07.守られるだけの鳥籠を超えて
マルバスは、自分の様子をじっと見つめていたけれど、深く追及することはしなかった。ただ、静かに開いていた書物を閉じた。
「本日の講義は、ここまでにいたしましょう。少々、詰め込みすぎましたな。奏様、残りの時間はどうぞご自由にお過ごしください」
「……ありがとうございます、マルバスさん」
奏は頭を下げ、逃げるように図書室を後にした。
長い回廊を一人で歩きながら、奏はマルバスの言葉を、何度も何度も頭の中で反芻していた。
『王妃様はその光を受け止め、世界の隅々へと優しく反射させる鏡』
『民の生きる希望』
今の自分は、どうだろう。
この魔王城で、アスモデウスにこれ以上ないほど大切に守られている。
美味しい食事、温かいベッド、綺麗なメイド服。自分が少しでも困った顔をすれば、アスモデウスは世界を滅ぼさんばかりの勢いで駆けつけてくれるし、自分の歌を聴いては「尊い」と涙を流してくれる。
確かに、ここは人間界の王宮のような地獄じゃない。誰も自分を道具として利用しないし、誰も罵らない。
だけど――それは同時に、奏が「ただ守られているだけの存在」だということの裏返しでもあった。
奏は回廊の大きな窓から、城の外の世界を見下ろした。
窓から見えるのは、手入れの行き届いた英国風の庭園や魔物たちが切磋琢磨し、野菜を収穫している広大な農場。中央の噴水では、水の精霊たちが楽しそうに踊っている。
赤黒い大地が広がり、獰猛な魔物たちが生きるために争う、過酷な魔界の荒野と人間界では言い聞かされていたものと真逆の環境。そのずっと遠く、境界の向こう側には、自分を捨てた人間界があり、そして、奏がかつて暮らしていたあの薄汚いスラム街があるはずだ。
(僕は……ただここで、アスモデウス様の優しい鳥籠の中で、綺麗な飾り物として生きていくだけでいいの?)
胸の奥から、ふつふつと湧き上がる熱い感情があった。それは、過去のトラウマに対する恐怖を塗り替えるほどの、強い衝動だった。
人間界での奏は、無力だった。誰かを救うどころか、自分の身を守ることすらできずに、すべてを奪われて追放された。
だけど、今の奏には、アスモデウスがくれた居場所がある。奏の歌を「宝物だ」と言ってくれる、この城の魔物たちがいる。そして何より、奏自身の胸の奥には、かつて踏みにじられたからこそ、誰よりも強く理解できる『弱者の痛み』がある。
(もう、誰かの都合のいい道具として歌うのは嫌だ。だけど……ただ守られて、何もしないままなのも、絶対に嫌だ)
奏は窓ガラスに自分の額を押し当てた。冷たい感触が、高ぶる頭を少しだけ冷ましてくれる。
(僕は、ただ守られるだけの存在にはなりたくない。アスモデウス様の後ろに隠れて、恐怖に怯えるだけの哀れな王妃候補のままでいたくない。もし僕が本当に『鏡』になれるなら……今度こそ、自分自身の意志で、本当の弱者を、本当に苦しんでいる人たちを救うための存在になりたい)
かつてスラムで飢えていた子供たちの笑顔が、脳裏をよぎる。
だけど、今の奏の背後には、世界を統べる魔王の力が、そして奏を無条件で愛してくれる『最強のファン』がいる。その事実は、奏にこれまでにない大きな勇気を与えてくれていた。
「本当にこのままでいいのかな?」
守られる側から、守る側へ。誰かを救うための力を、奏は欲していた。




