一人の対等な『男』として、真の伴侶として抱くことを自らに禁じているのだから。
(もし僕が、ただ守られるだけの偶像を辞めて、自分の足で立ち、誰かを救うことができたら……)
そうすれば、自分は本当の意味で、アスモデウスの隣に立つ資格を得られるのではないだろうか。
アスモデウスにとっての『崇高な推し』ではなく、共に世界を歩む『唯一のパートナー』として、認められる日が来るのではないだろうか。
そのためには、ここにいるだけでは駄目だと奏は思った。
自分が本当にみんなを照らす『鏡』になれるのか、それとも過去の人間界の時のように、ただの偽物の偶像でしかないのか。それを、自分自身の力で証明しなければならない。
「僕は、何のためにここにいるんだろう。アスモデウス様の隣に立つって、一体どういうことなんだろう……」
鏡の中の自分に問いかけても、明確な答えは返ってこない。
けれど、昨夜のような果てしない無力感や孤独は、もうなかった。胸の奥にあるのは、自分の存在意義を突き詰めたいという、静かだけど確かな覚悟だった。
トントン、と。
その時、静まり返った室内に、控えめなノックの音が響いた。
「奏様。マルバスでございます。夜分遅くに恐れ入りますが……少々、お耳に入れたい件がございまして」
開いた扉の向こう、マルバスの表情は、昼間の講義の時よりも遥かに厳しく、張り詰めたものだった。
その手に握られた一枚の書状を見た瞬間、奏の胸騒ぎは確信へと変わる。
「……マルバスさん、何があったんですか?」
「奏様のかつての故郷……人間界の境界に隣接するスラム街にて、深刻な動きがございます。王宮の軍勢が、不穏な行軍を開始したとの報せが入りました」
その言葉を聴いた瞬間、奏の心臓が大きく跳ね上がった。
ついに、運命の歯車が回り出したのだ。奏が自分自身の存在意義を問い始めたこのタイミングで、過去の因縁が、そして奏の大切な人たちが待つあの場所が、奏を呼んでいる。
恐怖はなかった。ただ、奏の瞳に、宿るべき強い意志が静かに灯っていくのを、奏は鏡の向こうの自分の中に、確かに見た。




